〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第五話
◆戒め
つい先程まで続いていた賑やかな笑い声は、蒼い闇に吸い込まれた。
時折、羊たちに付けられた鐘が軽い音を立ては、夜の闇に消えていく。
プラムは、尻尾で地面を払いながら主の膝から愛くるしく潤む黒い瞳で心配そうに見げている。
プラムのへこたれていた三角の耳が、ぴくんと立ち上がりあたりの様子を探り始め、急に落ち着きを失くし、闇の一点を見つめ吠え出した。
「どうしたの? プラム」
虚空を彷徨わせていた少女の瞳が、何時もと様子が違う吠え方をするプラムに気付き視線を動かした。
プラムは、闇に向い吠え続けている。
プラムとほぼ同時に少年も気配に気付き地面に耳を当てている。
「何か近付いている……。風下からこっちに向かって……、一つ、二つ……数が多い、音が舞ってる」
少年は、まだ遠くに感じる気配を探っている様だ。
眼も闇に慣れ月明かりもある。
しかし、そうとはいえ夜の闇は昼間と比べる事が愚かな程視界を遮っている。
空気を伝う音は風に流され風上にいる少年たちに届かない。
「いったい何が近付いているのです?」
少女が不安げな表情を向けている。
「一つは無数の軍馬……もう一つは分からない。でも大丈夫いざとなれば何とかするさ」
地面に耳を当てながら少年は懸命に気配を探った。
「一つは馬鉄が大地を蹴る音、複数……、もう一つ……、魔物かそれとも魔獣か、でかいが静かだ、まるで風のようにしかも速い……追われてる? のか」
得体の知れないものは、ぐんぐん加速し馬鉄の音を引き離そうと速度を上げたようだ。
少女は不安が勝ったのかプラムの首に回している片方の手を離し少年のシャツを摘んだ。
「大丈夫。さあ、羊たちと森に隠れていろ、普通の獣くらい魔除けの術でなんとか出来るだろ?」
少年は眼光炯炯を向けて言った。
「覗き魔さん? あなたまさか!」
少女が心配そうに瞳を揺らして震える声を絞り出した。
「もうそこまで来ている早く行け、俺が囮になる」
「そ、そんな事……駄目です。一人で囮になるなんて、絶対に駄目です」
少女が仇かも知れないドラゴンの循鱗を宿す少年に向って強い口調で言い放った。
「俺一人なら何とかなる。伊達に辺境の土地を旅していた訳じゃない。だいじょ……! 不味い伏せろ!」
地面から伝わる音は馬鉄が地面を掻く音を残して消えた。
少年は声を荒げて言った。
「えっ!」
少女が悲鳴を上げる事すら出来ず視界は、星が躍る蒼い夜空に向いた。
少年は、少女に飛び掛かり地面に伏せさせ、重なるように少女に覆い被さる。
二人と羊たちの頭上を一陣の風が通り過ぎる。
山羊を含めた三十頭程の羊の群れごと視界の外から飛び越えた風が近くの大地に触れた音が数回聞こえ、その先で停止した。
「なに……あれ?」
少女の視線が夜空に向いた際、恐らく少女は飛び越えた姿を見たであろう、ものの怪を少年の眼が捉えた。
「さぁ?」
月夜の中、月明かりを浴び輝く見事な毛並みをした巨大な狼の姿。
重い荷馬車を引く、馬体の大きい荷馬を軽く凌駕する程の巨体が月夜の闇に浮かび上がっていた。
薄暗い闇に光る琥珀色の鋭い視線を向けてこちらを見ている。
その獣の視線に呼応するかのように少年は首筋に痛みを覚えた。
少年は琥珀色の眼光に縛られ動けない。
プラムも吠える事を止めていた。
纏わり着くような圧倒的な恐怖が身体を縛る。
左首筋の紋章が七色の光を放ち始め熱く痛い。
少年はその痛みで封印がはっきり浮かび上がっているのだと感じた。
その光に、ただならぬ畏怖を感じてか巨大な狼も動かず身構え、その場で牙を剥き出しにしたまま動かずにいる。
「ド……ラゴン、魔法陣に囚われてるみたいです」
少年の首筋に現れた紋章を見て言った。
少年に守られるように抱きしめられた少女の眼に映るもの。
「これがドラゴンの力とその循鱗を封じた封印の魔法陣……? ドラゴンの姿を野の竜や書物に残された記述から想像してました。思ってたものより何と言えばいいのか……綺麗、こんなに綺麗なもの見た事ないです」
「こんな時に綺麗かぁ?」
――少年は動けない。動けば少女が狙われる。
「六芒の中に描かれた紋章は魔法陣の檻に囚われたドラゴン、姿は記述にあるものに似ていますけど、それ程禍々しい姿じゃないです」
「こんな時に、何を呑気な事を言ってんだかなぁ」
