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1、遺産

 索漠としたアパートの一室。今となっては誰も住んでいない。

 床に落ちている埃は少ない。部屋の片隅にポツリと置かれた机の上には、一枚の原稿用紙と短くなった一本の鉛筆が存在感なく置かれていた。

 ベランダには古びた洗濯竿が束ねて置かれていた。


 東言葉あずまことのはは後輩二人を連れて、その一室にやってきた。

 言葉はアパートの管理会社に転職して長い。かつては三七歳の若さで大手出版社の編集長に抜擢されたエリートだったが、会社とのいざこざの結果、今では小さなアパート管理人に過ぎない。

 仕事へのモチベーションは小さく、最近では上司から仕事の怠慢を指摘されることも増えた。


「幽霊が出そうっすね」


 後輩の若い男が部屋を見渡して言った。


「八井田さん、別に自殺したわけじゃないよ」


 もう一人の後輩の女が答えた。


「さっさと片付けるわよ。十二時には清掃業者が来るから、身分の確認できるものはすべてこの袋に。処分できるものはこのシールを貼って」

「はーい」


 言葉の部下も仕事へのモチベーションは高くなかった。


「クローゼットの中はおれが見ますよ。エロいのが出てくるパターンでしょ、こういうの」


 部下の男がクローゼットに手をかけた。

 独身男性が死去した後の遺物はだいたいお決まりだった。そのためだけに、黒一点でその男がついてきていた。


「この前は色あせたラブドールが四体出てきましたからね、あれはホラーでしたよ。いいのあったらお持ち帰りしようかな」


 男は弾むような目をして、クローゼットの中を確かめた。

 中はびっしりと物で詰まっていた。

 布団一式が片隅に押し込められていて、後は大量の段ボール箱で敷き詰められていた。


「全部エロいやつだったらたまげるなぁ」


 男はそう言いながら、狭苦しい中に手を入れて段ボール箱の1つを取り出した。特に厳重に梱包されていたわけではなく、簡単に中身が確認できた。


 段ボールの中には原稿用紙がぎっしりと敷き詰められていた。


「小説だ。ひょー、今時手書きの人なんているんだな。先輩!」


 男は振り返って言葉を呼んだ。


「先輩の大好きな小説が山ほどありますよ。八井田さんって小説家だったんですね」

「小説?」


 言葉は小説と聞くと何でも興味を示した。懐からメガネを取り出すと、それをきちんと装着してから、段ボール箱の中の原稿を一枚取り出した。

 言葉はもう四三歳になるが、手は細く、水の流れのような透明感があった。

 言葉は四三歳にして、会社で一番の美人と言われている。同時に、付き合いの悪さでも有名だった。


 言葉は目を細めて原稿用紙を見つめた。

 しばらく無言で、原稿用紙と向かい合った。


「これも小説だな」


 男は別の段ボール箱も取り出して中身を確認した。

 中身はいずれも手書きの原稿用紙だった。決して達筆とは呼べない不器用な文字の羅列が続いていた。

 男は声に出して一節を読んだ。


「天使ノワーゼットは神のもとに戻る日を迎えた。すべての罪を抱えて、いや、ただ一つだけ己の心の奥深くに閉じ込めたままで。はははは、なんだそりゃ」


 男は適当に取り出した原稿用紙の一枚の一節を読むと、すぐに興味をなくして適当に箱の中に戻した。


「おれ、小説なんて読んだことねえんだよな。かったるいじゃん、文字ばっかりでさ。あずちゃんは読むの?」

「うーん、映画化したやつとかはたまに読むぐらいかな」


 部下二人が雑談する中、言葉は高い集中力で原稿用紙を見ていた。

 一枚読み、もう一枚。


 それを見ていた部下の男が言葉に声をかけた。


「そんなに面白いっすか?」

「……」

「せんぱーい、早くしないと業者来るっすよ、せんぱーい?」


 男が呼びかけても、言葉は完全に物語に没入していたので無反応だった。


「先輩はこうなったらてこでも動かないっすよ。で、八井田さんって小説家だったんすか? 有名な人?」

「職業は食品加工工場のお勤めだったみたいですよ」


 部下の女は入居者のプロフィールが載った書類を確認した。


「見せて」


 男はその書類を受け取って確認した。男が気になったのは年収の欄だった。


「年収220万って、57歳で220万はやばいっしょ。ただのフリーターじゃんかよ、ぷはっ、おれの半分は悲惨すぎだろ」


 男は軽んじて笑った。


「ってことは小説家志望のフリーター? ワナビとか言うんだっけ?」


 男はもう一度段ボール箱の様子を確認した。

 小説に興味のない男でも、尋常ではない原稿用紙の量に驚かざるを得なかった。


「やべー、これ全部小説としたらむちゃくちゃな量じゃん。それで小説家になれないとか、マジかわいそすぎるんだけど」


 男は少しだけ同情の気を示した。


「年収200万で独身、自分の人生を小説に捧げたってことか。こういうのって、どうなの? 幸せの形って言えんの?」


 男が女に話を振ったが、女は無言で首を傾げるだけだった。


「で、先輩、どうするかだけ決めてくださいよ。これ全部廃棄でオッケーすか? シール貼りますよ」


 男がそう尋ねると、ようやく言葉は反応した。

 無言で男から廃棄用シールを取り上げると、男に語音の変化に乏しい口調で言いつけた。


「全部持って帰るわ。下の車に積んで。急いで」

「持って帰るって、そんなに面白かったんすか?」


 男は八井田玄の遺産を見下ろした。そして、首を傾げた。

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