5(3)「絶対性を希求する神父の証言」
秋文は部屋に錠を掛けていなかった。窓辺に立ち、手を後ろで組んで、吹雪が硝子に叩きつける様を物憂げに眺めていた。
「無警戒なのではありませんよ。ただ、犯人が私を殺しにやって来たなら、私はその者に話をしたいのです。これ以上、過ちを続けないこと。罪を認め、贖うこと。特に今回の場合、彼ないし彼女はよく知った人物でしょうからね、恐れる気持ちはありません」
そしてこちらに振り返り、優しい口調で「どうですか、進展のほどは」と訊ねた。
「良好です。貴方が私を推したこと、決して間違っていなかったと証明されるでしょう」
「頼もしいですね。しかし、私に関して責任を負う必要はありませんよ」
何気ないやり取りだったけれど、さっき摩訶子から聞いた話のせいで、俺はどうしても余計な意味みたいなものを考えてしまう。秋文を見る目も、以前と同じではない……。
彼は本当に摩訶子の父親なのだろうか? 神父は結婚を禁止されていると聞く。娘にさえ秘密にしているのは、それが理由?
いずれにせよ、あまり褒められたことではない……が、これはあくまで摩訶子の憶測に過ぎないとも忘れてはならない。困ったものだ。
「殺された人々についてはどうお考えですか? 特に母と妹について」
「悲しいことですよ。人の死は誰であっても悲しい。肉親であっても、そうでなくても、平等です。――お掛けになってはどうですか」
「いえ、すぐ済みますから。――皆が平等というのは、神との相対化においてでしょうか」
「意地悪な質問ですね、それは」口元を綻ばせる秋文。もっとも瞳は依然として憂愁を湛えている。「では認めましょう。肉親の死に特別の感慨を抱かされたのは事実です」
「そこからすると、父・林基の態度は貴方の目にどう映りますか?」
「さあ。あの人の心は荒漠としていて、傍目からはその本意を推し量れないと感じますが」
「あの人、と云いましたね。そこに貴方と林基との複雑な距離が表れていると捉えては、これも意地悪な見方でしょうか」
「構いませんよ、どう捉えていただこうとも」
秋文は姓こそ山野部だけれど、正確にはその血を引いていない。彼は益美の連れ子だった。父親は不明。益美は高校生のころに産んだ子の面倒をひとりで見ながら、大学に通っていたのである。そこで林基と出逢い、結婚。未春の方は林基との子だ。
「貴方は八歳頃から〈つがいの館〉で生活することになりましたね。当時通っていた小学校も辞め、私の祖父が家庭教師を務めるようになったと聞いています」
「麻由斗先生には本当によく教わりました。お大事に、と伝えてください」
摩訶子の祖父にして育ての親でもある麻由斗――俺は会ったことがない――は、体調を崩したとのことで森蔵の葬式に来られなかった。殺人事件に巻き込まれず済んだのだから、その方が良かったかも知れない。
「伝えておきます。さて、この館で貴方が生活していたころですが、林基と益美、あるいは史哲と稟音は、仲睦まじくしていましたか? 云い換えれば、夫婦として、そしてそれぞれ貴方と未春、木葉と瑞羽の両親として、振舞っていましたか?」
秋文はしばし、額に掌を当てて何やら考えている素振りを見せた。
「……私は嘘をつくわけにはいきません。その問いには回答を控えさせていただきます」
ですが、と言葉を継ぐ秋文。
「その問いを私に投げるということは、摩訶子さんは既に〈秘密〉を看破しているのでしょうね。恐れ入りますよ」
秘密……互い違いの格好となった、奇妙な不倫関係のことだろうか? それはまだ秋文たち――それも子供の秋文たちが館にいた時代にも、公然と行われていた?
変容していく。俺が山野部家に抱いていたイメージが、禍々しく、妖しいそれへと。
「では最後の質問です。貴方は館の外へ出ることを最初に決断した人間でありました。なぜ、貴方は神父になろうと考えたのでしょう?」
「理由は色々とありましたが……そうですね、」
彼は遠い日を懐かしむかのように目を細めた。
「私もまた御多分に漏れず、推理小説の熱心な読者でした。ただひとつの真相を追求するという点に、私はその面白さを見出していました。特に英米流の本格ミステリは、精緻なロジックによってそれを描き出そうとする筋立てのものが多い。一方で我が国では、英米流に倣うものが主流ではありましても、そのロジックは必ずしも厳格でなかったり、ただひとつの真相よりむしろ、どんでん返しや多重解決をテーマとしたものが持て囃される傾向さえあるようです。この違いはどこに所以すると思いますか?」
「貴方は宗教観の違いだと考えるのですね」
「そうです。すなわち、一神教か多神教か。神道は八百万の神を唱えます。仏教には悉有仏性や悉皆成仏の考え方がありますし、そもそもの根底が相対主義です。唯一絶対の神に位置するものはなく、真実は何通りもある――十人いれば十通り、百人いれば百通り。その感覚が推理小説にも表れるのでしょう」
面白い見方だと、俺は素直に感心した。秋文曰く、宗教観において絶対性を希求するか否かが、ミステリにおいては真相に対する態度の違いとなる。少なくとも、キリスト教では神の名の下に真実が、真相が決定されるのだ。ならばミステリにおける神とはロジックか、それを駆使する探偵か……。
「ところが私は、先程も申しましたとおり、ただひとつの真相を追求する推理小説こそを好みました。唯一絶対のものに惹かれ、それを描き出そうとする営みに惹かれたのです。森蔵さんがカトリックであり、此処の食堂が聖堂を兼ねていたことも大きかったかも知れませんね。また宗教とは、自らの存在の拠り所として位置づけられるものでしょう。私は私の存在を、神によって確かに措定されたかった。そのようにして、私の興味は推理小説からキリスト教へと移っていき、いつしか神について本気で学びたいと思うに至ったのです」
「よく分かりました。ありがとう御座います」
お辞儀する摩訶子。しかしこの最後の質問については、さすがに期待していた回答と異なったのではないだろうか。興味深い内容ではあったけれど、ミステリ談義や宗教談義が今度の事件に結び付くとは思えない。
「私からもひとつ、訊ねてよろしいでしょうか」秋文の視線が、摩訶子から俺へと移った。「茶花さんになのですが」
「俺ですか……?」
訊き返してしまった俺の隣で、なぜか摩訶子が「よいですよ」と応える。
「摩訶子さんが茶花さんを助手に指名したときに、私は森蔵さんと眞一郎さんのお二人を連想したのですよ。茶花さんは推理作家を目指していると聞きました。では摩訶子さんがこの事件を解決しましたら、それを小説にするのでしょうか?」
「いえ、そんなつもりは……まったく考えていませんでした……」
そもそも俺は、森蔵みたく現実の事件を小説化することを目指しているのではない。そんな特殊な事例、真似しようとしたって無理だろう。期せずしていまはその機会なのかも知れないが……連続殺人の只中で、解決後のことを考えるような余裕もまたなかった。秋文からの問いは、ほとんど思い掛けないそれであった。
にも拘らず、摩訶子は「私は構わないよ、茶花くん。ただし上手く書いてほしいね」なんて云っている。俺は呆気に取られてしまった。冗談だろう?