5(6)「口を利けない少女の証言」
彩華はベッドの上で膝を抱え、所在なさげにしていた。摩訶子とも俺とも目を合わそうとしない。あまり顔を見られたくないのだ、彼女は。
「怖いですか、この状況が」
摩訶子に問われ、市松人形のようなおかっぱ頭が縦に揺れる。
「事件はもうすぐ決着します。貴女も、貴女の大切な人も殺されることはありませんから、心配せずともよいですよ。さて、益美の死体が発見されたとき、貴女は茶花くんの部屋にいましたね。風呂上がりに彼を訪ねたのはどうしてでしょう?」
彩華は膝に乗せていたスケッチブックを開き、ペンを走らせた。彼女は心因性の発声障害を抱えている。五年前、他ならぬこの館で、可哀想な事故に遭ってから……。
『茶花お兄様と二人きりでお話ししたかったのです』――こちらに向けられたスケッチブックには、小さな字でそう書かれていた。
「どんな内容の話ですか?」
「聞くようなことじゃないよ。他愛ない話だ」
「茶花くん、君には訊いていないのだが」
「別にいいだろ。俺にも答えられる質問なんだから」
できるだけ、摩訶子の容赦ない追及が彩華に向かないようにしたかった。だが彩華は律儀に、またスケッチブックに書いた文章をこちらに見せる。
『内容がどうではなくて、ただ茶花お兄様とお話ししたい一心でした。お慕いしている茶花お兄様に、やっと五年ぶりにお会いできたのですから』
なんていじらしい……。一昨日、先に館に着いていた彼女が、俺を迎えてはじめに見せた文面を思い出す――『お久し振りです、茶花お兄様。再びお会いできる日を、彩華はずっと切望しておりました』。彼女は去年にあった菜摘と名草の結婚式には出席しなかったのだ。今回のような内々のそれと違って、外からも多くの客人が集う場では、とても耐えられないと感じたのだろう……。
「貴女はなぜ、そんなにも茶花くんを慕っているのでしょう?」
摩訶子は無遠慮な質問を繰り返す。俺は堪らず「無理に答えなくていいんだよ」と付け加えるが、意外にも彩華は回答を控えようとしなかった。
『茶花お兄様は、昔から私の憧れです。私のことを、本当に良く気遣ってくださいます。茶花お兄様だけは、一度として、冷たい目で私を見たことがありません。お優しい人です。お慕いしない理由がありません』
顔を伏せながらも健気に主張するその姿に、俺は心が痛む。今この空間は、俺にとっても耐えがたいものだった。彩華を不憫に思う、思ってしまう後ろめたさ。逃げ出してしまいたい……廊下で待っていることにすれば良かった……。
「茶花くんだけと云いますが、名草はどうだったのですか? それに菜摘も――貴女たちは子供時代からよく一緒に遊んでいました。彼らも貴女に優しくしていたと思いますが?」
彩華はスケッチブックのページをめくり、口から発したいはずの言葉を文字へと変える。今度はその書きぶりが若干急いでいるふうで、筆致も少しだけ乱れていた。
『私は、人からの視線に敏感なのです。瞳の奥には、その人の本当の感情が表れます。名草お兄様と菜摘お姉様は、本心では、私のことなんてどうでもよいと考えていました。お二人が冷酷であったと申したいのではありません。人とはみんな、そういうものなのです。だから私にとって、まことの親切はどんな羽毛よりも暖かくて、包み込んでくれて、他とはまったく違うのです。それをくださるのは、茶花お兄様だけです』
俺はいつしか身体が熱くなっていて、汗まで滲んでいるのが分かった。この部屋こそ、暖房が効きすぎているんじゃないだろうか。館の中は空気がこもっていて息苦しい。少しで良い、外に出たい。
「どうやら貴女は、確かに自ずから茶花くんを慕っているみたいですね」
よく分からないが、摩訶子は腑に落ちた様子だった。
「それでは、名草と菜摘はどうだったのでしょうか。彼らが結ばれたのは、果たして彼らの意思だったのでしょうか」
質問と云うより、問題提起のような口振り。彩華は表情が窺えないけれども、小さく身じろぎしたその動きから、困っているのだと思われる。そこに摩訶子は切り込んだ。
「貴女は知っているのではありませんか? 貴女が茶花くんを慕っているのは〈まこと〉であると主張するならなおさら、名草と菜摘の結婚は二人の意思だったのか否か――あるいは、二人の意思それ自体が、誰かによって意図的につくられたものではなかったのか否か」
「おい摩訶子、」なんだその質問は――と云い掛けて、俺は彼女が彩華を見据える表情の真剣さに気圧される。彩華を見れば、彼女はペンをぎゅっと強く握って、どう書いたらいいものか逡巡しているらしい……それはすなわち、摩訶子の質問に何か、心当たりがあるということか……?
