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探偵・渦目摩訶子は明鏡止水  作者: 凛野冥
【止の章:選択するペルセウス】
34/48

3「名探偵たちのプライベート」

    3


 摩訶子がつくったのは焼きそばで、牛スジとこんにゃくを甘辛く煮たものが混ぜてあった。あまり食欲がないと云ったからかも知れないけれど、何だこの意外なチョイスは。

「夕希のアリバイは疑いようがない。高校の無遅刻無欠席は記録と記憶の両方から保証されている。彼女に益美、未春、名草、菜摘の四人は殺せなかった。しかしだからと云って、事件との関与が否定されたわけではないのだ」

 地味に驚くべき速度で焼きそばを平らげた彼女は、箸を置いて話し始めた。俺は食べながら聞く格好となる。ちなみに味の方は申し分ない。家では麻由斗と二人の生活なので、彼女が普段から料理しているらしい。

「母上と夕希が繋がっていたなら、轍の件に説明が付けられる。彼女は車のトランクの中にでも隠れていて、私達と同時に館へ到着したというわけだ。私達が玄関ホールにいる間に外を周り、あらかじめ開けてあった窓から彩華の客室に這入ったのだろう。つまりはタクシーなんか使われておらず、したがって轍もない」

「でもそれをやるためには、彩華の客室の窓を開けておくこと……ひいては彩華が館から去ったことを知ってないといけないな」

「うん。ゆえに、彩華を麓まで送り届けたのも母上なのではないかという疑いに繋がるのさ。母上がどうして黙っていたのかと云えば、もしかするとそれも『渦目摩訶子は明鏡止水』のシナリオ――換言するなら私へ提出した謎のひとつだったからではないだろうか」

「えーっと……もう少し説明してほしい」

「母上は最終的に自分こそが真犯人だという真相まで私に辿り着かせようとしていたのかも知れないとは話したね。瑞羽犯人説はその過程におけるミスリードだった。そして夕希犯人説、すなわち夕希と彩華の〈入れ替わりトリック〉説もまたミスリードとして用意されていたのではないか。この事件はいわば、母上によって創作された推理小説だろう? ゆえにミスリードそのものが目的化したかのような――いわゆる〈どんでん返し〉を狙った筋立てになっていたのだよ」

「じゃあ夕希は……あそこで摩訶子が暴かなかったら、ずっと彩華の振りを続けているつもりだったのか?」

「そういうことだね。私が夕希犯人説を推理してはじめて、反証としての『渦目摩訶子は明鏡止水~あみだくじの殺人~』の原稿が現れた。すると今度は盗聴器の存在が疑われ、真犯人・渦目かしこが自殺するというクライマックスへと事件は進む」

「そうか。暴かれることが前提のミスリード……」

「この構成は瑞羽犯人説を推理したときも同様だった。やや間が空きはしたものの、瑞羽犯人説で以て事件が幕を下ろそうとしたところで、夕希による落書き事件および海獣の暗号が現れ、事件は次の段階へと進んだではないか。ならば夕希の行動もすべてが母上のシナリオだったということになる。あるいはプロットと云った方が適切かな」

 たしかに夕希とかしこが繋がっていたとすると、不自然と思えた点がほぼ解消される。かしこが原稿を夕希に郵送したことも、それを受け取った夕希の突飛な行動も、あらかじめ裏で話がついていたと云うのだから。

「母上は私が探偵として一挙に注目されることを望んで、自らの最期に『渦目摩訶子は明鏡止水』というノンフィクション推理小説を遺そうとした。無論、内容は面白ければ面白いほど良い。そのためのサービス精神が、こうした〈どんでん返し〉式のプロットとなって表れたのだろう。母上もよく推理小説を読む人間だったから、こうした趣向には心得こころえがあったはずだよ」

 俺は途方に暮れでもしたような気持ちだった。真犯人である以上に〈作者〉であった渦目かしこ。こんな事件は他に類を見ない。まるでメタミステリの如くじゃないか。

「箸が止まっているよ、茶花くん。できれば冷めないうちに食べてほしいな」

「あ、ああ……」

 正直、食事をしながら聞くような話ではない――が、摩訶子は続きを話し始める。

「問題は共犯者とまでは云わないまでも協力者には違いなかった夕希が、事件が解決されてもなお野放しになっている点だ。しかし残念ながら、これを立証するに足る証拠は存在しない。彩華の足跡やタクシーの轍の件は、疑いの根拠としては薄弱だからね。私が昨晩ここまでの内容を推理に組み込めなかったのは、想像による部分があまりに大きいためさ」

