プロローグ 2
マリーさん達は必要ないと言ってくれているけれど、ただご相伴にあずかるだけというのも居心地が悪いので、いつも手伝いをさせて貰っている。
そんな僕の気持ちを察してくれてか、マリーさんも僕が手伝いとして台所に立つことを容認してくれていた。
これでも一応、料理店の息子だ。料理くらいはまともにできる。
卵入りの肉団子を丸め、野菜を切り分けてお皿に盛り付け、たれを添える。
「手際が良いねえって褒めるのは、料理屋の息子に対して失礼かねえ」
「いえ、ありがとうございます」
マリーさんは褒めてくれるけれど、僕の手際が良いように見えているのは、この後自分のところのお店を開けるために少々急がなくてはならないからだ。つまり、自分の効率を考えた結果であって、決して褒められたものではない、と思っている。お店で出すものは、もう少し手間をかけているからだ。
基本的に僕が自分のお店を開けているのは、夕方過ぎの夜の時間帯から明け方まで。それと昼の間の少しだけだ。それ以外の時間は、料理のためや、ギルドで買い取って貰える素材の狩り採集だったり、あるいはその他の仕事の手伝いに向かわせて貰っている。
初めの頃は、働き過ぎだと心配されもした(今も本当はされている)けれど、僕はこのサイクルを変えるつもりは無かったし、最近では割と放っておかれている。
まあ、若さに任せた今だからできることであって、将来どうするのかは、考えなくてはいけないと思うけれど。
「そんなの、うちのシュエットを店に立たせておけばいいさ」
そうは言われても、1人で料理から、接客から、会計から、色々するのは大変だし。
そう答えると、マリーさんに頬を左右に思い切り引っ張られた。
「それが分かっているのなら、もう少し私たちを頼ってくれても良いんじゃないのかい?」
そういえば、そのシュエットは荷物を置いてくるだけにしては遅いようだけれど――
「きゃああ!」
そう思った矢先、この家の浴場の方から悲鳴が聞こえてきた。
今のはシュエットの声だ!
反射的に駆け出して、もしかしたらシュエットがお湯を浴びている最中かも、なんて考えは頭をよぎる余裕もなく、僕は浴場の扉を開いた。
「どうした――」
どうしたの、と声をかけようとしていたのだけれど、声をかけるまでもなく、状況は一瞬で理解できた。というよりも、理解させられた。
もっとも、その状況はあまりにも信じがたいものだったのだけれど。
どうやら、シュエットは浴槽にお湯を張っていて湯加減を確認しようとしていたところらしかった。
詳しいことは分からないけれど、浴槽に張られたお湯が、まるで意思を持った人間の手のような形をして、シュエットに襲い掛かろうとしているところだった。
「ア、アルっ」
即座に障壁を展開して、水の手(得体の分からない事象だったので、とりあえずそう仮称する)がシュエットに襲い掛かるのを遮断する。
障壁にぶつかり、水が弾けて、浴室を水浸しにする。
せっかく張っていたらしいお湯は全て零れてしまっていた。
しかし、シュエットに怪我やその他はないようで、一安心といったところか。もちろん、まだ全然予断を許すことのできる状況ではないけれど。
「シュエット。今のは?」
「わ、分からないわ。突然、水面が渦を巻いたかと思うと、急に出てきたから」
突然、わけのわからない事象に巻き込まれれば、それは恐怖することだろう。
まだ少し震えているシュエットのことを抱きしめようかとも思ったけれど。
「とりあえず、これ」
僕は浴場のすぐ外にある棚から、大きく真っ白なタオルを取って、シュエットに渡した。
「その、色々透けているから」
「えっ?」
シュエットがお風呂に入ろうとしていたのではなかったのは、不幸中の幸いというか、むしろ僕にとっては残念だったというか……って、そんなことは関係なくて。
僕が顔を逸らしてタオルだけを差し出しているのを、どう解釈したのか、シュエットはしばらくの間の後、「きゃっ」とさっきとは違う、可愛らしい悲鳴を上げた。
僕の手からタオルが毟り取られるようにして奪い取られる。元々、シュエットのものだから、奪い取るというのもおかしな表現かもしれないけれど。
「……僕が乾かそうか?」
服と体を乾かすことくらいは、魔法を使えば簡単で、特に手間もかからない。
「……大丈夫」
断られた後で、「デリカシーがないわね」と小さくつぶやく声が聞こえた。
しばらくの間、背後から髪とか、身体とかを拭く音と、服を絞っている音が聞こえてきた。
「やっぱり、お願いしようかしら」
でも、絶対こっちは見ないでね、と念を押されたので、見えないと少しやりづらいと思っていたけれど、シュエットが僕の服の端を摘まんでくれたので、やりやすくなった。
「……見た?」
これはどう応えるのが正解なのだろう。
もちろん、見ていたからタオルを差し出すことが出来たわけで、でもそれは意識的に見ようとしたわけではなく、いや、見たくなかったかと言われると、それも違うと言わざるを得ないのだけれど。
「み、見てないよ……?」
年頃の女の子に対して、いくら親しい間柄とはいえ、あからさまに恥ずかしい姿を見てしまったと伝える勇気はなかった。
「水玉なんだけど……」
「えっ? 可愛いレースのフリルのついてるやつだったけど」
あ、まずい。
気がついた時にはすでに答えてしまっていた後で。
「バカっ!」
服を乾かし終えたシュエットと一緒に食卓へ戻った時には、頬を膨らませたシュエットと、頬に紅葉を付けた僕の様子を見て、マリーさんはおかしそうにふきだされた。
問題はそれどころじゃなかった気もするのだけれど。
一体、あの水でできた手のようなものは何だったのだろう。
誰かがシュエットを傷つけようとした?
でも一体誰が、何の目的で。
この土地には生まれた時から、ずっと長く暮らしているけれど、シュエットがそんな風に誰かの恨みを買っているというのは考えにくい。
シュエットは明るく快活で、誰とでも――基本的には――仲良くなることの出来る、異性はもちろんのこと、同性からも人気者タイプの女の子だ。
しかし、あの水の手からは、殺意、とまではいかないにしろ、明らかに悪意のようなものを感じた。
過去、シュエットに言い寄った男性――全員断られている――のうちの誰かが恨んで?
しかし、その程度のことで、あんな、仮にも好きだと伝えた人を傷つけるかもしれない行動に出たりするものだろうか?
中にはそういった人がいないとも限らないけれど、それもたしかに悪意は悪意であるのだけれど、どうもそういった類のものではないようにも感じられた。
「どうかしたのかい、アル」
僕としてはマリーさんと、シュエットの父親のヴェルガーさんには話しておいた方が良いと思うけれど、どうやらアイコンタクトを飛ばしてきたシュエットとしては、おふたりに余計な心配をさせたくはないらしい。
まあ、現時点では何も分かっていないのだから、どうすることも出来ないというのは確かなのだけれど。
「何でもありません。シュエットにちょっと淑女としての常識を学んでいただきたかっただけで、痴女のような真似は謹んで――」
かなりやんわりと伝えたつもりだったけれど、僕はシュエットに思い切り頭をはたかれた。やはり、デリカシーが足りなかったらしい。