5(1)「虚無に憑かれた老人の証言」
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吹雪の音だけが陰気に響く館内を歩いていると、云いようのない不安に駆られる。この機に、犯人が次の標的を狙う惧れはないのだろうか?
「いまは膠着状態さ。皆も警戒を強めているからね、容易には手を出せない」
摩訶子のそんな言葉を聞きながら俺は、しかしこうして動き回っている彼女は危険なのではと思い至る。犯人が探偵を疎ましがってもおかしくはない。つまり、彼女が俺を助手につけたのは、そういう用心も兼ねての判断なのかも知れなかった。
目的の部屋に到着。林基は相変わらずの落ち着き払った姿勢で俺らを迎えた。ひと言も発しようとしない。寡黙な人なのだ。
「まずは、犯人が第一の犯行現場に残した例の用紙をください。林基さんがお持ちでしたね? 重要な物的証拠かつ参考資料として、私が預かります」
その要求にも、彼は黙したまま従った。摩訶子は受け取ったそれを俺に手渡した。助手が持っていろということらしい。山野部家の家系図が印刷されたコピー用紙――覆いのラップフィルムについていた水滴を拭き取った状態で、クリアファイルに入れられている。
「この家系図には誰も見覚えがない。つまり家系図自体も犯人が作成したものらしい、という話でしたね」
ソファーに深く腰掛けた林基は頷いて応える。部屋には他にも椅子があったけれど、摩訶子が座ろうとしないので俺も傍で同じく立っていることにした。
「作家・山野部森蔵が生涯独身であったのは一般にも広く知られています。この家系図ではさらに、貴方と稟音の母親が不明であることをハテナ印で表しているようです。貴方と稟音も、自分達の母親について森蔵から聞いてはいないのでしょうか?」
「聞いていない」
「母親は同じ人物だと思いますか?」
「うむ。それだけは、父からそう聞いている。父の小説にも書いてあったはずだ」
「ならば少なくとも貴方が産まれてから稟音が産まれるまでの間、その母親と森蔵は繋がりを保っていたことになります。何も憶えてはいませんか?」
「お前さんは、己が二歳のころを思い出せるのか」
「無理ですね。ところで、貴方たち兄妹がまだ幼い時分に、森蔵は推理作家としてデビューしました。森蔵の二十代と云えば、覇唐眞一郎と共に全国各地へ赴いて、最も盛んに活動していたころです。ほとんど家に帰らなかったのではないですか?」
「そうだな。儂が中学を卒業するまで、儂と稟音は眞一郎さんの実家に世話になっていた」
「森蔵は天涯孤独の身の上であったからですね。それも彼の小説に記述がありました」
「うむ。そして儂が高校に入学して以降は、この館が建てられるまで、儂と稟音は貸家に住んでいた。だが苦労はしなかった。経済面で心配する必要がなかったからだ」
「林基さん、〈つがいの館〉建設時となると、貴方は既に益美と結婚していて子供もいたはずです。稟音も同じですね。――それでも兄妹で暮らしていたのですか?」
一瞬間、注意していなければ見逃してしまうような間があった。
「いいや、結婚してからは別々だったな。そうだった」
「ですが聞きましたよ。此処では、貴方は妻の益美よりも妹の稟音と共にいることが多いと。ならば今の間違い、そうであっても不思議はないと思いましたが?」
またである。また摩訶子は、いつの間にか攻めに入っていた。相手のちょっとしたミスから、自分が本当に聞きたい内容へと切り込んでいく――表面上はそれまでと変わらないまま。舌を巻く芸当だけれど、しかし林基はかしこと違ってペースを乱しはしなかった。
「儂と稟音はずっと共に育ってきた。眞一郎さんの家はとても良くしてくれたが、本当に心を許せるのは兄妹同士でのみだった。儂らは特別なのだよ。此処で再び共に生活するようになってから、妻や夫より兄妹でいる時間が多くなるのは、すなわち本来のかたちに戻るのは、自然な成り行きだろう」
「妻はそれほど大事でない――大事でなかった、と解釈してよいですか?」
「益美のことは愛していたよ。ただ血の繋がった兄妹は特別だと云っているのだ。勘違いなさるな」
静かなる圧、と云うべきか。林基はこちらを睨みもしなかったし語調も落ち着いていたが、聞いている者――少なくとも俺は、委縮させられた。さすが伊達に年をとっていない。
摩訶子は取り澄ましている。しかし「失礼しました」と述べ、追及は取りやめた。
「最後にもうひとつ。貴方はこの連続殺人を、どのように捉えていますか? 森蔵の死から間もなくして起きた、この災厄を」
「災厄、か」
林基はここではじめて、薄く笑ったように見えた。多くの皺が刻まれたその顔には、穏やかさとも厳しさとも異なる、此処にいて此処にいないかのような、濁った双眸がある。
「この世に災厄などない。僥倖がないのと同様に。幸運も不運も、すべては人の受け取り方だ。この世で起こる出来事は、おしなべて平等。平等に、どんな意義も意味もない。儂はただ身を任せるのみだよ。そうと定められたままにな」
それは果たして、悟りの境地なのだろうか。それともある種の諦観なのだろうか。
自らが辿り着いた底知れぬ虚無を前途ある若者に見せまいとするかのように、老人はゆっくりとまぶたを閉じ、口を閉ざした。
摩訶子は「ありがとう御座いました」と礼を述べ、部屋を辞した。