「だからと云って放ってはおけないだろう。殺人事件が起きることもかしこさんが自殺することも知っていて、黙って見ていた疑いがあるなら……」

「いいや、夕希がどこまで知らされていたのかは判じかねる。想像とはいえ確かなのは、事件が終わったいまでもまだ彼女が知らぬ存ぜぬを貫いていること、それだけだ」

「……夕希に問い詰めてみたらどうなんだ」

「正直に話すと思うかい? 現状では無理だよ。物的証拠をひとつでも掴むか、それとも彼女の企みについて看破できないとね。かしこは例の二日間の休暇において、夕希を調べ、さらには接触までしたのだと仮定してみる――そこで夕希が話に乗ったのはなぜなのか。何某かの取り引きがあったのではないか。単に人死にの出ない悪戯程度と教えられてたわむれに協力を引き受けたのみなら、彼女が依然として黙っているのはおかしいと、普通は見做さないといけないな」

「普通は、か」

 控えめに云っても、夕希は普通ではない。彼女の気まぐれを論理で紐解こうとすれば、見当違いの方向へと進みかねないだろう。摩訶子が困るのはよく分かる。

「以上が、現在の私の所感と云ったところだ。そうは思えないけれど、夕希がまったく無実である場合もあり得る。ただ茶花くんには、話しておいた方が良いだろうと思ってね」

「心遣い痛み入るよ。そうだな……俺も夕希のことはよく注意しておく」

 経験上、良いようにはぐらかされて煙に巻かれるのが関の山かも知れないが。

 しかし環境が大きく変わろうとしているいま、俺もこのままではいけないのだ。

「ところで茶花くん、終電にはまだ間に合うものの、率直に云って今日はもう外に出たくない。何だか落ち着いてしまった。よければ今晩は泊めてもらえるかい?」

「俺は構わないよ。摩訶子の良いようにしてくれ」

「ありがとう。では先にシャワーと、それから寝間着を貸してほしいな。瑞羽のものならサイズも大きく異なりはしないだろう」

「分かった。今出すからちょっと待ってて。あと――ご馳走様。美味しかったよ」

 俺は内心、摩訶子が泊まると云ってくれて、安堵あんどしていた。

 ひとりになれば再び、あのおぞましい自己嫌悪が襲ってくるに違いないのだから。



 摩訶子は外泊の旨を報せるために家へ電話を掛けたが、麻由斗は出ず。まだ帰っていないのだろうか。こんなことは滅多にないと、彼女は怪訝そうにしていた。急に倒れたとかであれば自分にも連絡がくるはずなので、おそらく麻由斗があえて何も教えずに外出しているか、あるいは寝てしまったのかも知れないと云う。

 ともかく留守電のメッセージを残して、彼女は風呂に入った。

 およそ三十分後。俺が皿洗いを終えてソファーで休んでいると、風呂上がりの彼女は何やら珍妙な格好でリビングに戻ってきた。

 デザイン性に欠ける地味なパジャマは瑞羽のものだからいいとして――長く垂らした前髪で目元が見えず、背筋も丸まっており、のそのそと亡者のように歩いている。

 しかしすぐに気付いた。ここ数日の強烈な印象のせいで忘れかけていたものの、これは俺が長らく見慣れていた渦目摩訶子の姿だ。

「やっぱりそっちが普段なのか?」

「うん……少なくとも自然ではあるね……」

 喋り方もぼそぼそとしている。蓋を開けたら中身が別人にすり替わっているマジックショーを思い出した。

 すっかり根暗そうな渦目摩訶子は、テーブルの上のカップを両手で持つと、椅子に浅く腰掛けた。俺が彼女から頼まれてつくっておいた、ホットミルクに蜂蜜を入れたものだ。わずかばかり静かに飲み、顔を伏せたまま、ゆっくりと口を開く。

「性格を偽っているつもりはないのだ……私はいつでも同じように思考している……ただ振る舞いだけは、外から見て分かりやすいパフォーマンスが必要だからな……」

「探偵として活動するときは、ってこと?」

「うん……探偵には探偵の振る舞いが求められるものさ……。私が敬愛する小説の中の名探偵たちもね……普段はもう少し落ち着いているのではないかと思うよ……ワトスン役がそれを書いていないというだけで……」

