〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第八話
◆葛藤
東の空が明るみ始め、夜の闇を掃い辺りの様子をゆるりと露わにしていく。
山の裾野に広がった草原は山からせり出し始めた暗雲が幾分か光を遮り、何時もの夜明けより遅く感じる。
アウラは、羽織っている二重に重ねた毛布をそのままに立ち上がった。
春が訪れたばかりのこの季節は、晴れた日中は沐浴が気持ちいい程温かいと言うのに、夜が更けていくにつれ寒くなる。
明け方は尚さら更冷える。
更に山からせり出し始めた雲が陽の光を遮り、温もりを寄こしてくれない。
何とも意地の悪い雲なんだろう! などと腹を立ててみても自然営みを何とか出来る筈もない。
昨日、少年が言ったように雨の気配が見て取れる。
昨夜まで広く見えた草原は、昨夜現れた騎士団一行が野営している天幕が、あちこちに張られ狭く見える。
アウラは、考え事をしながら山にせり出し始めた黒く重なる雲をぼんやり見ていた。
昨夜ランディーが言っていた言葉がアウラの心を締めつける。
……私は、いったいどうするのだろう。
偉大な魔女の禁術書がもし、北の神殿で見つかればグリンベルの仇討ちが出来る力を手に入るかも知れない。
グリンベルの悪魔を打ち破る強大な魔術を知る事が出来る。
それ程強大な力を発現させる魔術を習得する事が並大抵ではない事も分かっている。
山羊飼いの少年が言っていた話が、本当なら彼自身の預かり知らぬ処で起きた悲劇だったのかとも思う。
ただ、少年が知らないだけ……そうだったとしたら許せるの? アウラ? グリンベルの悪魔を体内に宿したあの少年を……。
本当に? アウラは自問自答を繰り返した。
山羊飼いの少年は、もしかしたら原典や古伝記等に記されている究極の魔物ドラゴンの称号は母だけが持つに相応しいと言う自負から、他の竜族の存在を否定しているのではないだろうか? と考えてみる。
もし、少年が言うようにドラゴンと呼べる唯一の存在が彼の母だけだとするならば、彼を討たなければならない……討ちたい。
しかし、少年の母であるドラゴンの本体は既に死滅していて、この世に存在していない。
山羊飼いの少年は、ドラゴンの力を発揮する循鱗を体内に宿しているだけだ。
直接的ではないものの、ドラゴンの力を発揮する循鱗とか言う代物を滅してしまいたい気持ちが胸中の何処かにあるのも確かな事だ。
出来る事なら彼の体内から循鱗だけを取り出す方法はないだろうか?
少年の命は奪いたくはない。
もし、出来たとして、この山羊飼いの少年は、素直に循鱗を渡すだろうか? 彼が循鱗を滅されると知ったらどう思い、どうするのだろうか。
いや、考えるだけ愚かな事かも知れない、滅されると知りながら渡す訳がないのだ。
大切な形見を……。
風狼と遭遇したあの時、危急を脱する為に循鱗を封印を解こうとし心の何処かで迷いながらもグリンベルの悪魔を討つその日のまで生き延びる為に仇かも知れない循鱗の戒めを解こうと決めた。
あの時、循鱗が放つ光の中に浮かび上がったドラゴンの姿は思い描いていた伝承にある、恐々とした姿からは想像も及ばない程に美しい。
その姿とドラゴンが放つ七色の光から伝わっる感覚は母の腕に抱かれているような安らいだ気持ちと温かく、やさしい感触が風狼の恐怖を取り去ってくれたようにも思えた。
少年が話してくれたように、その身を投げ打ってまで究極の魔物ドラゴンが人間如きを護るために魔物の群れから、この世に数多存在する内の極僅かな人間たちと一握りの街を守った理由はなんだったのだろうか。
ドラゴンが威厳ある美しい姿を、恐らくは魔術か何かで人間の姿に変えてまで人間の子供を育てながら、人々に疎まれる山羊たちを連れ、人の世を少年を連れて放浪の旅を続けている内に人の情にも触れたであろうドラゴンだったとしても少年だけを連れて逃げる事など循鱗を少年に与えていたとはいえ、本来の姿を持ってすれば雑作もなかっただろうに。
ドラゴンは何故? 我が身を犠牲にしてまで人々を守ろうとしたのだろう……。
アウラの胸は、故郷を焼いたとされているドラゴンに対する憎しみと、この少年に抱き始めている今まで感じた事のない、切なく胸を締め付けるような不思議な想いの間で揺れ動いていた。
アウラは、まだ毛布に包まっている少年に眼をやった。
少年がもぞもぞと毛布の中で動いている。
「パ、パンプキンパイ! も、もう……むにゅ……れない……あっ!」
「……!? 寝言……?」
(ピ、ピーチパイじゃないんだ……)
「おはよう。起きていたのかぁ、アウラ……だっけ? ふぁ――、あれ?」
少年が毛布の中から顔を出し動こうとして置かれた状態に気付く。
「お、おはようございます」
(パンプキンパイ? いったい誰の……違った何の夢みていたの?)
