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P≠NP狂想曲  作者: MeeMee
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時代の変革に抗うもの達の狂想曲

序曲・天上の桟敷席


 この地上において,人は,生物としては異質な存在であることに,異論を挟むものは多くないだろう。


 人は,他の生物とは異なり,生存と繁殖活動以外に,知的な活動を行う。

 例えば,作曲や楽器の演奏は,生物としての人の生存に何ら寄与しない。むしろ,生存だけに着目すると無駄な時間といっても良い。


 人の知的な活動には,神への信仰心,好奇心,探求心などがある。


 信仰心は人の心に平穏と共感を与え,人々に団結を促し,幾多の困難を乗り越える原動力となってきた。


 好奇心や探求心は人の活動領域を広げるのに貢献してきた。そして、人の活動領域は生物としての限界を超え、深海から宇宙まで拡がってきた。

 

 つまり,今日の人類の繁栄は,神への信仰,好奇心,探求心などの知的な活動の集大成といっても過言ではないだろう。

 

 しかし,一握りの天才たちの好奇心や探求心は,過去幾度も,人々にパラダイムシフトを強いてきた。例えば,天動説を唱えたコペルニクス,自然淘汰説を唱えたダーウィンなどである。彼らは,人々の中にある神の概念を変容させてきた。まさに革命である。


 そして,2019年。


 新たなる先駆者たちの好奇心や探求心が,再び,多くの人々にパラダイム転換を迫ろうとしていた。


 若き天才たちが挑むのは,数学の難問奇問。その名をミレニアム懸賞問題という。

 そのうち,P≠NPの証明,およびナビエ・ストークス方程式の解の存在が否定されたとき,既成の神の概念は修正を迫られる。そして,人々の信仰心は,空前絶後の打撃を受け,否応なしに,パラダイムシフトを強制されることになると言われている。


 この物語は,若き天才たちと,彼らによってもたらされる時代の変革に抗うもの達の狂想曲である。



第1幕・連合軍の誕生


 時は西暦2001年。場所は東京某所。ここに、全てのキリスト教宗派の代表団が集結していた。その目的はただ一つ、公然と父なる存在に挑戦してきた忌ま忌ましきテロリスト・数学者達の野望を打ち砕く為である。


 議長に選出されたローマカソリックの司祭が、会議の開会宣言の後に言った。


 キリスト教は,誕生した当初から今日に至るまで,幾多の危機,例えばローマ帝国からの迫害と弾圧,東西分裂,十字軍遠征,プロテスタントとイギリス国教会の誕生などを経験してきたが,その度に,不死鳥のごとく,その全てを克服してきた。

 それはなぜか?

 それは信徒と教会は,熱い信仰心が大きな要因であったことは,疑いようのない事実であろう。

 では,なぜ,キリスト教徒は,クライシスを前にして,その信仰心が揺るがなかったのであろうか?それはキリスト教徒の心の中に全てを救済する全知全能の父の存在があったためである。大いなる父が必ず救済に訪れると。

 つまり,キリスト教が今日まで営々と続いているのは,大いなる父,すなわち全知全能の絶対神の存在こそが,その源になっていると言っても過言ではない。

 しかし,今,キリスト教の根幹である全知全能の絶対神の存在を,公然と否定する凶悪なテロリストが現れた。奴らは,数学という武器で,全知全能の絶対神の存在を全力で否定しようと挑戦してくる。しかも,世界中に拡散し,あらゆる方面から攻撃を行う。その在り様は,まさにスズメバチである。ただただ,全知全能の絶対神の存在を否定することのみに注力し,全勢力を傾けている。

 この危機的な事態に対して、我々は,長きに渡る対立の歴史を乗り越えて,絶対神を防衛するために教会連合軍の創設が決定された。

 本会議は、教会連合軍の陣容を具体化するものである。

 出席者各位の活発な議論を期待したい。


 そして時は流れ、今は西暦2019年末。


 教会連合軍は,勝利を得ることなく,2019年の年末を迎えつつあった。年が明けると,テロリスト共との抗争開始から20年目を迎えることになる。教会連合軍とテロリストとの抗争は,血を流すことなく,ただ,ひたすらじりじりとした一進一退の消耗戦が続けられていた。そう,今,この瞬間も。静かに深く,そして時には熱く。



第2幕・セルゲイ


 セルゲイは悪夢にうなされていた。

 テレビ,新聞,ネットニュース,SNSなど,あらゆるメディアは,一人の少女の話題で持ちきりだ。眩いライト,無数のフラッシュの中に,その少女は優雅な微笑みを浮かべ,時には,はにかみながら記者からの質問に答えていた。しかし,セルゲイにはその声は聞こえない。その顔は見えない。しかし,その面影は知っている。

 セルゲイは止めろ!止めろ!!と少女に叫ぶが,彼女には届かない。

 そして彼女は,セルゲイに微笑みかけた後,こう言った「私は,神にも解けない暗号があることを証明しました」。そして,一息入れていて,「神は世界を創造したかもしれませんが,決して全能ではないことが証明されたのです」。そして,目を閉じた後,「絶対神は存在しないのです」と,世界に対して高らかに宣言した。

 それを聞いた瞬間,セルゲイの足元の地面は崩れてゆく,ガラガラと音を立てて。そして,宙に浮いたセルゲイは,遠くにいる彼女に対して手を伸ばして,彼女の名前を叫ぶ。しかし,セルゲイは彼女の名前がわからない。しかし,夢の中で,セルゲイは確かに彼女の名前を叫んでいた。そして,セルゲイは闇の中に落ちてゆく。彼の見上げた先には,光の中に少女が佇み,愛おしい微笑みを浮かべていた。