「大丈夫、何だか怖くない。大丈夫」
少女はやわらかい声で呟いた。
「どっちがだ?」
――少年は狼から眼を逸らせない。
視線を外せば殺られると本能が……、熱くなった首筋の循鱗が教えてくれる。
「ドラゴンもあの狼も……怖くないです。それに循鱗の光がとても温かいような気がして不思議だけど……とっても穏やかな気持ちになってきます」
「ひとつ聞いていいか? きみは魔術を使えた。なら、それを発動する源と魔法陣の仲立ちを出来る者なのだと思うんだよなぁ、きっと」
「覗き魔さん? 魔術の存在は知っていると言いましたよね?」
「あぁ、確かに言ったけど……聞いているだけだ。魔術師の存在も母さんから、実際に眼にした覚えはない。循鱗を封印した時の事も」
「どれくらい知っているのです? もしかして、本当は使えるんじゃ――」
「俺には使えない。知っていてもそれを扱える術を持ってないからなぁ。何かが起きる動き出す。何らかの力が働いているって事、それは道理だ。」
――嫌な汗が吹き出し頬を伝う。
「魔術も同じだと?」
「切り出した大きな石を運び出そうとする様で例えれば、人や馬が力の源、石とそれを繋ぐ縄は言わば仲立ち、そして石は陣、魔術の源までは分からないが、限られた人だけが持つ何か特別な意志か或いは、自然界が生む膨大な力を仲立ち出来る者、もしくは両方を出来るものが魔術師。魔法陣は、力を呼び出すための指標じゃないかと思うんだ」
巨大な狼と向き合ってから、それ程間が過ぎてないはずなのに膠着した時間がやたらに長く感じる。
「私に何をしろと言うんですか」
「封印の魔法陣を解いて貰いたい」
「どうやって」
「魔除けの陣を解読した事はあるよなぁ?」
――封印が疼き始める。
「あります。一応……魔術書も」
「なら、封印に使われた魔法陣を解析してくれ」
「き、急にそんな事言われても出来ません。解析するには時間が無さ過ぎますし今の私には知識が足りません」
「きみなら封印を解ける! 気がする」
「どうして、そんな根拠の無い事を自信満々に言うんですか! 覗き魔さんは」
――何故か分かる。
「封印が疼く、こんな事は初めてだ。まるで解放して貰える事が分かってるみたいだ」
「無理です。こんな複雑な陣見た事がないです。六芒陣ですよ! これ」
「そうなの? 俺見た事無いから、見えない場所にあるし」
「鏡使えばいいじゃないですか」
「あっ! ……そ、そんなに都合よく鏡なんか持っている訳がない、浮かび上がる事なんて滅多にないんだから」
「……あっ! 気付かなかったんですね」
――張りつめていた緊張感が緩んでいく、心地よい程度に。
どうやら、ものの怪を目の当たりにして身体が強張る余り堅くなっていたようだ。
「ああ、気付かなかったさ。悪いか、それより解読してみてくれ」
「もうやってます……魔術は応用でしたよね?」
「そうだと聞いてる」
「……何故? 解るんだろう……」
少女は解読できる自分に驚いている様子だ。
「解るの? 案外簡単なの魔術ってさ」
「そんな事無いです。こんなの解ける方が不思議です。それを解けている自分が一番びっくりしてます」
軽く伏せ身構えていた狼が巨大な身体を更に伏せ低い姿勢で構えた。
「来るぞ! 早く」
「もう少しです」
少年が少女を抱き起こしながら膝を立てた。
「解けました! でも、こんな事……出来ません」
少女の顔は茹でた蟹のように赤くなっている。
「迷っている暇はないようだ」
「わ、わわ、分かりました……、眼を閉じて貰えませんか……」
「それは出来ない、注文だ」
――眼を離す訳にはいかない。
――刮目しなければならない。
――対峙している眼前の『敵』と。
「光栄に思ってください……は、初めてなんですから……その……キッ……ス……」
少女が、鈴の音が消えるようなかわいらしい声で口早に言うと俯いた。
「何が? 初めてだって?」
「……キ、キキ、キス……です」
裏返った声で少女が答える。
「そう?」
「もぅ――、知りません! もっと時と場所を選びたかったなぁ、はぁ――」
少女が、かわいらしい溜息を吐き小さくつぶやき、何時も持ち歩いている節くれた杖を振り魔除けの鐘を響かせた。
To Be Continued
最後までお読み下さいり誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!