1「幕開けのザ・ヤマノベ・マーダー」
めいきょう‐しすい【明鏡止水】
(くもりのない鏡と静かな水との意から)邪念がなく、静かに澄んだ心境。
――『広辞苑 第六版』
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愛おしい幼年期にさようなら。
配列は組み替えられ、神々が姿を顕す。
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時計の短針がひと回りもしないうちに、益美が殺され、未春が殺され、名草が殺され、菜摘が殺された。
間隙を縫うようにして大胆な犯行を重ねる、この神出鬼没の殺人犯が何者なのか、何を目的としているのか、一切分からないまま、俺ら――山野部家の一族は、食堂に集った。
南北に長いテーブルを囲んで、この滞在中に各々が定位置としている席に腰掛ける。それらが四つ、ポツポツと空いている様子が、目にうすら寒く映る。
柱時計が示す時刻は午前八時半。昨夜の晩餐から十二時間が経つ。あのときの俺は、まさかこんな展開が間近に迫っていようとは露知らず、この椅子に座ってシャトーブリアンステーキを切り分けていたのだ。
頭上で煌々と輝くシャンデリアも、アンティークで揃えられた調度類も、一面に敷き詰められた深紅の絨毯も、それらをまとめ上げる厳かな趣の内装も、今では意味合いが変質してしまったように感じられた。
外は相変わらずの吹雪なのだろう。石造りのこの館はビクともしないが、時折、吹き荒ぶ風の音が耳につく。皆が押し黙っていればなおさらだ――と、この考えは幾人かの頭に同時によぎったらしい。複数の視線が交差し、やっと口火を切ったのは最年長者の林基だった。妻・益美の死によって最年長者に繰り上がった林基……。
「もはや、疑いようがないな。儂らは連続殺人事件の只中にあるようだ」
その声色はいかにも彼らしく、切迫感や恐怖感とは無縁の、落ち着いたものだった。
あちこちから、どっと息を吐く気配がして――「なんてことなの!」――稟音の小さな叫びが続いた。
「貴方たち、分かっているのかしら! 殺された人間がいるなら、殺した人間がいるんですよ。わたくし達の中に……今、此処に揃っている顔ぶれの中に!」
「……しかしお義母さん、本当にそうなんでしょうか」
困惑顔の圭太が、窺うように皆を見回す。
「あまり信じたくありませんね。下手人は此処にいない者……つまり外から忍び込んで、館内の何処かに身を潜めているのかも知れない」
その考えに、乾いた笑い声で応えたのは、木葉だった。唇の端を嫌味に歪め、見下すような視線を圭太へ向けている。
「僕達は何のために昨夜、館中を調べ回ったんだ? 侵入者なんていやしなかったろう。あの時点で、扉も窓もすべて施錠されていることまで確かめられた。それは今も変わらん。改めて確認してきたばかりじゃないか。そんな状態で今朝、新たな殺人が二件起きた。自明だよ――犯人は今、皆が視界に収められる位置にいる誰かだ」
戦慄、悲壮、不安、混乱、疑惑、警戒、泰然、無関心……それぞれに違った表情を浮かべて、ある者はキョロキョロと目線を動かし、ある者は重い溜息と共に項垂れ、ある者は何かに耐えるかのように目を閉じた。
俺は斜向かいの彩華を見た。彼女もまた俺を見ていたらしいが、すぐに俯いてしまった。
「実に嘆かわしいことですよ……。どなたか存じませんが、罪を告白してはくれないでしょうね?」
神父である秋文は、辛そうに眉を寄せ、憂愁を湛えた眼差しを宙に投げる。応答する者がないと分かると、小さくかぶりを振った。
「これからどうすべきか、話し合いましょう……」
しばらく間が空いた後、木葉が鼻を鳴らした。「まあ、自分達で何とかする以外ないだろうな」
「あ、あの……」
遠慮がちに口を開いたのは瑞羽だ。顔は蒼褪め、声もやや震えている。
「通報は……? やっぱり警察を呼んだ方が、良いんじゃないでしょうか……?」
「駄目よ!」
稟音がすぐさま一喝した。「ひっ……」と身をすくめる瑞羽。
「何度も云わせないで頂戴。警察をこの館に入れるなんて、とんでもない! お父様が何のために〈つがいの館〉を建てたのか、理解していないのかしら!」
「ごめんなさいごめんなさい……」
「決して部外者を入れるべからず――どんな状況であっても、禁を破ってはなりません! 俗物共に嗅ぎ回られるだなんて、堪らないわ。反吐が出ます!」
「それに、」と木葉が言葉を継いだ。「当分は使えない手だ。警察に限らず、外部の者への連絡手段がない。吹雪が弱まらなければ、車を走らせることもできん」
誰かがまた嘆息し、降りる沈黙はますます重みを増していく。
クローズド・サークル、という言葉が頭に浮かんだ。俺らは此処に閉じ込められているのだ。小説でなら、これまで幾度となく読んできたシチュエーション。奇妙な既視感さえ覚える。まったく、笑えない冗談じゃないか。
「……犯人の正体を暴くんだ」
沈黙を破ったのは、史哲の呟きだった。彼はテーブルの上で手を組み、そこに視線を固定したままジッとしている。分厚い眼鏡が鼻の上でずれていることにも構わず、ただ唇だけが動き、憑かれたような調子で言葉を続ける。
「益美さんと、未春を殺した奴を、赦してはならない。償わせるんだ」