 2019年12月25日,セルゲイは悪夢から帰還した。まるで,真夏の日のように全身を汗で濡らして。

 寝室を見回せば,カーテンの隙間から冬のぬるい朝陽が差し込んでいた。小さく息吐く。すると,キッチンから小気味良い包丁の音と味噌スープの香りが寝室に届いていることに気が付いた。隣で寝ていた結菜は,すでに起き,朝食の準備をしているらしい。セルゲイは右手で顔を覆い,大きく息を吐き,新しい朝を迎えられたことを神に感謝した。寝室の床には,一週間前にプレプリント投稿サイトに公表された論文のプリントが散らばっていた。その論文の筆者は,ニーチェ。そのタイトルは,P≠NP問題の完全解法。


 ここは,大岡山にほど近いマンション。

 セルゲイは,宗教が麻薬とされた旧ソ連に生まれた。少年時代,彼は全知全能の父にソ連の崩壊を願った。そして,その時は訪れた。彼は,大いなる父が存在を確信し,その信仰を深め,ついには東方正教会の希望の一人となった。

 2000年のあの日,忌々しいテロリストどもの宣言をセルゲイはテレビニュースで知った。

 そして,彼は連合軍司令部要員に選抜され来日した。日本に司令部が置かれたのは宗教的に中立なためである。

 セルゲイは,来日当初,作戦はイージーなものであり,直ぐに帰国できると考えていた。教会連合軍の組織とその資金力を鑑みれば,それは当然であった。しかし,現実は甘くなかった。彼は打ちのめされた。

 そんな時,セルゲイはニコライ堂の復活祭で結菜と出会った。セルゲイの一目惚れだった。そして,結菜と結婚し,セルゲイは高坂の姓を名乗ることになった。その2年後,杏を授かった。

 そして,2015年。セルゲイは連合軍最高司令長官になった。



第3幕・結菜


 キッチンに立っている結菜の足元では,飼い猫のオイラーがまどろんでいる。猫の名前は,娘の杏がつけた。娘が言うには,オイラーとは18世紀の天才数学者の名前だそうだ。我が子ながら,変わったセンスよねぇ。


 結菜は,リズムよく包丁を奏でながら,セルゲイからプロポーズされた18年前からの出来事を思い出していた。


 セルゲイと出会ったニコライ堂の復活祭には,高校時代の友人が東方正教会の信者だったのでカソリックとの違いが知りたいという好奇心で参加したものだった。

 彼女はセルゲイとは異なり,典型的な日本人らしく,正月,お盆,クリスマス,大晦日を楽しんでいる。熱心な東方正教会の信者であるセルゲイには,理解できないそうだが,結婚のときの約束を守って,彼も正月,お盆,クリスマス,大晦日の家族イベントに参加している。それともう一つの約束,朝食と夕飯にはご飯と味噌汁を一緒に食べることも守っている。彼女は,自然とはにかみながら微笑んでいた。


 結菜は東証二部に上場している商社に役員として勤めている。年明けには,創業以来の悲願だった一部上場を果たす商社である。


 彼女が杏の妊娠した時の役職は事業本部長(執行役員扱い)だった。彼女の率いる事業部は,会社の利益の実に72%を稼ぎ出していた。

 そんな彼女が,出産を機に退職しようとした時,社長は泣いて彼女を引き留めた。


 曰く,結菜が退職すると,会社は倒産しまうと。

 そして,社長はこう言った。


 君の好きな時,好きな場所で勤務すれば良い,役員になってくれと。


 因みに,彼女の退職の噂が流れたとき,会社の株価は3分の1になり,役員への就任が分かると元値の1.2倍になった。

 このため,証券取引委員会がインサイダー取引の疑いで調査を行った。そして,これを境に,彼女の進退は,経営上重要な情報として,四半期決算時に報告されることが義務付けられるようになった。


 そんな彼女である。セルゲイが結婚を機に,高坂の姓を名乗ることになったのは,当然の帰結だった。



第4幕・杏


 日本人とロシア人とのハーフである杏は,亜麻色の髪の乙女といった雰囲気を醸している。セルゲイと結菜はそれを同僚たちに自慢していたが,杏はそれを知らない。


 杏は床に紙屑が厚く堆積する部屋のベットの上で,二度寝を楽しんでいた。二度寝の背徳感と何とも言えない微睡が杏は好きだった。まさに至福である。


 昨夜は,両親から貰ったクリスマスプレゼント・暴れん坊将軍のDVDボックスを心行くまで堪能していた。それでも,まだ半分以上エピソードが残っていると考えると,至福の時は甘美な時になった。


 しかし,昨夜のお父さんは,大事なクリスマスイブに21時過ぎに帰宅するとは。最近,帰宅が遅く,仕事が大変なのは理解できるが,クリスマスイブは遅くとも19時には帰宅すると言うママと私との約束を破るとは,いい度胸じゃぁないかぁ。

 そんな不届きものに対して,いつものごとく,ママの「成敗」が発動され,わたしは扇子で不届きものを叩き切ってやったわ。

 でも,クリスマスプレゼントが新さん尽くしとは,我が父ながら分かっているじゃないか。ボックス1の新さんって若―い。年明け,貯金とお年玉でボックス2を買おう!できればボックス3も!!それと,視聴版の他に,保存版も買っちゃおうかなぁ。


 この年末は16年の人生史上,最高だったと思う。


 だって,中学1年の時に知って,夢中になっていた「超難解パズル」がこの年末についに解けたの。あまりにも嬉しかったので,世界に向けて叫びたくなった。なので,英語の論文を2日間不眠不休で書き上げて,プレプリントサイトに投稿したの。日本に育ったけど,英語に困らなかったのは,ネイティブではないけどロシア人のお父さんと英語でお仕事をしているママに感謝だわ。

 そろそろ,私の論文に対して,検証チームが編成されているころだと思うと,ワクワクしてきて,ベットに顔を埋めてタオルケットにスリスリしてしまうの。もっとも,これをママに見られると…………。でも,この背徳感も何とも言えない至福のスパイスなの。


(´∀`*)ウフフ(´∀`*)ウフフ……Σ(゜∀゜ノ)ノキャーΣ(゜∀゜ノ)ノキャーΣ(゜∀゜ノ)ノキャー……(≧▽≦) (≧▽≦) (≧▽≦) (≧▽≦) (≧▽≦)…………………………(・∀・) ………………(;・∀・) …………………(;’∀’) ………………………。


 背中にわたしを押しつぶさんばかりの強烈なプレッシャーを感じて,スリスリをやめた。そして,ゆっくり,ゆっくり,ゆっくりと振り向くと,そこには仁王様が立っていた…………。


 いつまで寝ているの杏!それとタオルケットで顔をふくのを止めなさいと言っているでしょ!!誰が,それを洗濯すると思っているの!!!それと部屋を掃除しなさいと言っているでしょ!!!!


