〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第六話
◆グリンベルの悪魔
蒼い夜の薄暗い闇の中に巨大な狼が伏せている。
大地を掻く馬鉄の音が近付いて来ている。
膠着状態が続いていた空気は静かに破られた。
巨大な身体に見合わない俊敏な動きで少年に襲い掛った。
少年は少女を抱え地面を転がる。
「しまった。羊たちが……」
少女は解読を既に終えたのか、異様な程集中し小さな声で呪文らしき古語を唱えている。
少女に辺りの様子も少年の声も届いていないようだ。
「くそっ!?」
巨大な狼は大きな口を開き、牙を剥き出したまま。
しかし、羊たちの群れを襲う事はなかった。
狼が少年と少女の方に向き直った。
その大きな口からは、流暢な人の言葉が飛び出した。
「小僧、久しいな」
「……」
「無理からぬ事か、ドラゴンの奴めが儂のところに貴様を連れて来たのは随分前の事だ。小僧よ! お主の母親の事は風の噂で耳にした。残念な事だ」
「……!?」
少年に抱きかかえられた腕の中で少女は、もそもそ動きながら口から発する古語に合わせ、懸命に杖を振り鐘の音を奏でている。
「……終わりました。最後に詠唱して……あ、あの……その……く、くくく、唇に……くく、口づけを与えて頂き……わ、私が覗き魔さんの首筋の六芒の紋章に口づけを与えると封印は解けるはずです」
少女は、封印を解く準備が整った事を告げ顔を熟した桃のように赤らめ俯いた。
「ansuz・perth・nauthiz・othila・fehu・teiwaz・sowelu・uruz」
(秘め事を受け取りなさい。戒めを放ち所有者の下に導き、完全なる力を)
少女は杖を振り鐘の音に呪文を乗せた。
からん ♪ と軽い鐘の音色が響せた後、胸のあたりに杖を引き寄せ、杖を握っている拳にもう一方の手を覆い被せた。
初めての行為に、恥ずかしさと緊張から震えを抑え込むように杖を握る拳を手の平で包む。
そして、静かに瞳を閉じその瞬間を待った。
「……あっ! 思い出した。えっと……北の風狼だけか?」
「北? うぉるぷす?」
少女は、胸に嫌な違和感を覚えると同時に嫌な予感が脳裏に過ぎる。
胸の前で祈るように両手で杖を握りしめ瞳を閉じたっまま眉間を寄せた。
「なに、呑気に眼を閉じてんだ?」
「……」
少年の言葉に少女は頬えを膨らませた。
「すまんな小僧、折角の再会だったが……五月蠅い奴らが来たようだ。またな……長々話している暇はなさそうだが……気になった事だけ言っておく。お主、母親の循鱗を上手く引き出せてないようだな、その戒めを解けば力を得るに容易いが戒めは、あまり解かない事だ。何のための戒めか良く考え、自身の意志である程度使えるようにしておけ、戒めを解くのはそれからだ良いな」
巨大な狼は身を翻し二人に背を向け森の方へ、ゆっくり歩き出した。
「惜しかったな小僧、また機会があれば話そう。お主とドラゴン(はは)の昔話をな」
風狼が失笑の混じった声で言うと巨大な身体を軽快に走らせ、森の闇へと消えていった
「惜しかったですね? 覗き魔さん」
「だから、なんだっけ?」
「封印の解き方聞いてませんでした?」
「きみも聞いてなかったのか風狼が言ってたろ? 無闇に解くなって」
「覗き魔さんから口づけ出来るのは、初めて封印を解く時だけですよ。その後は首筋の六芒の紋章にするだけです」
(うそですけど)
少女は、おどけて様に少しだけ舌を出して少年を茶化した。
「そんな事、一言も言わなかったじゃないか」
「言いませんでしたから」
(だって……、うそですもん)
「……それより私たちも逃げた方が良いのでは?」
風狼に森へ逃げ込まれ追うのを諦めたのか、手綱を緩めたようだ。
「その必要はないと思うぞ、馬の鳴き声が聞こえるだろ? 恐らく騎士の一団だ」
「……あの、覗き魔さんは確か北を訪れた事はないと言ってませんでしたか?」
少女は、胸に痞えている事を言葉に変えた。
「確かに言ったけど風狼を見て思い出した、ごめん。でもグリンベルという街は思い出せない。もしかしたら、母さんが本当にきみの街を……? しかし……母さんが無暗に街を襲った覚えはないし襲う理由が見つからない」
「そ、そうですかぁ……ならいいんです。北と言ったも広いですから……出来る事ならグリンベルを焼き払った魔物が覗き魔さんのお母様でない事を信じたいです」
「ありがと」
少年が満面の笑みを浮かべ、その微笑みを少女の顔に近付け肩を掴んだ。
杖に括られた鐘が、からんと音を奏でる。
「なぁっ! うむっ……」
突然起こった思いも由らぬ出来事に少女は身体を強張らせ言葉を失った。
少女に近付けられていた少年の顔が、ゆっくりと離していく。
「な、何するんですかぁ――」
「何って? キスしてほしかったんじゃないのかぁ?」
「ば、ばばば、ばかぁ――! 初めてだったのにぃ――もぅ、ばかぁ――! プラムぅぅぅ」
獣の咆哮を上げながら、プラムが少年の尻を目掛け矢の様に駆け出す。
「痛てぇ!」
少年の尻に……また尻尾が生えた。
焚火の灯りを見つけてなのか、少女の怒鳴り声を聞き付けてなのか、鎧を着けた軍馬が一騎近付き二人と羊の群れの傍まで来ると馬の脚を止めた。
兜と軽めの鎧、鎖帷子で身を固めた偉丈夫たちがマントを翻し馬上から見下ろしている。
「怪我はないか?」
まだ若い張りのある声で近付いた騎士が二人に声を掛けた。
