9(2)「渦目摩訶子による解決編/下」
「うむ。もはや隠す必要もあるまい」
林基が認めると、稟音も他の面々も口を挟むつもりはないらしく見えた。
「儂らばかりでない。益美と史哲も、姉弟で結ばれたのだ。その子供が秋文と未春だよ」
「やはりそうでしたか」静かに頷く摩訶子。「それぞれ嫁入りと婿入りだったために旧姓が分からなくなっていた――無論、真相を悟らせまいとしてあえて隠していたのでしょうが、私はその二人も姉弟だろうと疑っていました。秋文と未春がその子供であることも。道理で史哲が益美と未春の死に大きな打撃を受けたはずです――実の姉と、その間に産まれた実の娘であったのですから」
彼女はホワイトボードに新たな家系図を描き加えた。山野部家と同様に隠蔽されていた、その真の姿を。
「益美と史哲の旧姓はたしか、季瀬と云ったな」
引き続き、林基は縷々として語る。
「大学で知り合った儂と益美は、互いを利用することに決めた。山野部兄弟と季瀬姉弟とが互い違いの格好で結婚し、形式上の夫婦を取り繕えば、禁断の関係からつくる子をそれぞれ夫婦間の子であると誤魔化せる。儂らは愛の結晶を残したかったのだ。父・森蔵の手前、世間体というものもあったからな……それを戸籍の上で父親が分からない子供とはしたくなかった。季瀬姉弟の側で既に産まれていた秋文については父親を不明のままとするしかなかったが、儂が義理の父親となることはできた。史哲が森蔵の研究者であったこともあり、これは双方にとって良い取り引きだった」
「つまり史哲が貴方と同じ大学に入学してきたとき、裏では既に話がついていた。それから貴方が史哲に稟音を紹介して云々というのは、表向きに捏造されたエピソードに過ぎなかったというわけですね」
「そうだ。そのころには、父が遠くないうちに〈つがいの館〉を建てるという話も出ていた。儂らは其処で共に暮らし、たまの来客があるときの他は偽りの夫婦を演じることなく、子供たちについても本当の親で育てるということを決めていたよ」
語るべき話は終わったと判断したのだろう、林基は口を閉ざした。秘密を明かしてもなお、彼の威厳ある佇まいに変化はない。『この世で起こる出来事は、おしなべて平等。平等に、どんな意義も意味もない』……ゆえに彼は、決して動じないし、決して揺るがないのか……。
「狂っている……」そう呟く圭太は、ほとんど放心のてい。「異常です。異常ですよ、あなた方は……」
ああ、圭太だけはただひとり、山野部家と季瀬家……二つの真の家系図において、登場しない。仲間外れ……偽りの家系図を飾る装飾品……何も知らなくて当然なんだ……。
俺と同じ。摩訶子がいつだか云っていた、中心から離れている存在……。
「ありがとう御座います、林基さん。おかげで曖昧だった箇所もクリアになりました。要するに〈つがいの館〉で生活していた人々にとって、森蔵の孫の代までにおける真の家系図は公然の事実であった。そこで話は、木葉の作為に関するところへ戻ります。
森蔵は未婚であり、林基と稟音の母親は不明。これを恣意的に解釈して森蔵をアトゥムと置いたとき、山野部家の真の家系図はエジプト九柱の神々と重なっている――そのことに木葉は気が付いたのです。そしてエジプト神話に執心している彼は、家系図の完成を目指そうと決めた。すなわち妹・瑞羽との間に、オシリスとイシスとセトとネフティスに対応せし四人の子供を儲けるべく行動したのですね。先程述べました『意図せずして起きた偶然とそれを活用した木葉の作為によって』とはこういう意味です。
結果、木葉はやり遂げました。一見すると性別を順番どおりに揃えるのは無理があるように思われますが、イシスとセトの順やセトとネフティスの順は説によって入れ替えられたりしますから、一致したそれを採用すれば済む話だったでしょう。
また私は、名草と菜摘が結婚したのも、幼少期から木葉がそうなるよう仕向けていたのではないかと考えています。なぜならオシリスとイシスもやはり兄弟でありながら夫婦でもあるからです。そうしますと、彼によるエジプト神話の再現はまだ途中だったのかも知れません」
「そう、そうなんだよ。むしろ面白いのはこれからだったのになぁ……」
椅子の上でわざとらしく手足を投げ出し、天井を見上げ、興醒めと云わんばかりのポーズをとる木葉。この人はふざけている……信じられない……。