 仁王様の余りの迫力に,表情が固まる私。

 そして,ついツイートしてしまった。

 「今日はクリスマスなのに,我が家には仁王様がいる」と…………。


 ごっち~~ん!!


 そして,仁王様のお仕置きを受けた私は「ごめんなさーぃ」と叫んだ。


 キッチンにいたセルゲイは,オイラーに朝食を与えながら,いつも通りの「ごめんなさーぃ」を聞いた。そして,「いつも通りの穏やかな朝が来たな」とつぶやいて,神に感謝しながら微笑んだ。



第5幕・司令部にて


 セルゲイは,涙目の杏と一緒に家を出て,大岡山から電車に乗った。結菜は家事を終えてから会社からの迎えの社用車で出社する。優雅に時差通勤を実践する結菜が羨ましいセルゲイと杏であった。

 杏は途中の白金台で下車して高校に向かった。杏は,通っている高校に対して,多少の窮屈さを感じながらも,友達と過ごす時間が心地良かったので,総じて言えば学校が好きだった。結菜によると杏の成績は文句が無いそうである。伝聞調になるのは,杏がセルゲイには成績を伝えていなかったからである。


 セルゲイは,その先の溜池山王で電車を降りて,オフィスに向かった。その道中,16歳にもなっても母親にお仕置きされる娘を微笑ましくも少し心配になっていた。

 いくつになったら,ごめんなさーぃを聞かなくなるのだろうと。と同時に,それが聞けなくなった時を想像すると寂しくもなる複雑な感情。それと何故,ママとお父さんなのかを考えると,父の悲哀も感じてしまう歳になったとセルゲイは感じていた。


 しかし,そんな彼も,ここ連合軍司令部にいるときは,キリスト教を守護する一人の優秀な使徒であった。念のため言っておくが,妻がチートなほどハイスペックな存在なため,家庭では彼の能力が過少に評価されているだけである。また,娘も年齢以上の能力と容姿(本人は無頓着だが)を誇っていることもそれに拍車をかけていた。ある意味,幸せ過ぎて,不幸な男でもあるのだ。


 セルゲイはいつも通りの時間にオフィスに到着し,副官のミシェルに声をかけた。

 オフィスの名称は,「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団」。登記簿によると,バチカンの他に,各国の首都にその支部がある。そして,その登記簿の目的の欄には「数学の知識を遍く世界に広め,ミレニアム懸賞問題の解法を目指し,その成果をもって数学をはじめとするあらゆる分野の学問の研究を深める。」と記載されていた。しかし,これは世を忍ぶ仮の姿である。ここは,セルゲイが司令長官を務める教会連合軍の司令部である。


 セルゲイは教会連合軍の制服に着替え,司令長官の席に座り,ミシェルは,司令長官室のブラインドを下ろした後,セルゲイの隣の席に座った。そして,複数のモニターに世界各国に散らばったエージェントを呼び出した。会議の出席者に配布された資料には,最新のニーチェに関する動向と情報について記されていた。


 モニター越しだが,エージェントは皆緊張していることが分かった。なぜなら,最も恐れていた事態の一つが発生したからである。

 そう,ニーチェと名乗るテロリストがP≠NPを証明したと宣言したからである。ニーチェは公然と,全世界に向けて「神にも解けない暗号がある。神は全能でないのだ」と宣言したのだ。更に,このテロリストは,偽名とは言え,「神は死んだ」と著書に記し,教会勢力に反旗を掲げた憎むべき存在・ニーチェの名前を騙ったのである。不遜の極みと言わずして何と言おう。

 このテレビ会議に出席しているもの皆が思っていた。何がニーチェだ。神は死んでいない。神は絶対の存在であると。

 彼らの瞳を見て,その士気が全く衰えていないことを確認したセルゲイは,安心したと同時に,試練に対して心が折れることがない同志たちに敬意を払った。


 会議の冒頭,ミシェルから,ニーチェに関する情報とその動向の報告が行われた。もっとも,ニーチェはプレプリントを発表した後,一切,行動を起こしていない。このため,今回の事態が発生した当初からほとんど情報が更新されていない。ネット上の不確かな情報の概要とその裏付け調査の結果が,会議の都度,加わるだけだった。


 セルゲイは,ミシェルの報告を聞きながら,苦虫を噛み潰していた。

 ニーチェが俗物ならば,その対処は容易いなのだがと。彼(彼女)の目的は何なのだ。ただ,世間を嘲笑うためなのか?