「何だか、芸能人とかスターみたいだな」

 名探偵のプライベートなんて、今まで考えたことがなかった。

「私としては本当に、一貫しているのだが……内容が同じでも、出力の仕方が変われば当然こうなる……。カチューシャでオン・オフを決めていてね……茶花くんが困るようなら戻すけれど……」

「楽にしてくれていいよ。それに何と云うか、そっちの方が可愛げがあるし」

「面白いことを云うね。可愛げか……」

 探偵としての彼女を知ったいまでは、その見方も変わる。卓越した思考力や洞察力を持つ彼女の最も〈自然〉な姿がこれだと分かると、不思議な親しみが湧くのだった。

「摩訶子はどうして探偵をやることにしたんだ? 推理小説が好きだから?」

「私がいっとう好むのは、もっと露骨に、狭義きょうぎの探偵小説だが……そうだね、私は探偵というものが好きだ。それに……私にはそれができるという、確信もある……。人間は生きていくうえで、己が役割を見出さねばならないよ……でないと路頭に迷う羽目になる……私は私の役割が探偵であることを望み、そのための行動をしているのだ……」

 摩訶子は俺の方へ顔を向けた。前髪に隠れて、目は見えないが。

「茶花くんはどうだろう……君が推理作家を志望しているのは、それがやりたいことで、できることで、ゆえにやらねばならない役割だと考えているからかい……?」

「あいにくとそんな立派な考えはないよ。口で云うだけで、まだ書いてもいないんだから情けない。推理小説は昔からよく読んでいるけど、好きなのかどうか、今回の事件を経て分からなくなったし……」

「そう卑屈になることもないさ……」口元がそっと微笑む。「いては事を仕損じる……茶花くんは茶花くんのペースで、自分の役割を見つければいい……」

 役割。それもまた、今まで考えたことがなかった。摩訶子はその言葉を、とてもポジティブな意味で使っているように聞こえる。

 だがたしかに、自分にやるべきことがあるというのは幸せなのかも知れない。俺は見つけられるだろうか。路頭に迷い、迷い続け、野垂れ死にはしないだろうか。

 そのとき、俺の携帯電話が着信音を発した。

「ちょっと失礼」

「構わないよ……」

 表示を見れば『薊沙夜』。時刻は二十一時半を回っている。

「はい、茶花です」

『あ、こんな時間にごめんねー。まだ夕希といるの?』

「いえ……」違和感。「沙夜さんは実家ですか?」

『そうだけど。夕希といるんじゃないの?』

「夕希なら昼には帰ったはずですよ」

『え、全然。あたしずっと家いるけど、えーっと、どこで別れた?』

「それが条拝由木胎駅っていう、〈つがいの館〉から下山したところの――」

『うん、その地名は分かる。じゃあ茶花くんは駅で夕希見送って、自分はまた館に?』

「そうじゃなくて、これも少し複雑な事情があるんですが……」

 俺は摩訶子に「夕希は香逗駅で降りたのか?」と問う。彼女は首肯する。

「……友人が一緒の電車で帰って、夕希が香逗駅で降りたのは確かみたいなんですが、すみません……その先は分からないです。本人はちゃんと帰るって云っていたんですけど……」

 悔やまれる。やはり俺が送り届けてやらないと駄目だったのだ。

『あの不良娘めー……一体どこまで手間掛けさせるんだか』

「俺にできること、ありますか?」

『あーいいよいいよ。もう放っておけばよろしい。こっちのことは気にしないで。まあ、あいつが帰ってきたら電話しますよ』

「そうですか……分かりました」

『では良い夜をー』――通話終了。

 これはどうしたことだろう。夕希の失踪状態が再開されてしまった。

 摩訶子に教えると、彼女はじっと動かなくなって、どうやらこの報告について真剣に考え始めたらしい。そうだ、夕希の動向に注意しようという話が出たばかり……沙夜はああ云ったけれど、これは慎重にあたるべき事態なのではないか……。

 やがて摩訶子の口から洩れた呟きには、不穏が響きがあった。

「爺上も行方が分からないと云えるが……まさかな……」

 それからの彼女は堅く口を閉ざし、俺にはどうすることもできない。あてもなく捜しに出たところで無駄に終わるだけ。云い知れぬ不安、津波の前に潮が引くかの如き張り詰めた静けさ、あまりに煮え切らない感情を抱えて、この夜は眠りについた。

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