「名実共に我が子ってわけの名草と彩華にはよくよく教え込んできたんだが、二人は是非とも菜摘・茶花と結ばれてくれなきゃ困るのさ。探偵ちゃんが云ったとおりオシリスとイシスは夫婦だし、セトとネフティスも夫婦だからな。名草と菜摘は上手くいった。彩華が馬鹿な事故をやらかしてそんなふうになったときは少し焦ったが、茶花くんは優しいみたいだしな、近いうちにこちらも結婚してくれそうだと思っていた。ああ、名草はともかくとして彩華まで瑞羽から引き剥がして僕の養子にしたのはだな、つまり近親相姦なんだってことを隠しながら結ばせるためだったんだ――菜摘や茶花に対してさえね。こいつらに関しては、知らないで済むならそれが最も穏便なんだから」
しかしだ――と彼は言葉を区切り、両手を上げて、参ったような笑い声まで交えながら続ける。
「全部全部、無駄になっちまったよ。サッパリだ。おじゃんってやつだな。なにせ菜摘が――イシスが死んじまったんだから! これでは話にならん。一切が無意味だ」
「エジプト神話の再現は、貴方の本懐であると云うイシス祭儀のためだったのですか?」
「当たり前さ。すべてはイシスの招霊を目的とした手段に過ぎんよ。菜摘は良い霊媒になるはずだった。霊媒に憑依する霊とその憑依の純度はな、霊媒の能力および両者の魂の親和性で決まるんだよ。人間は〈魂〉〈肉体〉〈霊体〉の三要素から成り立ってるんだってことを、君たちは知っているか? ふん。僕は菜摘をイシスと重ねさせることで親和性を高めようと試みていた。分かるかなぁ……菜摘は聖言への貴重な切符だったのさ。そいつをなくしちまって、切符を拝見と云う車掌に僕は何を見せたらいい?」
手の甲でテーブルをダンッダンッと叩く彼には、自分の理想を理解しようとしない人々への積年の苛立ちが表れていた。だが狂気に染まりきったその理屈は、もう滅茶苦茶としか思えない。まるで知らない言語だ。宇宙人が喋っている。
「木葉さん……貴方はなんと愚かなのでしょう……」秋文が手で額を押さえ、哀憫の情さえ籠めた批判を口にした。「貴方は神を見失い、己を見失っています。だから己こそが全能の神であるかのように装い、抜け落ちた信仰を充填しているのです……」
「何だい秋文さん、僕に説教するつもりですか?」いっそ愉快そうに口元を歪める木葉。
「イシス祭儀だの聖言だの、そのような妄言こそ貴方にとっては己の空虚を埋め合わせるための手段でしょう。山野部家の中で神話を描いた貴方……自らをそこへ組み込んでいるのは己に対する偽装工作です……貴方は山野部家神話を俯瞰する高位の視座を手にすることで、全能者になろうとしたに過ぎません。愚かと云うしかない……そのために瑞羽さんが、そして未春さんがどれほどの苦しみを味わったことか……」
「はっ。さすが云うことが違うなぁ、レイプ魔の神父さんは」
そのひと言によって秋文は硬直し、二の句が継げなくなった。
「何だよ。皆が知ってることだろ? あんたがかしこさんを手籠めにして摩訶子ちゃんができたってのはさ。自分のことを棚に上げてべらべらと説教垂れないでくれるかね、性欲から脱却できないケダモノの分際でさ」
「摩訶子っ!」――と名前を叫んだのは、話題に上げられたかしこその人だった。両手をバタバタ振って、瞳をグラグラ揺らして、彼女は動揺の極限に陥っている。名前を叫んだその後が上手く続かない。「い、いいい、今のっ、今の話はっ――」
「落ち着いてください、母上。分かっています。私は何も気にしていません」
自らの出生にまつわる秘密が暴露されようとも、探偵は堂々としたものだった。無理して気丈に振舞っている気配もない。
俺はわけも分からず、目の奥がジワジワと熱くなった。受け止めきれない……堰を切ったように怒涛の噴出を始めた山野部家の闇は、とうに俺の許容力も理解力も吹き飛ばしてしまっている。ぐちゃぐちゃだ、何もかもが。
「此度の事件に関する事柄は、これでおおよそ出尽くしましたね。瑞羽がどうして木葉に、そして山野部家全体に憎しみを募らせ、殺人を犯したのか――もう瞭然のことでしょう。
彼女が木葉から受けた仕打ちについて、すべてを知っていた者はいなかったかも知れません。しかし多かれ少なかれ、察しているところはあったはずです。少なくとも瑞羽からはそう見えていた。皆が、見て見ぬふりをしている。誰も自分を救ってくれない。全員が敵。ゆえに彼女の復讐には木葉だけでなく、山野部家全体が対象とされていたのです。