 ニーチェは100万ドルの懸賞金や功名心は全く求めていないようだ。まるで,ブロックチェーンの論文を発表したSatoshi Nakamotoのように。


 これまで得たニーチェの唯一の手掛かりは,プレプリントサイトに論文を投稿する際に必要となる電子署名だけであった。しかし,情報部からの報告によれば,ニーチェはこの論文以外に,その電子署名を一切使用していないとのことであった。

 ただ,今回,ニーチェの英文には,ロシア語と日本語の訛りが確認できたとの分析結果が報告され,新たな手掛かりとして加わった。


 ミシェルの報告終了後,セルゲイは,各支部の責任者から,順次プロジェクトの進行状況の報告を聞き,それぞれに手短に,しかし的確な指示を伝えていった。会議の中盤,先週セルゲイの指示を受けたUSA支部のマイケルから,カリフォルニア大学バークレー校のチームがニーチェの論文を否定するための検証チームを立ち上げたと報告された時,出席者が色めき立ったが,セルゲイは冷静になるように一同に促した。

 そして,セルゲイはこう言って,会議を締めくくった。


 資金の出し惜しみをするな。何としても,ニーチェの論文を否定する検証チームを編成しろ。バークレー以外にも必ずあるはずだ。


 会議の出席者は一斉にセルゲイに敬礼した。


 会議が終わり,ミシェルは,ブラインドを上げた後,セルゲイに紅茶を差し入れ,「いつもながらお見事です。まずは,バークレーチームの健闘を期待しましょう。それと,きっと,バークレーに続く勇者たちも現れますよ」と労った。

 セルゲイは,ミシェルの心遣いに感謝した。

 そして,彼女に伝えた。


 今回の件で,漣の意見を聞きたい。彼の専門分野はP≠NP問題ではないが。スケジュールの調整を頼むと。



第6幕・漣


 16時すぎ,開店前の六本木の寿司屋で漣と会った。セルゲイとミシュルは,出勤時に着ていたスーツに着替えていた。連合軍の制服はここでは目立ちすぎるからである。

 夕食前で小腹が空いていた彼はおやつ替わりに,まず光り物ばかり8巻食べた。先ほど,追加でトロと穴子とヒラメのエンガワを大将に注文した。相変わらずの自由人である。もっとも,我が家の自由人達には及ばないがな。

 セルゲイとミシェルは大将のお任せで4巻食べ,今は,赤出汁を飲んでいる。

 店には居るのは,セルゲイとミシェルと大将,そして彼だけである。大将は敬虔なカソリックで司令部の設置にも関わった人物である。大将から,敵に情報が漏れることはない。


 漣はいつにもまして雄弁だった。


 明らかに,興奮していた。


 そう,ニーチェの論文に。


 まさか,中学で習う背理法と高校で習う確率統計と極限だけで,P≠NPが証明されるとは思っていなかったね。しかも,エレガントな解法だった。まず,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化し,極限を使ってそれをNPとP問題に展開し,それらをもって背理法によってP≠NPを証明するとはね。まさにコロンブスの卵だね。回路計算量や代数化に固執したロートルどもは,さぞかし驚いただろうね。

 これはポアンカレ予想のドラマの再現だよ。あの時は,トポロジーと微分幾何学だったけどね。P≠NP問題に憑りつかれた連中は,まず,P≠NP問題を解かれたことに落胆し,それが基礎数学によって解かれたことに落胆し,そして,こんな簡単な証明に気付かなかったことに落胆したことだろうね。


 セルゲイは,彼の話を半ば聞き流しっていたが,漣の最後の言葉「こんな簡単な証明」に,背筋が凍り付いた。ニーチェの証明は,P≠NP問題の専門家ではない彼にも理解できるほど明解で,完璧だと言うことかと。

 セルゲイは,自身の不安を振り払うように,彼に問うた。


 ニーチェの証明は,専門外の君でも理解できるくらい,自明で正しいものなのかと。


 漣は数秒押し黙った後,セルゲイの目を見て,折り目正しく,こう言った。


 知っての通り,数学の重要な定理の証明は,2年程度かけて行われる検証を経た後,公式に認められます。従って,少なくとも2年間は,ニーチェの論文が正しいとは誰も言えないと思います。

 その一方で,ニーチェの証明プロセスは自明な原理を利用しているため,何人もそれを否定することは出来ないと考えます。

 検証が必要な個所があるとしたら,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化したことと,極限を利用してそれをNPとP問題に展開したことだと思います。ニーチェの論文は,これらの点について説明が不足しています。このため,ニーチェの証明が,全ての事象を説明する一般性を有しているのか判断が付きません。もっとも,ニーチェにとっては自明なことなのかもしれませんが。


 彼と長く付き合っているセルゲイは知っている。彼が敬語でセルゲイの目を見て話すとき,彼の言葉には真実が宿っていることを。セルゲイは心臓鼓動が否応なしに早まっていることを自覚した。

 セルゲイの中で,東方正教会への信仰心と,ニーチェが言うように神は死んだのか?という疑問が渦巻いていた。


 その時,セルゲイの様子を見かねたミシェルが彼に新しい話題を振った。


 ところで,漣くん,ナビエ・ストークス方程式の解は滑らかなものになりそうなの?


 この質問にはミシェルの願望が含まれていた。彼もそれに気づいていたが,数学者としてそれを咎めることなく質問に答えた。


 ミシェルさん,今は断定したことは言えないですが,直観では7:3で滑らかではなさそうだと感じています。そもそも,解が存在しない可能性も高いのではないかと。もっとも,変な先入観があると,思考を曇らせるので,思い込みは控えていますが。


 それを聞いたミシェルは慌てた表情を浮かべながら,「そう,変なことを聞いてごめんなさい」と謝罪した。それを聞いた彼は,ミシェルの真意を測りかねていた。


 それもそのはずである。彼女は,彼に謝罪したふりをしながら,先ほど以上に難しい顔をしているセルゲイに謝罪したからである。


 セルゲイは,彼女の心遣いに感謝した。

 そして,心の中で,漣,お前まで「未来は神にも分からない。神は全知でないのだ」というのかと,セルゲイはうめいていた。



第7幕・杏の事情


 杏は,女子高の同級生・莉子とともに制服のまま六本木ヒルズに向かって歩いていた。

 校則では,制服のまま繁華街に行くことは禁止されているが,明るいうちなら良いだろうと二人で校則を独自に解釈して,終業式後,二人はお目当てのショップに向かうことにした。


 この辺が,うちの学校の窮屈なところなのよね~。


 今日のショッピングは,新さんのDVDボックスの値段の事前リサーチも兼ねている。


 わたしは,新さんのグッズを買うときは,決してネットショップでは買わないことにしている。なぜなら,お店で商品を自分の手に取って見定めて,それをレジに持っていて,手でお金を渡す過程が好きだから。それが,大好きな新さんグッズならなおのことよねぇ。しかも,ショップで,知らなかったアイテムを発見できれば,その喜びは格別。宝探し,サイコーで~す。


 もっとも,中学まで一緒で,高校から麻布の男子校にいったあいつはこの楽しみを理解出来ないなどとぬかしていたなぁ。


 あいつって,誰かって?


