16、探究
八井田玄の葬儀も終わり、玄のために不動産管理会社のやるべきことはすべて終わった。
玄の住んでいた部屋はただの空室になった。
清掃業者の手によって、玄の生活臭はすべて消し去られた。
何事もなかったように、日々は動き出していた。
しかし、東言葉にとっては、これからが始まりだった。
玄はこの世を去った。
しかし、彼の魂は言葉の部屋に移住してきた。
言葉の殺風景だった部屋は玄の魂が刻印された呪物によって埋め尽くされた。
言葉は玄の遺産のコピーを2つ取った。
1つを斎藤に送った。斎藤は玄の唯一の血縁者だ。
言葉が生原稿を抱えることになった。
言葉はこの遺産を世に送り出すための壮大な仕事にとりかかった。
言葉は九九九編にも渡る超大作「神の死んだ日」を改めてもう一度読み返した。
おそらく、この作品を読んでいられる読者は多くない。
しかし、言葉はこの作品から並々ならぬ衝撃を感じていた。
この大作をどうしても世に送り出したかった。
言葉はこの原稿をどうまとめようか思案しながら作品を読み進めていった。
八井田玄の遺産「神の死んだ日」を要約するとざっとこんな感じになる。
全能なる存在ゆえに退屈していた天使ノワーゼットは無能を知るために現世に降りて来た。
現世のあらゆるものに形を変えながら、ノワーゼットは万物が等しく全能性に満ち溢れている事実を知っていく。
しかし、ノワーゼットは唯一の例外であった「人間」に興味を持つようになる。
人間は唯一、己の全能性に気が付かない存在だった。
それは神が唯一恐れる人間の「特殊能力」だった。
ノワーゼットがその特殊能力を獲得しないように、神はノワーゼットを消滅させようとする。
ノワーゼットは神のたくらみを知り、神を討つ決意をする。
真に全能なる神を倒す唯一の方法は「己の全能性を捨て、自ら滅びの道を歩む」ということだった。
ノワーゼットは自ら滅び、神を認識することもなくなった。
すなわち、それは神の死だった。
どこか哲学的な終わり方で、大衆の共感を呼び込めるような結末ではなかった。
大衆が支持する作品ならば、その後にハッピーエンドに向かうエピソードが挟まっているものだ。
しかし、本作品にはそれがない。
ノワーゼットの滅びによって神が死に、すべてが終わったという盛り上がらない終わり方をしていた。
九九九編の超大作だが、あと一編が追加されて、千編になっていたのなら、また違った印象の作品になっていたのかもしれない。
「ん?」
作品を読み返していたとき、言葉はあることに気が付いた。
これまで作品に集中していたときは気づかなかった落書きに目がいった。
原稿のあちこちや用紙の裏側に落書きが散見された。
「記代子……誰だ?」
落書きによく登場したのが「記代子」という人物だった。
記代子は作中に登場する人物の名前ではない。
しかし、記代子という人物に何かを伝えようとする落書きがいくつもあった。
物語の後半に行くほど、落書きが増えていった。
これも八井田玄のトリックの一つなのだろうか。
言葉はもう一度最初から作品を読み返した。
ていねいにすべての落書きも見落とさず読み進めていった。
集中するがために徹夜が続いて、言葉は現実を見失っていた。
無断欠席が何日も続いてしまった。
しかし、今は会社をクビになるよりも、八井田玄の遺産を探究することを優先したかった。
原稿用紙をよく見ると、消しゴムで消した跡にも「記代子」の名前が見て取れる。
玄がよほど溺愛している女性のようだった。
どこかのアイドルの名前かもしれない。
その道に疎かった言葉はアイドルに詳しい会社の後輩に確認してみた。
「記代子ねえ……おれが知る限りはそういう名前の有名な人はいないっすけどね。えー……あの子……時沢田清子ならいますけど、漢字が違いますからね。清い子と書くんで」
記代子は少なくとも有名人の名前ではなさそうだった。
言葉は記代子という人物について知りたくなった。
この人物を知らなければ、真に「神の死んだ日」を解読したことにならないと思った。