1「伝説と称されし老探偵の証言」
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受け入れるだろうか。拒むだろうか。
終わらない謎解きが終わる。万物は滅び去る。
真実を理解したとき、残るのは救いか、呪いか。
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山野部森蔵がその活躍を小説にしてきた探偵――覇唐眞一郎は、三年ほど前から、肝硬変で病床に臥していた。このたびの森蔵の葬儀にも、ゆえに出席できなかった。
そんな彼が病院を抜け出し、古い友人の車を借りて俺らのもとに駆け付けたのは、今朝に郵送されてきた小説原稿のためだったと云う。
『渦目摩訶子は明鏡止水~選択するペルセウス~』と題されたその原稿を、助手席の俺と後部座席の摩訶子は回し読みした。そこには昨日、俺らが史哲の車に乗って下山したところから、つい先程、眞一郎が現れたところまでが書き綴られていた。
もっとも『~あみだくじの殺人~』や『~バラバラにされた海獣~』とは違って、細部の発言や動作なんかは多少、実際と異なっていた。特に俺と摩訶子が昨晩に交わした会話はまったくの嘘っぱち――互いに幼少期のエピソードを語り合ったりなんかしていない――で、摩訶子がつくった料理は焼きそばがハッシュドビーフになっていたり、フライドポテトがフレンチトーストになっていたりする。
しかしながら、大筋については概ね一致していた。紅代や沙夜が語っていた内容は正確だし、ジェントル澄神の来訪や紅代の末路などに間違いはない。ところによっては見てきたかのような子細な描き込みも為されている。予想だけでこれほどのものは書けないはずだ。
「いわば紅代による原案でしょうね。計画書と云ってもよいかも知れません」
それが原稿を読み終えた摩訶子の第一声だった。
「彼女はこれに沿って行動していたのだと思われます。共犯者であった沙夜も同様。ゆえにこの二人にとっては、作中の台詞はいわば〈台本〉として機能していた。現実とおおよそ一致しているのはそのためでしょう。であれば、展開についても彼女がコントロールできるものばかりです。ジェントル澄神の介入は彼女が『~バラバラにされた海獣~』を渡してそう仕向けたのですし、そこから薊夕希の首を発見するに至り、彩華を人質に取られた茶花くんと私が指示された家にやって来るのもすべて自然な成り行きですので」
「じゃあ……」俺は疑問を口にする。「紅代ははじめから、自殺するつもりだったのか?」
「そうとは限らないよ。アンドロメダを巡る神話が打ち破られることを期待したように、この原稿に書かれた結末が打ち破られることを彼女が期待していた可能性は高い。両者は同義――つまり茶花くんが、海獣であり殺人犯である自分を選択し、救済してくれることを指している」
紅代の死に際……期待を裏切られ、一切の表情が消え失せたあの顔が想起された。胸の奥に重たい何かが圧し掛かる。彼女は俺に選択を委ね、賭けていたのだ。
「彩華ちゃんはこの原稿について聞いていなかったのかい?」
「はい……私は何も……」
彩華は摩訶子の隣で、ずっと顔を伏せている。ベネチアンマスクは俺が預かっていたけれど、あいにくと家に置いてきてしまった。それにきっと、彼女は着替えたいだろうと思う。沙夜の血がべっとりと付着している俺とて同じだが……眞一郎は車をかっ飛ばしていて、そろそろ高速道路に這入るところだった。諦めざるを得ない。
「問題は、これがどうして眞一郎さんのもとへ郵送されたのかということですね。紅代にその必要があったとは思えません。もちろん、眞一郎さんがやって来るという場面が小説の結末になっているわけですが、その理由が分からないのです」
「紅代とやらを第一義的な犯人に据えるなら、そうだろうなァ。然るに、そやつの裏にもっと別の思惑を持った真犯人がいると考えねばならぬ」
老練の探偵が告げて、俺は驚きよりもむしろ胸焼けのようなものを覚えた。
これで何度目だ? 瑞羽が犯人かと思えばかしこが真犯人で、そうかと思えば紅代が真犯人で、次は誰がいると云うんだ?