 幼馴染の漣のことだ。


 漣とは産婦人科から中学まで一緒だった幼馴染である。


 なぜ産婦人科?


 それは,ママ達が同じ産婦人科に通っていて,その時に意気投合して,無二の親友になり,その関係で,漣とは中学までず~と一緒だったの。

 高校は,わたしは女子高,漣は男子校に進学したので,会う頻度は減ったが,我が家で漣の話題は事欠かない。


 なぜかって?


 それは,ママ達は,あいつとわたしは結婚する運命だと確信し,結婚式の日どころが孫を抱くことを待ち焦がれているから………………(~_~;)。

 そんな具合で,中学では,わたしは周りの女子からは漣の婚約者とか言われて冷やかされ続けてきたの。まぁ,小学生の時は,ママ達の言葉を真に受けて,漣と結婚するのとか周りに言っていたけどね………………(-_-;)。


 高校が別々になったので,ママ達の熱も少しは冷えるかと思っていたら,ママ達は,もうすぐ18歳よねと言いながら,何やらウキウキしながら,色々な準備を始めだしているようだ。

 なんでも,ママ達の関係者(たぶん,政財界の重鎮だと思う)の予定を抑えるには,2年前から準備する必要があるとかないとか,ないとか。


 まさか,漣との新居まで用意しているとかないわよね………………(;’∀’) 。


 ママ達ならあり得そうで怖い。考えないようにしよう…………(;;’∀’)。

 

 でも,わたしはママ達が大好き。だって,二人とも,スペシャルなくらい仕事ができて,奇麗で,優しいから。ママ達との月一のお食事会は最高に楽しいの。付録にお父さん達がついてくるのが玉に瑕だけどね。

 もっとも,あいつはママ達のことをどう考えているか知らないけどね。いい加減,中2病から卒業すればいいのに。黙っていれば,頭が切れて,背も高く,容姿もそこそこなんだから。


 いつの間にか,漣のことを考えて,頬が熱くなってきた自分に気が付き,わたしはブンブンとわたしは頭を振った。

 そうよ,せっかく,莉子と冒険しているのだから,もっと楽しまなくちゃと。


 そんな時,わたしの目に,あり得ない光景が飛び込んできた。

 なんで,蓮とお父さんが,なぜ,お寿司屋から出てくるの?しかも,若い女(しかもパッキン美女)を連れて!この不埒者どもが!!


 わたしはカバンから扇子を取り出して駆け出していた。莉子とカバンを置き去りにして。



第8幕・強者と弱者


 セルゲイは,休み時間にお店をあけてくれた大将にお礼を言ってから外に出た。

 ミシュルがタクシーを拾おうとしている。

 そんな彼女を見ながら,セルゲイはふと思った。ミシュルはイギリス国教会,大将はカソリック,USA支部のマイケルはプロテスタント,そして自分は東方正教会,司令部のスタッフにはイランの原始キリスト教徒もいる。そんな我々が共通の敵・ニーチェに対抗するために,連合軍に集結している。数世紀に渡る対立を乗り越えて。ニーチェは,我等にかりそめとは言え,我々に和解をもたらしたのだ。皮肉なものだと。

 セルゲイは,弱気なことを考えている自分を鼻で笑って,気を取り直す。早く司令部に戻って,今後の対策を立てようと。


 そんな時に,いきなり後頭部を扇子で叩かれた。しかも,その扇子は佐々木小次郎の燕返しのごとく鋭いステップを踏んで,隣に立っていた漣の後頭部も叩いていた。


 成敗!


 よろめいた二人の横では,突然の事態に驚愕しているミシュルがいた。そして,杏に置き去りにされた莉子は遠くでアングリとしていた。


 後頭部を叩かれたセルゲイと漣は,後頭部に手を当てながら振り向いて,声をそろえていった。


 杏,いきなり何をする。


 その杏は,左手を腰に当て,二人の後頭部を叩いた扇子を二人に向け,夜叉のごとく怒気を込めて,セルゲイと漣を睨みつけていた。セルゲイ達は,ここで目を逸らしたら負けだと思いながらも,本能にまで刻み付けられた習性からか,つい,目を逸らしてしまった。あぁ,これが小動物の悲哀か。そして,杏による宗教裁判が始まった。



第9幕・宗教裁判


 宗教裁判とは,教義や見解に基づいて行われる裁判手続のことである。

 有名なところとしては,ガリレオ・ガリレイの地動説に基づく裁判であろう。ガリレオはデカルトのように仮面を被っていればお咎めを受けなかった。しかし,彼は仮面なしで,真っ向から聖書墨守主義者と地動説の論争を繰り広げ,悲劇的な結末を迎えた。ガリレオもデカルトのように,聖書墨守主義の一員のふりをすればあのような悲劇は迎えなかったであろう。

 そして,今ここに,杏裁判長による,杏主義に基づく,宗教裁判が開廷されようとしている。被告人は,パッキン美女を連れて夕飯前にお寿司を食べた不心得者,セルゲイと漣である。

