1「うつし世の中に夜の夢を」
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そうと知らずに過ち続ける、くだらん頭デッカチ共が、
山を動かそうとする者達を、阻んで潰して捨ててきた。
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昼前に館を発った。タクシーを呼ぼうかと思ったが、それには及ばなかった。史哲が駅まで車を走らせてくれると云ったのだ。彼はいまでも時々、くだんの山野部森蔵研究会や他の国内ミステリに関する講演などのために出掛けることがある。そんな場合は自分で運転しているらしい。
「結局……『渦目摩訶子は明鏡止水』と云ったか……その小説は完成させるのかな」
仏頂面を正面に向けたまま、彼は助手席の俺にそう問うてきた。後部座席には夕希と摩訶子が並んで掛けている。どちらも視線の先は窓外、枯れ木と雪だけの退屈な眺めだ。
摩訶子も帰ることを許された――と云うより、半ば追い出された格好であった。麓に着いたら史哲がいよいよ警察を訪ねるのだが、そのときに彼女が館にいると具合が悪いそうだ。要するに林基たちは体面のため、大の大人が揃いも揃って女子高生の力に頼ったという事実を隠したくて、さらに子供たちは早い段階で退避させたということにしたいのである。
「書きませんよ。史哲さん達も絶対によせと云ったじゃありませんか」
すべての責任は亡き真犯人・渦目かしこに押し付けられる。事件の概要は単純化され、山野部家の秘密が明るみになることはない。原稿も今朝、燃やされてしまったのだった。
「そうか。私個人は、それを書いてほしいと思っているがね……」
「なぜですか。史哲さんにとっては不利なだけの内容でしょう」
「私のことはいいんだ。益美さん……いや、姉さんと未春のためを思えば、この事件は一本の推理小説として形になるべきだよ。このままじゃあ無駄死にとなってしまう」
意外な発言だ。とはいえたしかに、彼ひとりだけは林基たちの話し合いに消極的な姿勢をとっているように見えた。益美と未春の死を心から悲しんでいたのも本当だろうし、他の連中よりはまだ人間らしい部分が残っているのかも知れない。
「それに森蔵さんが生きていたら、間違いなくそうしたはずだよ。あの人は何よりもまずミステリのことを考えていた。森蔵さんを評する私の一言は知っているかな」
「ええ、かしこさんが書いた原稿でも触れられていましたね。『山野部森蔵の作家活動とは、〈うつし世〉の中に〈夜の夢〉を見出さんとする、推理小説愛好家の挌闘の軌跡』……」
これは無論、かの有名な江戸川乱歩の言葉――『うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと』を元にしているのだと思われる。
詰まらない現実の世界ではなく、極めて空想的な小説の世界にこそ焦がれ、そこに身を置こうとした人々……しかし山野部森蔵は真実、この現実においてそれを顕現させようと努めたのだ。実在する名探偵・覇唐眞一郎に付き添って、本格ミステリ式犯罪を求めて全国を渡り歩き、ノンフィクション推理小説という特異な形態にこだわった稀代の大作家。
「森蔵さんは推理小説――娯楽性を帯びた小説全般に云えることでもあるが――それがくだらない絵空事と見做されることに苦しんだ。ミステリとは、単なる知的遊戯に止まらない観念の炸裂。虚構の積み重ねによって真実を描き出さんとする、最も人間的かつ普遍的な文学形態。それが謎解き遊びと軽んじられたり、閑人の妄想と蔑まれたり、犯罪者予備軍の巣窟と罵られたりするのを覆したかったんだ。森蔵さんは第一作目の冒頭にこう記した――『本書を長らく虐げられ続けた我々の叛逆の旗印とする』」
その問題意識には俺も共感する――していた。山野部森蔵の熱心な読者たちも、やはり彼のそんな態度に魅せられて、あるいは救われて、憧れているのだと思う。
だが実際の殺人事件を経た俺は、そんな憧憬の念をもはや抱けなかった。少なくとも、それとこれとは別だと感じていた。本当は別なんかじゃない――きっと俺は、いくらノンフィクション推理小説と頭では分かっていても、森蔵の作品群を他のフィクション推理小説と同じ、自分の生活や現実とは切り離され、隔てられたものとして読んでいたのだろう。
「遠いですね……」そんな感慨が口をついて出た。「……理想を掲げることと、それを実現させることとは全然違う。山野部森蔵が伝説とまで云われる所以を思い知りました。俺には耐えられそうにないです」
どちらが正しいかなんては分からない。測るための価値観が異なり過ぎている。少なくとも俺のそれは常人の側……森蔵にとっては敵であり啓蒙の対象であった、大衆の側なのだ。
「そうか……」史哲は抑揚に欠ける声で呟いた。「残念だ……」
やがて車は条拝由木胎駅に到着した。史哲は摩訶子に「麻由斗さんによろしく。しばらくして落ち着いたら、また狩猟でもやりに来てほしい……そう伝えてくれ」と云って去った。しかし麻由斗が今後、娘が連続殺人をやったうえに自殺した館に赴くことはないだろう。事実上、渦目家と山野部家は絶縁だ。できれば、俺と山野部家も。
さて、夕希と摩訶子が同じ電車に乗って帰る一方で、俺はまだ条拝由木胎に残り、失踪した彩華の手掛かりを集めなければならない。二人も手伝うと申し出てくれたけれど、断った。
摩訶子を山野部家の問題にこれ以上付き合わせるのは申し訳なかったし、それよりも早く帰って、母の死とそれにまつわる事情を祖父に報告するべきだ。夕希についてはあまり一緒に彩華捜しをしたくないというのが本音だったが……彼女とて、なるべく早く帰って、姉に叱られるなり何なりした方が良い。俺が家まで送り届けるのが筋かも知れないけれど、沙夜のところへは改めて伺うことにしようと思う。
「君も苦労が絶えないね。夜にでも連絡するよ。それじゃあ」と落ち着いて述べる摩訶子。
「頑張ってくださぁい。挫けそうなときはボクの顔を思い出して」と無邪気に手を振る夕希。
改札の手前側で、俺は二人を見送った。どんな表情を浮かべていたものか、自分では分からない。




