13、狂気
八井田玄は机に向かって鉛筆を研いでいた。
彼の部屋はずっと昔からほとんど変わらない。ただし、少し前まであった壁のカレンダーはなくなっていた。
鉛筆が研ぎ終わると、机の上に落ちていたクズを指でていねいにつまんでゴミ箱に移した。
やがて、机の上は一枚の原稿用紙と一本の鉛筆だけの解放感に包まれた。
玄は両手を広げて、心地よく深呼吸をした。
「ここからが始まりだ」
玄は温かい笑みを浮かべた。その顔は幸せに包まれていた。
「記代子さん、僕は約束通り小説家になれた。作品は順調にヒットしているみたいだよ。でも、僕は君に捧げる小説をまだ完成させていない。これから、僕は君に捧ぐ小説を完成させようと思う」
玄はそう言った。
しかし、彼が言ったような世界は、少なくともこの現実には広がっていなかった。
「僕にはできる。なぜなら、僕は芥川賞を受賞した男なんだから」
玄はそう言うと、本当に幸せそうな表情を浮かべたまま、颯爽とクローゼットの前に向かい、勢いよく戸を開いた。
玄が取り出してきたのは一枚の新聞だった。
その新聞には、芥川賞が決定したという記事が載っていた。
「ほら記代子さん、見えるかい? 僕が芥川賞を受賞したんだ。僕は芥川龍之介になったんだよ」
彼が指さしたところには、八井田玄という名前ではなく、他の名前が載っていた。
「だから、僕には完成させることができる。見ていてよ」
玄は活き活きとした表情で執筆に取り掛かった。
しかし……。
翌日、玄は気落ちした様子で工場のライン作業に出ていた。
「八井田さん? 八井田さん?」
最近入って来た新人の後藤が上の空の八井田に声をかけた。
彼は八井田のもとで指導を受けていたが、八井田のテンションのムラには当初から困惑していた。
「あー、ごめん。何だったかな?」
「梱包の袋を間違えていたみたいなので、ほらサンプルと違うやつになってます」
「ああ、これはしまったな。すぐに取り換えないと」
「八井田さん、本当に大丈夫なのですか?」
「ああ、ごめんよ。少し徹夜で小説を書いていてね。小説家と工場勤務の二足のわらじは大変でね、これからは気を付けるよ」
「……」
八井田は自分が小説家だと思い込んでいる。
このことは他の従業員も知っていて、従業員の一人が事務長に相談したことがあった。
事務長はとりあえず、八井田に話を合わせるようにと従業員に指導していた。
否定すると、八井田の心が余計に悪くなってしまうかもしれないという配慮だった。
しかし、勤務に大きな影響が出るようになっていた。
事務長はようやく決断をした。
事務長は八井田を呼び出して言った。
「八井田君、一度心療内科で診てもらったらどうかな? 疲れがたまっているかもしれないし」
事務長は遠まわしに八井田を誘導した。
「最近、かなり疲れているのだろう?」
「すみません。小説のほうも忙しくて」
「うん、それなら少しどちらかを休めたほうがいい。君にとっては小説が大事なのだから。こっちの仕事を休んだほうがいいかもね」
「しかし、ラインが大変なのでしょう? グエンさんがやめてしまって、今は三人しかいませんから」
「それは何とかする。だからしばらく仕事を休んで、体を休めよう。いい病院を斡旋するから」
「はい」
こうして、八井田玄は医療機関の診断を受けることになった。
色々な検査の末、玄に二つの病名がつけられた。
統合失調症。
胃がん。
◇◇◇
入院を薦められたが、八井田は拒絶して自宅療養に入った。しばらくは投薬による治療のみを受けることになった。
「みんなおかしなことを言うんだ……」
机に向かった玄はぼんやりと宙を見つめていた。
「僕はおかしいとか病気だとか。そんなことあるはずがない。僕は小説の神様、芥川賞を受賞したのに」
玄は現実と妄想の間に揺られながらも、執筆だけは継続していた。
どれだけ、心が悪くなっても、小説を書くと言う使命だけは決して忘れなかった。
しかし、今日はあまりうまく原稿が進まなかった。
玄は気に入らなかった原稿をクシャクシャにまとめて放り投げた。それはゴミ箱には入らずに地面に転がった。
玄はフラフラと町をさまよい始めた。
足元はおぼつかないが、その足はブレーキを失ったかのように前進を続けた。
気が付けば、玄は夜の繁華街にいた。
やがて、玄は高級バーの前で足を止めた。
その店に入ろうとした。
店の前には警備員の男が三人いて、玄を止めた。
「ここは会員証がないと入れないよ。芸能人や政治家ご用達のバーだからね」
警備員はそう言って玄を追い返そうとした。
玄は見るからにみすぼらしい格好をしている。およそ高級バーとは釣り合いが取れない存在だった。
「それなら心配はいらない」
玄はそう言った。
「僕は小説家の大先生だ。芥川賞を受賞した男なのだから」
「え、そうなの? じゃあ、会員証見せて」
「いいとも……」
玄はそう言ってみすぼらしい財布から紙幣を取り出した。
財布から現れたのは一万円札三枚だった。
玄にとっては大金。しかし、この場所では端金だった。
「あんたね、こんなんでどうにかなるわけないでしょ。ここの会員証は年七百万円だからね」
「それぐらいの金持っているとも」
玄はそう言うと、財布に何度も手を入れた。
しかし、財布を逆さまにしたって、三万円を超えるお金は出てこなかった。
「まったく迷惑なおっさんだ。さあさ、帰りな」
「お金ならあると言っているだろ、そうだ、編集長に電話を入れればそれぐらいの端金……」
玄は携帯電話を取り出して、今は亡き母親の携帯電話番号を押した。
当然のごとく……つながることはなかった。
「編集長、今すぐ六百万円を。聞こえていますか?」
「……」
玄は不通の中、架空の編集長に訴え続けた。
あまりに悲しい光景にも見えたが、警備員はこれ以上茶番に付き合いたくなかったので、玄をつまみ出した。
警備員に軽く押されて、玄は地面に転がった。
「おっさんはあっちの居酒屋で飲んできなよ。な? これだけあればいいつまみとビールがたらふく食えるからさ」
「……」
警備員は三万円の入った財布を優しく玄の手の上に置いて握らせた。
しかし、玄は酔っ払いのごとく地面に転んだままふてくされてしまった。財布は玄の手から零れ落ち、地面に転がった。
警備員たちもこれ以上は付き合いきれないので、勤務に戻って行った。
どこかから虚しい風が吹いてきた。
その風を受けた玄は嗚咽をもらし始めた。
通行人はそんな玄を見ながらも、誰も声は掛けなかった。
「ごめんなさい、記代子さん……ごめんなさい……」
玄はしばらくその場で嗚咽を漏らし続けた。己の行いを反省するように、しかしそれ以上に己の心をより失うように……。