 セルゲイと漣は,まさに,デカルトになれるかが問われていた。


 杏裁判長のややドスの効いた言葉を皮切りに裁判は開廷された。


 さて,まずは,大切なママ達が作る夕飯前に,お寿司を食べた理由を伺いましょうか?まさか,お寿司でお腹一杯になったから,夕飯はパスなんて言わないわよねぇ?しかも,パッキン美女と一緒だったとはねぇ。


 セルゲイは,事態を早期に収束させるために,裁判長に悔恨の情を伝えようとしたその時に,もう一人の被告人である漣が裁判長に反論を開始した。


 ミシュルさんから電話で,ニーチェについて意見を聞きたいとおじさんが言っていると聞いたときに,小腹が減っていると伝えたら,大将のお寿司でも食べながらにしようと言われてここに来たんだよ。確かに大将のお寿司は美味しかったから十二貫ほど食べたけど,夕飯が食べられないほどではお腹一杯ではないね。散歩がてら40分くらい歩いて帰宅すれば腹も減るかな。

 

 漣の反論を聞きながら,セルゲイは,これが若さ故の過ちかと心の中で呟いた。

 違うんだ漣!杏は,杏が知らない金髪美人と一緒にお寿司を食べたことを責めているんだ。お前の反論は,火に油を注ぐぞ。しかも,ミシェルをさん付けで呼ぶとは。

 なぜ,大将のお寿司は3つ星に相応しい味で,間食としては食べ過ぎていた。ごめんなさいと懺悔できない。なぜお前は仮面を被れない。

 

 ふ~ん。ミシェルさんって言うんだぁ。(* ̄- ̄)

 ミシェルさんはお父さんの職場の人?


 急に話を振られたミシェルは,はっと我に返り,杏のオーラに気圧されながら


 ええ,セルゲイさんの職場の同僚のミシェルと言います。

 あなたはセルゲイさんの娘さんの杏さん?


 そうだけど,なぜ私を知っているの?


 お父様の机の上に杏さんの写真があったので


 ふ~ん。


 で,ニーチェってなに?


 最近,プレプリントサイトに投稿されたP≠NP問題の論文の筆者のことよ。お父様はミレニアム数学振興事業団の理事長なので,ニーチェに興味があって,漣くんの意見が聞きたいと言われて,私がここの段取りをしたの。漣くんが,お腹がへっていると言っていたので。


 ふ~ん。と言いながら,杏は自分の鼻の頭を指で掻いていた。

(#^^#)(#^.^#)


 ニヤニヤしている杏に,漣は,なに,ニヤニヤしているんだよ杏。ニーチェについて何か知っているのか?と問い質した。


 別に。


 で,なぜ,漣はミシェルさんのことを知っているの?と,漣に顔を近づけるながら,杏は詰問を続けた。

 これを皮切り,漣は杏から,根掘り葉掘りと小一時間ほど尋問を受けた。漣は哀れなガリレオとなったのだ。


 その様子を見ながら,セルゲイは,自分は釈放されたと思った。実は,セルゲイは,背中に嫌な汗が出ていることを自覚していた。なぜならば,大将のお寿司は3つ星に相応しい味で,間食としては食べ過ぎていたのだ。ガチで。20代のころならば,16時すぎにお寿司を十貫食べても,19時ごろの夕飯は問題なく完食出来たが,今は?と問われると,ぐうの音も出なかったのだ。結菜,すまないと心の中で詫びた。



第10幕・漣,杏を考察する


 杏から解放された漣は,憔悴した雰囲気を醸しながら自宅へ歩を進めていた。その様はおよそ腹ごなしの散歩からは程遠いものだった。


 トボトボと歩きながら,漣は,つれづれと


 相変わらず杏は理不尽だなぁ~。

 夕飯前にお寿司をちょっと食べただけで,なぜ小一時間も詰問を受けなければならない。

 たしかに杏と母さんの仲は良いけど,あれはないんじゃないかぁ。

 それとセルゲイおじさん,いつの間にかミシェルさんと居なくなっていたしなぁ,酷いよなぁ~。


 などと考えていた。


 そんな時,ふと杏とのやり取りを思い出した。


 ニーチェの解法のどこに問題があるのよ。具体的に言ってみなさいよ。


 お前,あの論文をちゃんと読んだのか?どう考えたって,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化したところと,極限を利用してそれをNPとP問題に展開した個所については,説明が不足している。自明な定理を利用していない以上,もう少し丁寧な説明が必要だろ。誰も考えたことが無い事なんだから。

 例えば,数独のように具体的な例題があるNP完全問題を対象に,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化できることと,極限を利用してそれをNP問題に展開できることが示されれば,ニーチェの解法の正しさを補強できるんじゃないか?


 ぽん!と杏が手を打つ。そして,


 おおぉ!(^o^)

 あんた頭良いわねぇ(#^.^#)


 ところで,お前,P≠NPの研究をしていたのか?


 別に。と言いながら,杏は自分の鼻の頭を指で掻いていた。


 杏のしぐさを見て,漣は,杏が何か隠していることに気づいた。


 杏は隠し事をしているときに鼻の頭を指で掻く癖があるからなぁ。

 まさか,杏がニーチェ?