菜摘と名草の婚姻が、二人の意思ではなかった? そんなこと、思ってもみなかった。だって二人は昔からそれを望んでいたのだ。あの結婚式には一抹の疑いもありはしなかった。祝いのムードで溢れていた。二人は過去どの瞬間と比べても、いっそ別人のように輝いて見えた。
ただひとつ、ただひとつ気になったことと云えば、式が終わった後で名草が俺に囁いたひと言――『次はお前の番だな、茶花』――これが俺の中で、しこりとなって残っただけである。
「分かりました」摩訶子は頷いた。「茶花くんが先刻云ったとおりです、無理に答える必要はありません。ただし〈貴女が知っている〉という点に関しては、肯定と受け取ってよいですね?」
彩華は、こちらも小さく頷いた。摩訶子と彩華の間で今、俺には分からない何某かの認識が共有されたらしい。
だが、彩華が知っていて俺が知らないこと……ここでも再三、思い知らされた気分だった。俺は何も知らない。陽に照らされたところだけを見て、陰となった部分の存在を考えもしなかった。
その事実がショックでないと云えば、嘘になる。
「ありがとう御座いました」と、摩訶子は年下の彩華にも丁寧にお辞儀した。それから部屋を出ようとしたところでふと足を止め、もう一度、彩華の方へ振り向いた。
「貴女は私の瞳からも、私の本当の感情というものを読み取れるのでしょうか?」
彩華はスケッチブックに字を綴ると、顔を隠すようにしてそれを掲げた。
『あなたの目は見たくありません。怖いのです、あなたのことが』
「そうですか」
摩訶子はさして残念そうでもなく、今度こそ部屋を出た。俺が扉を閉めると、珍しく苦笑のようなものを見せた。
「彼女の君への心酔ぶりは大したものだな。気付いたかい、君が私を『摩訶子』と呼び捨てにしたとき、彼女はピクリと反応してペンが折れそうなくらい力を籠めた。立ち去ろうとする私の背中に刺さった殺気も堪らなかったね。彼女のことが怖いのは私の方さ」
俺は一瞬、固まってしまった。摩訶子は「さあ、」と口調を改める。
「確認作業は終了した。手掛かりはすべて出揃ったよ。解決へと至る登山道も実に九合目――証拠と共に犯人を暴くとしようか」
「ちょっと待ってくれ」
どうしてこの探偵は、こちらが追い付けないうちから次へ次へと進んでしまうんだ。
「手掛かりが出揃ったって……もしかして俺も真相を推理できる条件を満たしているのか?」
「うん。君は私が質問して皆が回答するのを洩らさず聞いていたのだから当然さ」
「……本当に?」
「何度云わせるんだい。とはいえ、母上が食事の準備を終えるまでしばし休憩時間だ。君にひとつヒントをあげようじゃないか、ワトスンくん」
摩訶子との距離は引き離されるばかり……そのヒントとやらで、俺は彼女に追いつけるだろうか。真相に至れるのだろうか。
そんな気がまったくしないあたり……なるほど、俺はワトスン役がお似合いなのかも知れなかった。