7「信じていた世界の崩壊にようこそ」
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食欲がある者など皆無だったけれど、そろそろ何か腹に入れなくてはいけない。そんな渋々の義務感めいた空気に包まれた食事であった。食器が触れ合う音が響くばかりの気まずい沈黙が、どれだけ続いただろうか。
かしこは食べやすいものにしようと気を遣ったらしく、ラインナップは簡単なキッシュやスープやサラダだった。しかし綺麗に平らげた者はなかなかいなくて、やがて皆がフォークやスプーンを置いた。
「それで?」稟音がじろりと摩訶子を睨む。「わたくし達に好き勝手訊いて回って、何か分かったのかしら?」
彼女は先程もそう訊ねていた。食事を終えるまでは何も述べないと云った摩訶子だが、今はもう完食して、口元を拭いたナプキンを丁寧に折り畳んでいるところだった。
「はい。皆さんの協力のおかげで、事件はもうじき解決を迎えようとしています」
彼女の宣言は今度も唐突であった。人々は意表を衝かれてあっと反応したようだけれど、彼女はそれを抑え込むように続けて立ち上がる。
「現時点ではまだ詳しくお話しできませんが、ひとつこれだけ断言しましょう――新たな被害者が出ることは絶対にありません。絶対にです。どうぞ皆さん安心して、もうしばらく各自、部屋で待っていてください。お願いいたします」
そう云って深く、頭を下げた。それで稟音も調子が狂ったのか、目元をピクピクさせつつも非難はできない。
ただ木葉が「ふん。〈絶対〉とは大きく出たな」と鼻を鳴らしはしたものの、一番に席を立ったのも彼だった。「じゃあそのとおりにさせてもらうよ、僕は。解決のときに呼んでくれ」
「私もお待ちしております。悲劇に幕が下ろされるのを」と秋文も続く。
すると他の者達も自然それに倣って、椅子の足が絨毯に擦れる音が重なった。
「ハッタリだったら許しませんからね」と捨て台詞を吐き、後は足早に去って行く稟音。それについて行く史哲は、依然ぐったりと肩を落としている。
林基は泰然とした足取りで反対方向へ歩いて行き、その後ろでは圭太が介抱でもするみたいな格好で瑞羽に寄り添っていた。そこに、摩訶子が声を掛けた。
「圭太さん、貴方は残ってください。お話したいことがあります」
「私に?」怪訝そうな顔をする圭太。「……妻が一緒では駄目なのか?」
「貴方ひとりでなくてはいけません。三十分は掛かるかと思います」
「では、妻を部屋に送ってから来るよ。それでいいだろう?」
「構いません」
例のあみだくじに則るなら、圭太は次の標的にされる。摩訶子が彼に話したいこととは、それに関係があるのだろうか。しかし、圭太は殺されないとも彼女は述べていた……何を考えているんだ、この探偵は……。
そう思っていると、背後から服の裾を引っ張られた。振り返れば、彩華がぽつんと立って俯いており、スケッチブックをこちらへ差し出すようにして向けていた。
『何が明らかになろうとも、これだけはどうかお疑いにならないでください。私は心から茶花お兄様のことを想っているのです。私だけは、茶花お兄様の味方でいて差し上げたい。だから茶花お兄様も、どうか私を見捨てたりなさらないでください』
……彩華は、何を知っているんだ。何を恐れているんだ。
だが、あまりに儚くて、今にも消え入りそうなこの少女に、それを問うのは憚られた。
「俺が彩華を見捨てるなんて、あるわけがないじゃないか」
胸の痛みに耐えながら、努めて優しく言葉を発する。彩華はわずかに、はにかんだように見えた。こくりと一度頷いて、彼女もまた食堂から出て行った。
「彼女、何だって?」
摩訶子が訊ねてきたけれど、俺は曖昧に首を傾げる。
「さあ……どうやら何か、俺の知らないことを知ってる素振りなんだが……」
「うん。たしかに彼女は知っている――何も知らないのは君くらいのものらしいね。圭太も怪しいところか。もっとも私だって推理によって知り得ただけだから、本来なら君の側に属していると云った方が合っている」
「知ってるって……何をなんだ?」
「ヒントをあげたではないか。この事件の解決は、その〈秘密〉の看破なしにはあり得ない。なに、あと一時間もしないうちに君も知ることになるさ」
おそらく、俺がこのところ抱いているやり場のないモヤモヤは劣等感に類するのだろう。持つ者と持たざる者、知る者と知らざる者、そのヒエラルキーにおいて下層の者が上層の者と同じ景色を臨むことは叶わない。摩訶子はそれを山登りに喩えたが……いずれにせよ、〈分からない〉という状態がこんなに居心地の悪いものだと感じた経験は初めてだった。しかもそれが自らの能力不足のせいだというのは、いかにも情けない……。
「ねぇ摩訶子」と、かしこが娘に呼び掛けた。ワゴンを引っ張ってきて、これから食器の片付けに取り掛かるらしい。
「何でしょう、母上」
「もう誰も殺されないというのは、本当なのかしら……」
「間違いありません。何か気掛かりがあるのですか?」
「私の勘違いかも知れないのだけど……それに、殺人事件と関係があるって決まったわけでもないのだけど……調理室から包丁が一丁、なくなってるみたいなの」
彼女は調理室の方をチラチラ振り返りながら、不安そうに告げた。
「包丁がですか」摩訶子はおやと云うふうに片眉を上げる。「それはいつから?」
「分からないわ。昨日夕食の片付けをしたときには揃ってたはずなんだけど……この昼食をつくるのにさっき見たら、壁に掛けていたはずのものがなくなってて……」