騎士団の隊長と思われる、その男が跨いでいた鞍を後にし傍らに控えている男に手綱を渡した。
若い騎士が兜に手をやり取り去ると長めの金色の髪が現われた。
金髪金眼の騎士が近くにいた副官と思われる中年の騎士を呼び、二言三言指示を出している。
若い騎士は向き直ると少女の前で膝を折り、少女の手を取った。
「触らないでください」
少年に尻尾が生えて直ぐ、膝を抱え地面に座り込み顔を伏せていた少女が手を払った。
「随分、冷たいじゃないかアウラ。久しぶりだな」
少女は、聞き覚えのある声に伏せていた顔を上げ、若い騎士を見て表情を華やかせた。
「ランディー様!」
若い騎士は微笑むと、再びアウラの手を取り、その甲に口づけを与える。
アウラの顔が火が点いたかのように赤みが差す。
「魔獣に襲われていたのか? 怪我はないかね?」
「はい。襲われましたが……怪我はありません」
「それにしては、浮かない様子だったな。さぞ怖かっただろう? もう大丈夫。魔獣は何処へ?」
「森を飛び越えて逃げました」
アウラは森の方を指差した。
「たいしたものだ羊飼いの魔除けと言うのは、いや、流石アウラと言うべかな。まだ歳は十半ばだというのに魔術書の解読が出来るのだからな」
「は……いえ……私の方こそランディー様には貴重な古語魔術目録と書物を見せて頂いておりますので、そのお陰かと思います」
少し考えアウラはそう答えた。
「いや、役に立てて嬉しいよ。間接的にでもアウラを守れたような気分になれる」
「そんな……私の方こそ感謝しています」
アウラは少年の方を、ちらっと横目で見遣った。
「アウラ。例の件はどうするのかな?」
「は、はい! 学園の件ですね。お願いしようかと思ってます」
「アウラのような才色兼備の人材を紹介出来るのなら、私も鼻が高いというものだ」
「ランディー様! そ、そんな事は決して……ございません……」
「本当の事だ。実際、魔除けの術を扱える羊飼いは、少ない貴重な人材だ」
「……」
「アウラ。きみも知っているように近年になって魔物たちの活動が活発化している。きみのように魔術を扱える存在は魔物たちと対峙して行く上で一騎当千の……いや、それ以上に値する可能性を秘めている」
ランディーがアウラの顎をやさしく持ち上げる。
ランディーの顔がアウラに近付いていく。
「……ラ、ランディー様」
アウラは、咄嗟に顔を横に背けランディーの視線から紫水晶の瞳を逸らした。
ランディーは動きを止めて言った。
「失礼したね。先程からきみの視線が間を置かず向けられる彼に妬いてしまったようだ。まったく大人げない事だね。良ければ彼を紹介してくれないか?」
「私も昼間に出会ったばかりで彼の名前を知りません」
アウラは少年の方に視線を遣った。
少年は尻に生えた尻尾と格闘している。
「ただ、山羊飼いとしか……」
「山羊飼い? それは興味深い。落ち着かない瞳の原因は、それだね」
「……」
「山羊飼いは魔物を扱う」
戦場を生業にする騎士の鋭い洞察力で心中にある動揺を見透かされているようで落ち着かない。
アウラは、心の動揺を誤魔化すように話題をすり替える。
「ランディー様? こんな所まで先程の巨大な狼を追って来られたのですか?」
「いや、それもあるがね。本来の目的は古語魔術目録の情報を聞きつけて、その魔術書の探索なんだがね」
「古語魔術目録がですか?」
「そうだ。北の古い神殿に隠されているらしい。調査に向かう道中、魔獣と遭遇して捕らえようとして逃げられた」
「何故? 魔獣を捕まえようとなさったのですか?」
「個人的にだが、あれを魔獣などと呼ぶには聊か疑問があってね」
「疑問?」
「今は断言できないが、あれは遠い昔に神々(・・・)に数えられた神と言うべき存在だ」
「神々? ですか……」
「我々が信仰する唯一無二の『神』が寄こした魔物を祓う力を持つ聖獣の事だ」
アウラは騎士の言葉に違和感を感じた。
「……しかし、過去に教会は、その神々を――」
野太い男の声がアウラの言葉を掻き消した。
「隊長殿! 我が隊の野営準備が整いました」
近寄って来た男は、きびきびとした引き締まった動きでランディーに告げた。
「御苦労、休んでくれ」
「はっ」
間を置かず、また男が近付き報告を行っている。
「伝令、これより隊長会議を始める。各小隊長は速やかに騎士団長の下に参集せよとの事であります」
「直ぐに行く」
ランディーは、やれやれと言ったように肩を竦めマントを翻し、アウラの方を振り向いた。
「アウラ。北の神殿に眠る古語魔術は、偉大な魔女の禁術書だそうだ。この情報が本物なら、きみの願いが実現出来るかも知れない……魔物は勿論の事、きみの故郷を焼き払い家族とその全てを奪ったグリンベルの悪魔を討つ魔術が記されているかも知れない」
「本当ですか?」
アウラは、思わず顔を綻ばせた。
「本当だ。見つかった暁には、きみに解読の手伝いを頼みたいと思っている」
「はい!」
「解読出来たその時、きみの積年の思いは成し遂げられるだろう。その為にきみは魔術を知りたがっていたのだからな」
「……」
アウラは、今し方まで心の奥に追いやっていた事を思い出し茫然と立ち尽くした。
アウラの討ちたくて止まなかったグリンベルの悪魔を宿しているかも知れない少年は直ぐ傍にいるのだから……。
To Be Continued
最後までお読み下さいり誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!