「それを吾輩に郵送したのも、真犯人の方だろう。差出人は不明だが、消印は昨日の八から十二時、条拝由木胎だったよ。紅代が其処の駅を発った時刻を含んでおるなら、小説によれば共に帰ったらしい摩訶子譲に訊く。彼女にその機会はあったか?」
「いえ、ありませんでした」
「やはりな。では郵送主は、渦目麻由斗に違いあるまい。彼が真犯人だよ」
思ってもみない名前だった――が、摩訶子を振り向いてみれば、彼女に動じた様子はない。自分の祖父……それだけに止まらず、ほとんど育ての親とも云える人物なのに。
「麻由斗の不在は小説にも書かれておるな。彼が事件に無関係なら、それを紅代が予測し得る道理がない。それに今なお、おぬしらに警察から連絡がない事実を考え合わせてみよ。条拝由木胎にいる麻由斗が、史哲が警察を訪ねるのを阻止したのだ」
「はい。私も疑ってはいました。紅代は爺上とも仲が良かった。実のところ、彼が間に入って取り持つなどしなければ、紅代と母上には協力関係を結んでさらに犯行について打ち合わせするような時間がなかったのではないかと」
紅代とかしこの少しばかり不自然と思われた関係の裏に、麻由斗の存在があった……その構図は、俺の頭にもしっくりときた。ならば彼こそ真に、事件全体を統括し、最奥に隠れていた真犯人……それがやっと、正体を現したのか?
恐る恐る、訊ねる。「山野部家が壊滅しているかも知れないというのは、なぜですか?」
「茶花くん、吾輩はたしかにそう述べたが、もとは小説に書かれていた台詞なのだと忘れてはいないか」
「あっ……」そうだった。逆転した前後関係……またしても混乱している。
「麻由斗が吾輩に原稿を寄越してきた目的もそこだろう。警察を介入させずに、吾輩がおぬしらを連れてくるよう、暗に指示しているのだ。山野部家の壊滅を仄めかしているのは、釘を刺す意図と考えられる。人質のようなものと捉えれば、紅代の行動とも似ているな」
「そうなりますと、」目を細める摩訶子。「原稿の作者が爺上である可能性も大いに出てきますね。このような原案は、これまでの二編においても作成されていたかも知れません」
「えーっと……どういうことだ、摩訶子」
「まず爺上によって原案、つまりは初稿が書かれていたのだよ。母上や紅代はそれに従って動いていた。そして後から、原稿と現実とで異なった部分を紅代が修正していたのだ。私達が読んだ『~あみだくじの殺人~』と『~バラバラにされた海獣~』は第二稿の方で、この『~選択するペルセウス~』が初稿の方というわけさ。であれば第二稿の執筆時間もある程度は短縮されるから、より合点がいく」
流れるように語られるが、これは並みの衝撃ではなかった。
摩訶子の推理が的中しているなら、麻由斗は掛け値なしに黒幕だ。かしこも紅代も彼に云われるがまま、書かれるがままに犯行を進めていたに過ぎない。俺らまで、全員が、彼の用意した舞台上で踊らされていた道化師同然ではないか。
「でも……麻由斗はどうして今になって、自分が仕掛け人だと明かすような真似を……?」
「操れる駒がなくなったためか、あるいは目的を半ば達成できたためかも知れぬな」
眞一郎が、聞く者を緊張させる、慎重な声色で云った。
「吾輩らを招いて彼が何を企んでいるかは不明瞭だが、それも含めて、吾輩らが確かめねばなるまい。然るにこうして、〈つがいの館〉へと急いでいるのだよ」
体調が悪いのは明白なのに、往年を想像させる豪快な運転で高速道路を疾走する老探偵。獲物を狙う鷲や鷹のような眼光……心配するのは野暮だ。無理を押して、相棒亡き後の館へと、おそらくは最後の仕事をしに向かうその姿。若輩には及びもつかない、想像を絶する胆力と精神力、それとも矜持か。……俺は固唾を飲んだ。
目を逸らさずに、見届けよう。事件の、そして己が一族の、結末を。