「そうですか。知らせてくださり、ありがとう御座います」
あまり大事そうでない――そう見える――調子で摩訶子は礼を述べ、すると西側の廊下に通じる扉が開いて、圭太が約束どおり戻ってきた。
「話というのは何かな。私だけ呼び出されて、いささか怖いんだが」
「怖がる必要はありませんよ。しかし急がなくてはです。ついて来てください」
摩訶子は俺にも目で合図して、東側の廊下に通じる扉へと歩き出した。圭太は訝しげに俺の方を見てくるが、俺だって何も教えられていないのだ。林基の人生哲学ではないけれど、ただ身を任せるほかない。
果たして、俺らが連れられて来たのは娯楽室だった。ビリヤード台やアーケードゲーム、壁にはダーツ、奥にはバー・カウンターまで揃っており、照明の色もそれっぽい雰囲気となっている。
「圭太さんには此処でしばらく、おひとりで遊んでいていただきます」
「なに?」圭太は耳を疑ったようだ。俺も同じである。
「遊ぶことを強制はしませんがね、長ければ三十分以上、此処で待機してもらわなければなりません。おくつろぎになっていて結構という意味です」
「どういうことだ。話があるんじゃなかったのかい? 説明してもらわ――」
「時間がありません。よろしくお願いいたします」
行くよ茶花くん――と云って、摩訶子は再び廊下へ出て行った。開いた口が塞がらない様子の圭太を残していくのは息子として心苦しいけれど、摩訶子が多少なりとも切迫しているのを初めて見せられて、助手たる俺が逆らえるはずもない。
廊下では摩訶子が早足で先へと向かっていて、突き当たり――現在は木葉が使用している客室の前で止まると、扉をノックした。「渦目摩訶子です。入れてください。至急です」
何をいきなり、こんなに急ぎ始めたんだ?
内側から扉が開けられて、摩訶子は俊敏な動作で中に這入った。「ほら茶花くん早く」と手招きされ、俺も急いで中へ――すかさず扉を閉めたところで、摩訶子はほっと息をついた。
「おい、何なんだ。解決を報せにきたって感じじゃないな」
木葉もまた、怪訝そうな顔つきだ。俺も同じ疑問を目で訴える。皆がこの探偵の奇行に振り回されている。
しかし探偵の方はいまや再び落ち着き払っていて、部屋の中央あたりまで悠然と歩を進めるのだった。
「解決を報せるだなんて、もとよりそんな予定はありませんよ。探偵が皆を集めてサテと云う――いわゆる〈解決編〉なくして解決には至りません。木葉さんにも其処に立ち会ってもらうのですからね」
「屁理屈はいい。じゃあこの訪問は何に当たるんだ」
「そうですね、貴方と茶花くんは犯人を知らされる最初の人間となります」
「へぇ? 僕が最初とは意外だな。教えてもらおうか」
「もうしばらく――私の見立てでは十分も要しないでしょうが、座ってお待ちください」
それきり、彼女は木葉からの質問にも俺からの質問にも応えようとしなかった。ただ待つこと、それのみを要求した。木葉も俺もまったくお手上げだ。
この間、そう離れていない娯楽室では圭太もひとりで待っている――アーケードゲームにでも興じて? まさか。だが摩訶子はどうして、彼にあんな無意味な注文をしたのだろう? 俺らは一体、何を待たされているのだろう?
時計の針がチク、タク、チク、タクと時を刻んでいく。
そう云えば、風の音がしない……窓の方を見ると、いつしか吹雪は止んでいた。
「吹雪が――」云おうとしたのと、扉が外からコン、コンと叩かれる音が重なった。
俺も木葉も、扉へと視線を向ける。摩訶子が小声で「這入るようにだけ云ってください」と指示する。木葉は億劫そうに肩をすくめて、
「這入っていいぞ。錠は掛かってない」
間もなくドアノブが下がり、扉が開けられた。
其処に立っていたのは瑞羽だった。
木葉の両脇に控えた俺と摩訶子を順に見て、彼女は目を限界まで見開き、その蒼くなった唇から「あ、」と声を洩らした直後、背中に回していた手がだらんと前に垂れて――カラン――と音を立てて床に落ちたのは、鋭く光る包丁だった。
「えっ」と云ってしまったのは俺だ。
瑞羽は床に崩れ落ちた。全身がブルブルブルブルと、いっそ痙攣のように震え始め、地の底から響くような低い唸り声が「う、うう、ううううううううう、ううううううううううううううううううう……」次第に大きく、大きくなっていく。まるで極寒に苦しむ遭難者みたいだと、俺は場違いなことを思った。
「山野部瑞羽――貴女が犯人です」
摩訶子が告げる。当たり前のように。木葉が、呆れたような溜息を吐く。俺は意味が分からない。何だ、これは。誰かが、何かを、間違えたんじゃないのか。何かの間違いなんじゃないのか。母さんが、そんな、え、「ま、摩訶子、犯人って云うのは……」
「益美と未春と名草と菜摘を殺した犯人さ。いよいよ〈解決編〉といこうか。茶花くん、その包丁を回収して、他の皆を集めて来てくれたまえ」
今こそ、俺が信じていた世界――そんなものがあったことすら今知ったが、とにかくそれは、音を立てて崩れたのだった。地獄のようなその音。喉が千切れて血が滲んでいるのかと思うような、母さんの低い低い唸り声。
「ううううううううううううううっ! うううううううううううううううううううううううっ! うううううううううううううううううううううううううううううっ! うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう――――」