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18、記代子

 東言葉あずまことのはは仕事を休んで鈴音市民病院にやってきていた。

 この地は言の葉にとって所縁多い地であるが、八井田玄やいだげんにとっても一波乱あった場所のようだった。


 言葉は玄と出会った公園を訪れた。

 かつてに比べ少しだけ変容していた。いくつかの遊具が使用不可になり、撤去されたスペースにグラウンドができていた。

 親子がボール遊びに興じていた。


 言葉はこの町を一望できる高地にやってきた。

 この景色は昔から変わらなかった。

 持ってきたデジカメで何枚か写真を撮った。


 八井田玄はこの地で誰かと出会い、その結果小説家の道を志すようになった。

 その出会いを理解しなければ、八井田の超大作は完成しなかった。

 言葉には八井田の遺産を完成させる義務があった。


 言葉は世話になっていた看護師を当たってみることにした。

 言葉には長く世話になっていた看護師がいた。

 梅津敏子うめつとしこは長く鈴音病院に勤めた実績のある元看護師だ。

 看護学校を出てから62歳になるまで、実に40年以上鈴音病院に勤務していた。


 現在は65歳になる。

 いまは病院を退職して、近くの老人施設に入居していた。

 利用者兼施設のスタッフとして、今でも働いていた。


 敏子は言葉のことを良く覚えていた。

 言葉が訪れたのを見ると、敏子は嬉しそうに茶菓子を引っ張り出してきて、言葉をもてなした。


「まあ、なんという僥倖でしょうか。こうして言葉ちゃんがこんな年寄りのところを訪れてくれて」


 敏子はニコニコとほほ笑んだ。

 落ち着生き払っていて、とても幸せそうだった。良い年の取り方をしていた。


「私は言葉ちゃんが生まれたころから知ってますからね。私は当時学生だったけど、ものすごく難産で病院中があわてふためいていたのを良く覚えているわ」


 敏子は遥か昔のことを思い出しながら、その間にみるみる若返っていくようだった。


「私は何も覚えていませんが、私はつくづく迷惑をかける身だったのですね」

「ほっほ、そのための看護という仕事じゃ。そりゃあ、こんな大変な世界に生まれて誰が一人で生きていけるゆうて」


 敏子は微笑んでそう言ったが、勤務の間に大変な目にたくさん遭って来たものと見えた。


「今日は、敏子さんの印章に残っている患者さんの話をお聞きしたくてやってきたのです」


 言葉がここにやってきた理由を話すと、敏子は手を叩いて笑った。


「そりゃあ、一番は言葉ちゃんだよ。そりゃあもう、みんなヒヤヒヤの連続じゃったて」

「私以外には?」


 言葉にとっては、鈴音病院の出来事は黒歴史の塊のようなものだったので、あまり聞きたくはなかった。


「そうねえ、40年も務めておると、そりゃあ色々な人がいましたよ。ほうじゃ、階段から落ちて血まみれでやってきたおじいさんじゃよ」


 敏子は思いついた順に患者の話をした。


「おじいさんたら面白いのよ。ちょっと転んで、まあかすり傷だと思うけど、ちょっと消毒してくんな言うてやってきたけど、結果は6針も縫う大けがだったのよ。それから、ネコを連れて来た女性もおったな。私の心臓を移植してうちのルナを助けてってな。返す言葉もなかったわな」


 敏子は面白そうに色々な患者の話をした。いずれも面白おかしく話したので、言葉も釣られて笑った。

 しかし、八井田玄と関連があった「記代子」という人物はなかなか出て来なかった。


 言葉にとってはそれが一番気がかりだったので、直接尋ねてみた。


「あの、記代子という名前の患者さんはいらっしゃいませんでしたか?」

「んー? なんちゅーて?」


 敏子の表情が少し変わったのがわかった。


「記代子という人です。記入の記と交代の代の子と書くようなんですが」

「記代子……あー、記代子ちゃん……」


 敏子は先ほどまでの微笑みを打ち消すと、真顔になった。

 記憶をたどるように天を見上げた。


「ご存知ですか?」

「言葉ちゃん、その子とは面識があったかえの?」

「いえ、ただ知り合いがその名前の人と面識があったようで、もし覚えていたら、話を聞きたいと思いまして」

「ふーむ……」


 敏子は深刻な表情になって、しばらくうつむいていた。

 その患者の話はしてはいけないことになっているのかもしれない。


「ふーむ……」


 敏子はやがて言葉に真顔を向けた。

 言葉は目を背けることなくまっすぐと敏子と向かい合った。


「ふむ!」


 敏子は手を叩いた。

 その場から腰を上げて、奥の部屋に引っ込んでいった。

 雰囲気が大きく変わったので、敏子にとっても重大な人物だったのかもしれない。


 言葉は茶菓子を齧りながら、敏子が戻って来るのを待った。

 敏子はなにやら箱を持って戻って来た。


 敏子はすぐには箱を開けなかった。

 一見普通の箱のようだが、よく見ると、パンドラの箱のような禍々しさを感じることができた。


「あのね、私、ずっとこの箱を開けられずにいたのよ。ずーっと……最近はもう忘れてしまっておった……」

「……」


 二人はしばらく真顔で向かい合っていた。


「私がまだ新人だったころじゃ。ほいじゃから、二十歳のころじゃったかな……」


 敏子は何かを思い出してゾッと体を震わせた。


「私はこの箱を開けられん。良かったら言葉ちゃん……」


 敏子はゆっくりと箱を言葉のほうに向けて押した。

 その手は恐る恐るで力がこもっていなかった。


「もらってくれんか? ほいで、言葉ちゃんの手で開けてくれるか?」

「……」


 言葉は謎の箱を受け取った。

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