〈あみだくじの殺人〉は彼女にとって、この数十年間の縮図であり、異様な秘密を数多く抱える山野部家への痛烈なアンチテーゼとなるものでした。被害者たちがあみだくじを描いていることには気付けるのに、誰もがまともに取り合わず、見て見ぬふりをする。その結果として彼女の殺人は完遂され、本命である木葉の死で以て、あみだくじの真の意図――実の兄によって子を産まされた彼女の怒りと悲しみが明らかになるという仕組みです。
やはり彼女は木葉を包丁で滅多刺しにした後、返り血に染まった身体で皆さんの前に立ち、答え合わせをするつもりだったのではないでしょうか。そこにおいては、家系図の存在を核とした山野部家の秘密がすべて暴かれる。そうやってボロボロとなった山野部家を踏みにじること――それさえ叶ったのなら、後はどうなったって構わなかったのです。目的さえ遂げられたのなら、その先は逃げ果せるつもりも意味もなかったのですよ。
現実にはこうして、彼女の犯罪は最後のところで食い止められたわけですけれど、どうか皆さん、その意味についてゆめゆめお忘れにならないよう、お願いいたします」
摩訶子は深々と頭を下げた。探偵として、〈解決編〉をそう締め括ったのだった。
しかしこんなの、胸が空くような思いとは程遠い……真相が明らかにされたことで、むしろ以前よりも遥かに悪くなったみたいじゃないか……いや……違うな……そうじゃない……〈それ〉ははじめから〈そう〉だったのだ……ただ俺が、それを知ったということなのだ……何も知らなかった俺が、何も知らないというのがどんなに幸せで、そして愚かなのかを、思い知らされたということなのだ……。
「あーあーあー、くだらんなーまったく」
ひたすらに無粋な木葉の声が、空々しく響いた。
「どうしてくれるんだ? 瑞羽が――その馬鹿が仕出かした一大愚行。どうやって始末をつける? 馬鹿だなぁ本当に。ただただ呆れるよ。僕や菜摘を殺しちまったら、自分が腹を痛めた理由までなくなるだろうが。自分の苦しみを無駄にしないためにも、そいつは僕がやるはずだった儀式を大人しく見守って、むしろ成功を祈るべきだったのさ」
彼は止まらない。ひとたび始まってしまったら、文句が数珠繋ぎのように次から次へと溢れ出してきたらしい。この世のすべてを見下す言葉が、不自然に軽妙に語られ続ける。
「僕は本当に理解できないんだ。これは全員に云ってるんだぜ。脳味噌ってやつが入ってないのかな? あんたらの目は塞がれている。真実を見ることができない。みんな僕の行いの素晴らしさを認めて全面的に協力してくれたなら、今回みたいな事態にはならなかったかも知れないだろ? 頼むからさぁ、僕の身にもなってみろよ。二十年以上かけて進めてきた計画がパーなんだぞ? 大損失なんて言葉じゃ足りん。こちとら半生を担保にしてたんだ。瑞羽なんてそれを一番よく知ってただろうに。どういうことだおい馬鹿。何とか云ったらどうだね。女ってのは感情で行動するから困るよな。少しは考えてくれよ。人間を人間たらしめるのは理性だぜ。女は人間じゃないってわ――」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
圭太が咆哮と共に立ち上がると、次の瞬間にはテーブルを踏み越え、木葉に襲い掛かっていた。
ぷつんと、糸が切れるような音が聞こえた気がした。
圧し掛かられた木葉は椅子ごと後ろに倒れる。馬乗りになった圭太は木葉の首を両手で締め上げて全体重を掛けている。いくつもの怒声が食堂にこだまする。混迷と陰鬱を極めた事件の最終幕は、抑圧され続けた感情が爆発する狂騒の地獄絵図だった。秋文は圭太を引き剥がそうとするが、圭太は絶対にその手を木葉の首から離さない。木葉の顔面は早くも鬱血し、目玉が今にも零れ落ちそうなくらい飛び出している。稟音は椅子の上で力の限り金切り声を上げ続け、林基は黙って顔を伏せ、史哲は木葉が絶命しようとするのを食い入るように見詰めている。瑞羽は呆気に取られたような表情で、夫が自らの代わりに最後の殺人を行う様を眺めていた。
彩華が俺の傍らまで来て、その顔を俺の肩のあたりに埋める。固い感触が首にも当たり、ひやりと冷たかった。俺はしかし、彼女の華奢な身体に腕を回すことさえできない。
摩訶子を見る。かしこが席を立ったまま慌てふためいているその向こうで、明鏡止水の探偵は、狂態に背を向けていた。何を想っているのか、俺にはまったく分からなかった。