〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第七話
◆回想
風狼は去り、身体に纏わり着くような張りつめた重々しい空気は風と共に消えた。
風狼に代わって現われた騎士たちの登場で賑やかになった草原は野営の天幕で埋まっている。
アウラは、ただプラムとじゃれ合う少年を茫然と見つめる事しか出来なかった。
「顔……色が悪いなぁ、どうかしたのか?」
少年が浮かない表情をしている、アウラの様子に気付き声を掛けた。
「顔……? 悪いですか?」
「う――ん。かわいい。それに綺麗だった水辺に女神が降りて来たのかと思ったんだぞ? 本当に」
少年が微笑み掛けている。
「……」
少年のやわらかい微笑みに浮かぶ碧眼と、まともに視線を交える事が出来ない。
なかなか無いであろう衝撃的な出会いから、まだ半日程しか過ぎてないと言うのに聖誕際と収穫祭が一度にやって来た、思えるほど楽しい時間を過ごした気がする。
何時以来だろう? あれ程心が弾んだのは……街を焼かれてからついぞなかった事だ。
少年の雲を掴むような話しは、自分たちと違う尺度で事を見ているようで新鮮であり奇怪でもあり、とても興味深く、怒っていた事も忘れ何時の間にか少年の一語一句に引き込まれている自分が不思議だった。
話が進んでいく中で少年もまた、母親と定住を始め出した街を魔物に焼き払われ失った自分と同じ痛みを抱えていたのだ、と知った。
少年に、母がドラゴンなのだと聞いた時、顰めていた憎しみの湧き上がる苦しさと、憎むべきドラゴンを宿す少年との出合った驚きと複雑な感情が込上げる中、辛く忌々しい過去が重なり忌々しいドラゴンの力を体内に秘めた少年も、また故郷を失くし家族や知人を失った痛みと苦しみを自分と共有しているように思えた。
胸の奥に少年の母がグリンベルの街を焼いたドラゴンではないかと、疑う気持ちと違っていてほしいと思う気持ちが同時に浮かび絡み合い混乱もした。
神の裁きと教会で教えられている『ハングラードの神罰』は少年の話と食い違う。
アウラは、教会の教えと少年の話に違和感を感じながら、少年たち山羊飼いは世間から受け続ける言われ無き冷遇と冷たい視線から逃げるように辺境へと流れていった事実が、ふと脳裏を過ぎる。
彼ら、山羊飼いの事を語った少年の痛みが、我が身に降り掛った災厄のように感じた。
自分は事あるごとに旅商人などの旅人に道中の安全や街に繁栄を願い出られ祈りの儀式をし重宝がられているのに……。
それに加え、山羊飼いたちは魔物使いと呼ばれ王国や教会から冷遇され、その果てに神罰まで受け魔物ごと街を焼かれた憎むべきはずの山羊飼いの少年に同情を覚えた。
風狼が少年の事を知っていたお陰で死線の難を逃れ、ほっとしたのも束の間、登場した騎士団にランディーがいた事に驚いた。
ランディーから街を焼いたグリンベルの悪魔を討破れるかも知れない禁術書の存在と在り処を聞いた時、嬉しいと思う気持ちが湧き上がったのは正直な気持だった。
「どうした? かわいいと言ってやったのに嬉しくないのか?」
「……」
「昼間の事をまだ怒っているのか? あれは本当に事故だったんだぞ? おいってばぁ」
アウラは少年の顔を見る事が出来なかった。
――グリンベルの悲劇。
七年前の冬。その悲劇は起こった。
その日、街の大人たちは総出で聖誕祭の準備に追われていた、大きな街の教会の司教様が街を訪れるとの事、北の端にあるグリンベルまでわざわざ聖誕祭に合わせ信仰を説きに来るらしい。
街の外に出る者はおらず街を上げて司教様を迎える準備に勤しんでいた。
同じ年頃の子供たちが祭り事に、はしゃぐ姿を横目に父から預けられた十頭にも満たない羊たちを連れ祭り事に浮かれる人々の脇を通り過ぎ街の外に出た。
貧しい家だった事もあり他の子供たちより早く羊飼いの仕事を手伝っていた。
ある日、家の納屋に、こっそり乾草のベッドを拵えてある秘密の遊び場で埃を被っていた術書を見つけ、見た事もない蚯蚓が、のたくったような不思議な文字に興味を持った。
街の小さな教会で初めて文字の読み書きを教えて貰った時、夢中になった事を覚えている。
見様見真似で術書に描かれた陣を街中に落書きしながら覚えた。
羊たちを山の裾野に広がった小さな森の中に円形に広がった草原までよく連れてくる。
季節も冬に差し掛かった頃で大地の色合いは寂しいかったが、冬の草花は力強く緑を放っていた。
雪が降るのはもう少し先、十頭にも満たない羊たちには十分にも思えるだけの草はあった。
そこを秘密基地と呼び羊を追って来ては覚えたての陣を描いていた。
その日も秘密基地に着くなり術書を広げ描いて遊んだ。