 それは無いな。確かに杏は数学が好きで,数学の論文をよく読んでいたけど,もっぱら母さんの影響を受けて,実用数学,特に確率統計分野ばかりだったからなぁ。

 そういえば,オイラーは元気かなぁ。あいつ,俺に懐いていたからなぁ。久しぶりに,オイラーの好物を持って会いにいくかぁ。


 そんなこんなを考えながら歩いていたら,いつの間にか家に着いていたことに漣は少し驚いた。なんだかんだ言って40分近く杏のことを考えていた自分を発見して。



第11幕・志緒里


 帰宅した漣はキッチンスタジオに居る母・志緒里に声をかけてから自分の部屋に向かおうとしていた。すると,その背中に志緒里が「漣,杏ちゃんと何かあったの?」と問いかけてきた。

 母の勘の鋭さに驚きながら,漣は「別に」と素っ気なく答えたつもりだった。

 しかし,志緒里は,「別にって,あんた,母親に息子が隠し事できると思っているの?だったら,先ずはその癖を治しなさいよ。ほら,鼻を触っている~ぅ」

 志緒里の指摘に,漣は慌てて手を引き,自分の部屋に飛び込んだ。

 そんな,漣を見て,志緒里は溜め息をつきながらも,その頬は緩んでいた。

 まぁ,喧嘩をした感じではなさそうね。さしずめ,杏ちゃんに言い負かされたというところかぁ。

 相変わらずの息子と未来の義娘(志緒里にとっては確定事項)の様子を想像して,志緒里は微笑んだ。

 その様子を観ていたキッチンスタジオ内にいた受講生達のリーダー格・初老のシェフが,「ドクター,そろそろ続きをお願いします」と志緒里を促した。


 ごめんなさい。途中で抜けて,じゃぁ,張りきって講義を続けましょう!

 では,天然由来の調味料の成分ばらつきがソースの風味に与える影響と,それを活かす方法についてです。具体的な手法はベイズ推定,ツールはExcelだけど,成分ばらつきを判定するのは皆さんの舌です。いちいち分析器に掛けるわけにはいかないからねぇ。

 このブラインドサンプルを使って,皆さんの味覚のバイアスを数値化します。

 じゃぁ,まずは坂井さんから行ってみましょう!


 志緒里はいつものようにお気楽なテンションだが,受講生達は皆,真剣のように研ぎ澄まされた表情だった。なぜなら,ここに集まっているシュフは,全員一つ星以上のレストランの料理長達である。隣に座る学友はライバルでもあるのだ。絶対に負けるわけにはいかないのである。

 なぜ,彼らがここに集まっているか?

 それは,志緒里が三つ星獲得請負人として,名高いからである。

 志緒里は一流を超一流にする術を,このキッチンスタジオで伝授しているのだ。


 志緒里は美味しいものを食べるのも,作るのも大好きな少女だった。そんな彼女が,小学生の時にテレビで「料理は化学である」という言葉を知った。

 それからである。志緒里は,夢中になって味覚について調べ上げた。そして,食材や調味料の成分には,ばらつきがあることを知り,食材と調味料の組合せが,季節に応じて無限の美味しいものを産み出すこと,成分のばらつきが奇跡を産む一方悲劇も招くことも知った。

 そして,志緒里は,料理化学の深淵を覗き込みたいと15歳の時に決意し,単身で渡米した。ハーバードに飛び級で入学するために。そして,20歳の時には農業化学と統計学の学位を取得していた。大いなる野望を実現するために。

 そして,気が付けば,マジシャンの二つ名で米国の料理界に知らぬ者がいない存在となっていた。しかし,志緒里は満足していなかった。いまだに深淵を覗けていない。やっと,淵の側まできたと。

 そんなときである,幼なじみの三上伸治から,日本に戻らないか?とメールが届いたのは。

 伸治は複数の星レストランを経営しており,所属しているシュフの面倒を見て欲しいと書いてきた。志緒里は,伸治のオファーには興味が無かったが,「世界で一番,星レストランが多い都市は東京だぜ」のフレーズに釘付けになった。

 世界でもっとも深淵に近い場所は東京であると確信した志緒里は飛行機に飛び乗った。

 そして,成田に迎えにきた伸治に対して言った。


 伸治,私と深淵を覗きましょう!と


 そんな志緒里が主宰しているキッチンスタジオである。講義もするが,研究の方に多くの時間が割かれているのは当然の帰結である。


 そして,伸治の苦悩が始まる。


 なぜなら,志緒里は,ライバル店のシュフまで門下生として受け入れた。

 深淵に迫るには,優秀な弟子が必要なことは分かるが,それはないんじゃないのと伸治は思っている。でも,それを言えない伸治に,彼の会社の従業員は涙した。


 しかも,スタジオの維持費は,伸治の想定の3倍を超え,とてつもないことになっているのだ。伸治の財布が悲鳴を上げる。しかし,惚れた弱味,悲鳴を上げならがらも耐え忍ぶこと18年。伸治はガッツポーズを決めるが,漣は呆れるばかり。


 もっとも,当の志緒里は伸治の苦悩など一切気にしていない。


 ちなみに,彼女がアメリカを出国した日,CNNのリポーターからインタビューを受けた有名なシュフが,日本に偉大な志緒里を強奪されたと号泣したことは,今でも語り草になっている。



第12幕・NP完全問題


 NP完全問題とは,NP問題の一部を構成する問題の事です。

 世の中には,NP完全問題が溢れている事が知られています。

 例えば,テトリスやぷよぷよなどのテレビゲーム,ジグソーパズルや数独などのパズル,ビジネス分野では宅配便の最適経路問題,正確にはハミルトンパス問題などです。

 もしかしたら,世界は様々なNP完全問題が複雑に絡み合って出来ているかも知れませんね?

 また,NP完全問題は,P≠NP問題の解決の糸口になるのではないかと専門家の間では以前から注目されているのです。すなわち,無数にあるNP完全問題の内,どれか一つでも,クラスPに属することが示されれば,P=NPが証明されたことになるからです。

 でも,これ以上詳しく解説すると,と~ても,長くなるので,ここではNP問題の特別なバージョンの一つと思ってくださいね。

 どうしても詳しく知りたい人は,私,高坂杏が推薦する専門書を読んでくださいね。

 きっと,貴方を未知のアドベンチャーワールドに誘う一冊になりますよ。


 杏は人差し指を立てながら,杏のベッドの上にいるオイラーに話しかけた。しかもウィンク付きで。

 そう,ここは杏の部屋である。


 杏は,バラエティ番組のレポーター&解説者の気分だった。しかし,唯一の視聴者たるオイラーは,それがどうした?と言わんばかりに,大きなあくびをしてから,目を閉じてまどろみはじめた。


 そんなオイラーのリアクションを見た杏は,立てた人差し指を所在なげに回しはじめた。


 オイラー,君も数学者の端くれなら,少しはノッてくれてもいいんじゃない?


