〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第四話
◆ドラゴンの循鱗
蒼い月夜の中、荒野の一画に焚火が揺れている。
「当分の間天気、良さそうですね」
少女が蒼い夜空に輝く星空を見上げて言った。
「近いうちに雨が降る、それも風を伴って」
少年は山から吹く風を見て、少女に微笑み掛けた。
陽が西の地平線に沈む前に森を出る事が出来た。
主の口笛を聞き取って集まった山羊たちも、今は羊の群れに溶け込んでいる。
白と黒が基調の牧羊犬は主の膝に顎を置き咽喉元を撫でられ気持ち良さげに眼を細め、自慢の尻尾で地面を掃いている。
「そんなはずないですよ。夕陽は綺麗なオレンジ色をしていましたし、夜空もこんなに蒼く星たちも綺麗です。覗き魔さんも放牧者なら天候くらい読めそうですけど」
少女は、不思議そうに少年の顔を見詰める。
「読めるさ、少なくても柵の中で羊を追うようになった今の羊飼いより正確に読める自信があるけどなぁ」
少年が瞼を弓のように反り返した微笑みを少女に向けた。
「あっ! その笑顔で何気に馬鹿にしてますね! 覗き魔さんは何を根拠に言ってるんですか?」
少女は頬に空気を孕ませ口を尖らせた。
「天候を確実に当てる事なんて誰にも出来ない、ただ、空気が重くなって来ている事が分かるだけかなぁ」
「空気? ですか?」
少女が不思議そうな顔をして尋ねた。
「ああ、空気が重くなると空を飛んでいる有翼獣は低く飛ぶ。気圧が変わったから。昨日、鳥たちが低い空を飛んでいた。今日は更に低い所を飛んだ。空気が重くなれば風が出る」
「羊飼いだって風と共に旅をしていたんですよ? 風が変わった事くらい気付いてます」
「変わった事くらい誰にでも分かる」
「覗き魔さんは、なぜ空気の重さが分るのです? その前に空気に重さなんてあるんですか?」
少女は、興味津々の眼を少年に向け尋ねた。
「それは空気に重さがあるらしい……からなんだけど、羽根を持ち空を飛ぶものたちは空気の重さが変わった事を感じて低いところを飛んでる」
「空気に重さ? 風の方向が変わった事は私にも分ります」
「水が高いところから低い方に流れるように、空気も圧力の高い方から低い方へ流れる、それが風。今、どっちから吹いてる?」
「山の方から……、です」
「山の方から吹き下ろしている風が徐々に強くなって来ている。圧力の高い方から低い方に流れる空気の流れつまり、風が近付いて来てるて事だ」
「うぅぅ……」
少女は額に指を当て唸った。
少年が言葉を続ける。
「山肌にぶつかり、天に向かって昇る、風は昇ってる間に陽に温められながら細かい水の粒を吸って大きくなり空に雲を作るんだ。元あった空気の場所に周囲の空気が流れ込んで天にまた昇る、繰り返されて急速に雲は大きく重なり合って、重さに耐えかねた空気が溢れ出すと雨になって地上に落ちて来るんだ」
少年が話す雲を掴むような会話に、少女はつい聞き入ってしまっていた。
「空気が雨に? それ本当ですか? 何故、覗き魔さんはそんな事を知ってるのですか?」
「内緒。それより何処の街から来ているのか知らないけど、激しい雨が続けて降るかも知れない。街に水路があるなら水門を閉めるように言ってやった方がいい」
少年は笑みを消し真剣な眼を少女に向けた。
「それ、本当に、本当に本当ですか?」
少女は、何度も聞き直し真剣な顔で少年の話に夢中で聞き入っていた。
「さあ、本当は俺にもよく分からないなぁ」
「はぁ?」
少女は捨てられた猫のように、きょとんとした顔をして息を吐いた。
「でも、このあたりに雨は降る、それは本当だ同じように街の方も降るかは分からないけど、水は川を流れるから」
少年が頬笑みを消し少女に言った。