父が行なっている魔除けの儀式を真似、小さなカウベルを括り付けた木の棒で鐘を鳴らし術書に書かれた文字を読みながら、良く分からない言葉を発して夢中で振ったのを覚えている。
文字を覚えた時のように、術書の解読は面白く夢中で解いた。
羊たちを追っている最中も術書を読み耽って文字をなぞった。
陽も暮れ出した頃、秘密基地を後にし街に戻る道中、羊が一頭足りたない事に気付き慌てて秘密基地に戻り迷子の羊を探しようやく見付け出した時には、すっかり暗くなった空に月が蒼く光を放っていた。
父や母と自分より三歳下の弟がさぞかし心配している事だろう、と思い父にこっぴどく怒られる事を覚悟しながら帰りを急いだ。
グリンベルに通じる帰り道の中程で街の様子がおかしい事に気付く。
黄昏時はとうに過ぎているのにやたらに空が赤い。
嫌な予感が羊探しで疲れているにも拘らず、街へと向かう足取りが自然に速くなる。
不気味な程に赤くなった夜空。
その理由は街を見下ろす事の出来る小高い丘の天辺にようやく辿り着いた時に明らかになった。
グリンベルの街が真っ赤な炎に包まれていた。
緩やかな坂を転がるように駆け下った。
頭の中は真っ白で何度転んだのか、転んだ事すら曖昧だ。
自分の口から発している言葉も自分の耳に響かない。
その時、泣いていたのかどうかさえ、はっきりと分っていなかった。
ただ、頭の中に響いていた言葉で覚えているのは、ほんの少しだけ……。
「お父さん……お母さん……アウル……お婆ちゃん、お爺さん」
他にも友達や近所のおじさんやおばさんの名前、文字の読み書きを教えてくれた教会の老神父の名前を叫んでいたに違いない。
街に近付こうとして既に駆けつけていた騎士に止められたが、その時の自分の取り乱していた姿をあまり覚えていない。
「お婆ちゃん、お爺さん」
「お父さん……」
「お母さん……」
「アウル――――、いやぁぁぁぁ――――」
どれ程時間が流れたのか分からない。
涙は枯れ果、もう出てこない。
ただただ、泣き疲れ地面に膝を組んで顔を埋めているだけだった。
不意に肩を叩かれ顔を上げた事を覚えている。
さぞかし虚ろな眼をしていただろう。
「大丈夫かい?」
そう声を掛けた若いひよっこ騎士。
当時、グリンベルの街に繋がる街道を警備する詰め所に駐留していた若いひよっこ騎士だったランディーは、グリンベルの街が焼かれた夜、炎で真っ赤に染まった空を見つけ街に駆けつけた駐留軍の一員だった。
放牧から帰り一人、街の外で炎に包まれた街を見て泣き疲れ地面に膝を組んで顔を埋めていた、幼い自分にやさしく声を掛けてくれた人物だった。
「寒いから、これを飲んで身体を暖めるといい。それとこれ」
ランディーに差し出された、蜂蜜入りの温かいミルクとふんわりとやわらかい白いパンに良く伸びるチーズをたっぷり振り掛け焚火で炙った温かい香ばしい匂いがするパンと「寒いから」と言い渡させた毛布を無言で受け取った。
「こんな時に何だけど……街の生き残りはきみだけだそうだ。酷だとは思うけど言っておくようにと命令を受けちゃって……ちょっと考えたけどやっぱり話しておいた方がいいと思って……きみだけでも生きていてくれて良かったと思う」
「……」
「だって、グリンベルの人たちの生活や街並みを覚えていてくれて伝えてくれる人がいるのだからね」
「……」
「街を焼き払った犯人の事なんだけど、きみは見たのかな?」
赤く残り火に染まる街の焼け跡を虚空の瞳で見つめながら、アウラはゆっくりと顔を横に振った
「見てないか……、夜だったとはいえ、街一つを誰一人逃げる暇を与えず焼き払えるものなんてやっぱり、魔物の仕業だと思うんだ」
「……魔物?」
「そう、魔物」
近くで騎士たちがざわめき出していた。
調査の末、巨大な足跡が見付かったのだとか何とかで騒ぎになっていたよ。
ランディーが「ちょっと様子を見て来る」と言い騎士たちがざわめく中へと駆け出していった。
金髪の若い騎士が、程なく戻って来るとこう言った。
「街を襲ったのは魔物だ。足跡も見て来たけど一つが民家程もある大きさだった。街の上空から火を吐いて焼いたのだろう、と隊長たちが話していたよ」
「……」
「こんな事が出来る魔物は原典や古伝記に登場する究極の魔物。古のドラゴンしかいないと……グリンベルに現れた悪魔だと騒いでいた」
若い騎士から受け取った温かかったパンと蜂蜜入りのミルクは、何時しか立ち昇っていた白い蒸気を失くしている。
チーズの固まり掛けたパンと冷めたミルクの入った木の器を手にしたまま、ぼんやり意識の外から響く声を覚えている。
「……グリンベルの悪魔」
今でも、はっきりと――。
To Be Continued
最後までお読み下さいり誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!