 などと杏はオイラーに悪態をついたが,当のオイラーは既に夢の中の住民と化していた。


 杏は,そんなオイラーを,頬を膨らましながら睨んでから,自分の部屋の床に厚く堆積した紙をあさりだした。


 確かこの辺に,アイディアを考えていた時のメモ,数独を例題に定式化を検証していた時のメモがあったはずなんだけど。どれかなぁ~。

 宝物探しタイムに,心弾む杏。


 しかし,結菜に言わせれば,ちゃんと分類整理してバインダーに綴じて,背表紙をつけていれば,一瞬で見つかるはずの宝物探しなのだが。。。


 あっ,これは回路計算量で数独を検討していた時のメモだ!これも使えるわねぇ。

 おっ,これは代数化で定式化したときのメモを発見!!

 我ながら,頑張ったわよね~ぇ。

 で,本命くんはどこかなぁ~。

 あったー!!

 我,宝物庫の鍵を開けたり!!


 さぁ~て,一丁,論文を書きましょうかぁ。

 幸いなるかな,明日からは冬休み!幾らでも時間があるんじゃないかぁ!

 でも,年賀状書きが残っていたから,27日までにアップロードしよう!


 杏は勉強机のパソコンに向かって

 では,我が華麗なるキータイプを受けるが良い。と掛け声を掛けてから,おもむろに論文を書きはじめた。


 杏は,ハミングとひとり言を奏でながら書いている論文が,セルゲイに更なる苦悩とともに変革を迫ることになろうとは,露ほども考えていなかったのだ。



第13幕・ニーチェ動く


 12月28日,早朝,ベッドの隣のサイドボードの上に置かれていたセルゲイの緊急用の秘匿回線が騒ぎ始めた。

 ベッドで寝ていたセルゲイは,ニーチェかと思い,飛び起きた。

 その反動でベッドがきしみ,彼の隣で寝ていた結菜も目を覚ましてしまった。


 寝ぼけ眼を擦りながら,結菜はセルゲイに,何かあったの?と聞いた。


 そんな彼女の様子を見て,セルゲイは努めて穏やかな表情を心掛けながら,「海外支社からの連絡だよ。どうやら先方は時差の計算を間違えたらしい。リビングで折り返すから,結菜は寝ていて」と言って,寝室のドアを閉めて,リビングに向かった。


 リビングに向かう途中で,杏の部屋のドアの隙間から光が漏れていることに気づいた。

 また,DVDを観ながら寝落ちしたのか?と思い,そっと部屋を覗くと,勉強机で突っ伏している杏を見つけた。


 勉強中に寝てしまったのかと考えたセルゲイは,心の中で杏に詫びた。

 そして彼女の肩に,ベッドの上にあったカーディガンを掛けた。そして,電気を消して,杏の部屋を出ようとしたとき,彼の足元にオイラーが寄ってきた。

 セルゲイは,アイ・コンタクトでオイラーにお前もリビングに行くか?と聞いた。

 すると,オイラーは,リビングに向かって,廊下を歩きはじめた。その背中は,先に行ってるぜ,と言っているかのようだった。

 そんなオイラーを見てセルゲイは鼻を鳴らした。

 そして,杏の部屋のドアをそっと閉めた。


 セルゲイが出て行った部屋で,杏は寝息を立てていた。

 彼女の前のPCは,スリープモードのLEDランプが点滅していた。


 リビングに着いたセルゲイは,秘匿回線に折り返した。


 彼のコールに対して,情報部のルーカスが出てきた。ルーカスの顔は見えなかったが,その声色には,明らかな緊張が満ちていた。


 司令,ニーチェが動き出しました。

 2時間前に,例のプレプリントサイトに,ニーチェが新たな論文をアップロードしたことを確認しました。


 セルゲイは,背中に嫌な汗を感じながら,ルーカスに「それは確かか?」と問うた。


 はい,確かです。例の電子署名も使用されています。

 間違いなく,ニーチェです。


 「ついに,ニーチェが動いたか」と,セルゲイは呻いた。

 この事態は,更なる危機を招く可能性がある。

 しかし,同時に,ニーチェのしっぽを捕まえる好機でもあるのだともセルゲイは考えた。


 緊急参集チームは?


 すでにオンステージです。

 情報部と連携して,情報の収集と分析を開始しています。


 セルゲイは深呼吸をしてから,ルーカスに指示を出した。


 よし,1時間後に,司令部で緊参チームとブリーフィングを開始する。メインスタッフも緊急召集しろ。

 それと,ニーチェの論文の解析を,バークレーチームに要請。迅速解析の期限は2時間後,中間報告は3日後,最終報告は3月後とオーダーしろ。

 私も50分後に司令部に入る。


 Yes, Sir!


 セルゲイは,秘匿回線を切り,携帯でタクシーを呼んでから,5分で着替え,リビングテーブルに結菜宛てのメモを残してリビングを出た。

 リビングのソファーの上に座っていたオイラーは,「気張れよ」とセルゲイに言っているかの如く,彼の背中を見送っていた。


 セルゲイがマンションのエントランスを出たとき,タクシーがウィンカーを点滅させながら,彼の右手からゆっくりと近付き,乗車口のドアを開けた。


 セルゲイは,朝焼け直前の空を見上げた。

 その空には,赤い火星と黄金色の明けの明星が輝いていた。


 セルゲイは,グスターヴ・ホルストの惑星を思い出し,「火星,戦争をもたらす者」と「金星,平和をもたらす者」か,と呟いてから,タクシーに潜り込んだ。


続く

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