アウラは、ちらりと自分の胸元を覗いた。
悔しいけど……そこには熟れる前のやや固めの桃の果実が二つ……。
「はぁっ……」
アウラは、まだ発展途上の控えめな自分の胸のふくらみを見て、小さく溜息を吐き肩を落とした。
ちょっぴりショックを受け一人ごちていると何やら、もぞもぞ少年ごと毛布が動いている事に気づく。
「う、動けない……ああそうか! 夜中に縛られたっけ?」
少年は、毛布に簀巻きにされていた。
毛布の上からは縄でしっかりと縛られている。
「の、覗き魔さんが夜中にいきなり抱き付いて来たりするからですっ!」
「ああ、ごめん、寝ぼけてたんだ。母さんの夢を見てたかなぁ? だから、あれは事故だ」
「随分、事故が重なりますね? わざとじゃないんですか?」
(お母様は、パンプキン並みの胸でいらしたのですね……)
アウラは、目を細め少年を睨んだ。
「良かった。元気なアウラだ」
少年がやわらかな笑みを向けている。
「えっ!」
アウラは、突然の言葉に驚いたが、何処かしら嬉しかった。
(気付いていたんだ……心配して気に掛けていてくれたんだ……私の事)
「昨夜、何かあったのか? あの騎士と」
「そんなに気遣わなくてもいいですよ。聞こえていたのでしょ?」
「……良く分かったなぁ」
「名前を呼んだじゃないですか」
「ああ、そうだった」
「聞こえていたのなら聞かないでください」
「何て言うかなぁ――。う――ん、俺は元気な方のアウラ好きだ」
またまた、突然突拍子も無い少年の言葉に、どきっと胸が跳ね今にも心臓が飛び出すかと思う程、心臓が鼓動を打っている。
「な、何を! と、突然……言うんですか……」
弾んでいるたはずの胸が今度は締め付けられ、きりきり痛み出す。
「だから、縄解いてくれないかなぁ?」
「なっ! だからって、なんですか! だからって!」
何だか、無性に腹が立つ。
アウラは、しぶしぶ少年を縛った縄に手をやった。
「前にも言ったけど……、俺は、こんな趣味は持ってない、どっちかって言うと――」
「うるさい! ですよ。騎士様たちは、まだ寝ておられるのですから」
家畜を飼う放牧者たちの朝は早い。
アウラは、しぶしぶ少年を縛った縄を解きに掛った。
「心配するな。俺は逃げたりしない」
少年の顔には何時もの微笑みはない。
「に、逃がしません」
「俺には逃げる理由がない」
「……」
「もし、万が一母さんがアウラの故郷を襲った犯人だったなら、俺はお前に討たれてやってもいい」
「な、なにを……急に……その時は討ちます」
熟した赤い果実の様に顔を赤らめ、アウラは俯いた。
――討ちます。でも……討ちたくない。どうして? そう思うのだろう。胸が……苦しい。
自分の気持ちに戸惑うアウラの耳に次の瞬間、飛び込んできた少年の言葉に耳を疑った。
「俺は母さんもアウラも大好きだ。だからどちらかを失う事になるのなら、母さんの代わりに俺がお前に討たれてやる。二度も母さんを死なせたくない。だが、俺にも成し遂げたい想いと夢がある、討たれてやるのはそれが済んでからだ」
「す、好き? 突然言われても……、そ、それに、そんな事言われても……私……どうしたら」
「アウラには、成し遂げたい想いがある。故郷を焼いたグリンベルの悪魔だっけ? を討つと言う想いがなぁ。……しかし、知らない間に母さんの二つ名も増えたなぁ」
少年の顔に何時もの微笑みが戻り、間の抜けた口調でそう言い笑った。
「……覗き魔さんが成し遂げたい想いと夢って?」
「成し遂げたい事はアウラとあまり変わらない。俺は街のみんなと母さんを殺した魔物の群れを生み出した魔術師たちを倒したい。夢はえっと――、内緒だ」
「今……何と……」
「魔術を使って魔物を創り出した魔術師たちを倒したいと言った」
「じゃぁ、私たち……仇同士? それに敵ですね……」
「それはまだ、分からないなぁ」
「魔術師たちを倒すって……今」
「アウラ、お前は魔物を創り出した事があるのか?」
アウラは、桃色の髪を揺らし、勢い良く首を横に振った。
「今の私に、そこまで魔術を扱える力はないです」
「なら、味方だ。俺の封印を解く術を知っているのは、今のところアウラだけだからなぁ。いざとなったら解いて貰わないと、それに俺は魔術師全てを倒したい訳じゃない」
「……」
アウラは、みるみる顔に赤みが差していく事を感じた。
真っ赤になっている事が、自分でも分かるくらいに頬が熱い。
「俺と母さんの力が、アウラに必要ならば貸してやる。約束だ」
「あ、ありがと……でも私は……覗き魔さんを討つかもし知れない」
「本当に母さんが、アウラの故郷を焼いたのならそうしてもいい」
東の大地から陽が顔を出し始め、空の明るむ光の世界へと変えていく。
夜が明けもう直ぐ何処までも広がる空に、また陽が昇る。
ただ、山にせり出し始めた厚い雲が、その光を完全に遮るまで……。
To Be Continued
最後までお読み下さいり誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!