「そうです!」稟音が同意を示す。「これは山野部家に対する冒涜よ。ここまで好き勝手やられて、黙っていられるものですか。天国のお父様に申し訳が立ちません。一族の恥には、一族でケリを付けなくては!」
「僕も賛成だ。犯人はまだ殺人を続けるつもりかも知れん――大いに考えられるな。早いところ攻めに転じないと、さらに屍が増えるぞ」
「犯人を刺激するのもどうかと思いますが……」
「大人しくしていれば、手を引いてくれるとでも? この期に及んで偽善をぶるなよ圭太。殺された娘の無念を晴らしたくないのか?」
今度も木葉に冷笑され、圭太は煮えきらない表情ながらも――「そういうわけじゃ……」――引き下がった。他に異議を唱える者は現れない。
「では、その方法は如何にする。推理小説よろしく、皆で推理を組み立てるか」
林基のこの問い掛けに、秋文が「それはうまくないでしょう」と応えた。
「私が思うに、犯人を名指しするに足る証拠類は今のところありません。かと云って、純粋に論理的な視点に立ったアイデアを持つ方がいますか? ……これでは疑いに疑いを重ねる、醜い水掛け論にならざるを得ませんよ。事件が解決された後にも禍根を残すような」
「じゃあ、どうしようと云うんだ? 此処には犯罪捜査のプロなんかいない。指紋を採ったり検死したりはできん」
「私に考えがあります。たしかに犯罪捜査のプロはいませんが、推理のプロならばいるのですよ。ねぇかしこさん、」
少し離れた場所に立って控えていた使用人が、不意に名前を呼ばれて「はい?」と顔を上げた。鳩が豆鉄砲を食ったような面持ちだ。
「摩訶子さんは探偵を生業としているという話でしたね?」
「はあ……そのとおりで御座いますが……」
全員の視線が、テーブルの一番端の席に腰掛け、先刻からずっと読書をしている女子に注がれた。かしこの娘・摩訶子は、制服のブレザーを着ていることからも分かるように高校生だ。自分のことを話題にされてもなお、彼女は読書を続けており、左隣の俺からでも長い前髪に隠れてその表情は窺えない。
「それこそ推理小説のように、推理は探偵に任せるべきでしょう。彼女は山野部家の人間でもないのですから、私情を挟む気遣いもなく、いよいよ適任です」
「はは……」木葉が笑った。「推理のプロと云うから何かと思えば、まだ子供じゃないか。探偵をしているとは意外だが……それだってアマチュアだろう? 正気を疑いますよ、秋文さん」
「年齢で決めつけるというのは、やや了見が狭いのでは? 事実、彼女は既にいくつかの殺人事件を解決に導いたと聞きました。少なくとも素人の私達が、推理とは名ばかりの云い合いをするより特段に良いでしょう。それでいて彼女はまったくの部外者でもない――これなら稟音さんも、お認めになれるのではありませんか?」
そう問われた稟音は、胡散臭そうに使用人の娘を見ている。
「そうですね……その子の実力が本当に確かなら、まあ、文句を付ける理由はないわ」
「重畳です。あとは当人の意志がどうかですが……如何でしょう、摩訶子さん。手に余るようなら、素直にそうおっしゃってください」
摩訶子はやはり顔を上げようとはしないまま、しかし初めて、ぼそぼそと喋り始めた。
「皆さんがそれを許可し、協力をいただけるなら、引き受けましょう……事件そのものは、私に解決ができないものではありません……」
その言葉に、人々がざわめく。女子高生探偵は構わずに続ける。
「ただしひとつ条件があります……助手が必要です……いつも助手をしてくれている子が此処にはいないので、代わりに皆さんの中から適任者……指名させていただくと、山野部茶花に――」
「えっ」
「――それを務めてもらいたい……」
まさか、俺だって? 一体どうして?
「茶花が助手として手を貸せば、殺人犯が誰なのか突き止められると云うのだな」
林基の威厳ある声がそう確認する。摩訶子が「はい……」と応える。俺は戸惑っている。
「時間も重要よ。危急の事態なのですから。どれくらいで解決できるのかしら?」
稟音の試すような声が訊ねる。摩訶子が「今日中に……」と応える。俺は戸惑っている。
「お前はどうなんだい、茶花。摩訶子ちゃんの助手をやれるのか」
圭太が、俺に問うてきた。今度は俺に、注目が集まった。
その瞬間、俺は断りようがないのだと悟った。
「……はい」
それに、戸惑っているのは事実だが、何か不都合があるわけではない……。
「俺でいいなら、やりますよ」
パタンと本の閉じられる音がした。摩訶子だ。彼女はそれをテーブルの上に放り、すっと立ち上がった。それから前髪を掻き上げて、懐から取り出した白いカチューシャを嵌めた。
誰かがあっと声を上げたように思う。
額まで露わになった摩訶子の相貌は、誰にとっても意外な美しさだったのだ。澄みきった水面でも連想させる、理知的で、落ち着きを湛えた眼差し。整った目鼻立ちや真っ白な肌はともすれば冷たい印象も与えかねないが、口元に刻まれた微笑みがそれを絶妙に和らげている。腰まで届く長い黒髪がまた、その綺麗な曲線を描く小さな輪郭を包み、際立たせていた。
まるで別人だ。猫背気味だった背筋もピンと伸びている。いかにも垢抜けない、陰気な女子とばかり思っていたのに……。
そして彼女は、呆気に取られる一同へ向けて、凛とした声で告げた。
「改めまして、明鏡止水の探偵――渦目摩訶子です。よろしくお願いいたします」