「そこまで言うなら……、分かりました。予定を切り上げ明日の朝、街に戻ります。食糧も後僅かになっちゃいましたし……、まさか三日分も一人で食べちゃうなんて思いませんでした。
「在る物が無くなるのは自然の摂理だから仕方がない」
少年は屈託のない笑顔を向けている。
「もぉ――、知らないうちに消えたみたいに言わないでください」
少年の一顰一笑に少女は半ば厭きれた微笑を浮かべて言った。
「じゃあ、こんな顔をすればいいのか?」
そう言い、顔を顰めてから少年は笑った。
静かに夜が更けていく。
蒼い月夜の下、二人の笑い声は焚き木を揺らすかのように、夜の静寂の中に木霊した。
星が瞬く星空の下に時折、笑い声と軽い乾いた音色が交る。
ひと塊りになった羊とそれに交じる山羊の群れが冷える空気の中、身を寄せ合っている。
焚火の薪が弾け火の粉を天に捲き、消えていった。
「この現象と同じような事が起こっているだけだ。大きな規模で」
天に昇る火の粉を指差し少年が呟く。
「風と雲のお話ですか? 覗き魔さんは誰もが考えない面白い事や誰もが感じない感覚を沢山知っているんですね」
少女は好奇の視線を向ける。
「……母さんが残してくれた力の恩恵だ」
「ちからの恩恵?」
「循鱗の力さ」
少年が満面の笑みで答えた。
「じゅんりん? いったいどのような力だと言うのですか?」
少女は聞きなれない少年の言葉を反芻し、尋ねた。
「ああ。ドラゴンの力を持つ鱗の核かなぁ」
「どらごん……の循鱗?」
「そうだ。体内に封印されていて殆ど使えないけど」
「覗き魔さんのお母様はドラゴンスレイヤーだったのですね! 凄い! 女性の身で凶悪な魔獣ドラゴンを退治しておられたのですね? 魔術か何かを用いて……きっとそうですよね? だから魔術の事に詳しいかったのですね」
少女は自分に言い聞かせるように言葉を継ぐんだ。
ドラゴンの存在など、文献と口伝でしか知らない。
「そうじゃない。ドラゴンが育ての親なんだ、循鱗を与えてくれたのも魔術を使って封印したのは母さんと魔術師だそうだ」
「うそ……、ドラゴンがお母様だなんて……」
少女の顔からまるで汐が引くみたいに血色が消え、小さく震えだしていた。
「母さんに産み落とされた訳じゃないけど……、どうかしたのか?」
小さく震える少女に少年が尋ねた。
「……きっと人違いよね、違ったドラゴン違いよね。きっとそうよ」
少女は熱病でうなされているかのように震え、揺れる震えを抑えようと両腕を交差し自分の身体を抱きしめた。
「寒いのか? まだ夜は寒いからな」
少年は自分の毛布を差し出した。
同じ言葉を繰り返し、少女はただ震えている。
「母さんがどうかしたのか?」
「の、覗き魔さんのお母様は今何処に?」
少女は震える声で少年に尋ねる。
少年が微笑みを向け、自分の胸のあたりを指差し示し言葉を続ける。
「母さんは四年前に死んだ。住んでいた街を救おうと魔物の群れと戦って……結局、街は魔物が吐いた炎で焼かれてしまったけどなぁ……、俺は母さんから貰い受けた循鱗のお陰で運良く生き延びる事ができたけど……」
「四年前……死んだ? 街を守って?」
少女の瞳は虚空を見つめるように宙を彷徨わせていた。
「ああ、流石の母さんも循鱗の力抜きではドラゴンの姿に戻っても野を埋める程の魔物たちと刺し違えるのがやっとだった」
「ハングラードの神罰……。あまりにも有名な話です……、遠い昔に魔物使いと弾圧され追いやられた山羊飼いたちが多く住んでいた東の辺境の街。自分達を追いやった者たちに積年の報復として魔物を呼び出したハングラードと近隣にあった五つの村を壊滅させた天空より『神』が放ったオレンジ色の閃光」
少女は静かに眼を閉じた。
胸に広がる悲しみに、ハングラードで起こった悲劇に眼を覆ったようにも何かを想い出しそうとしているように……。
暫しの間、黙祷を捧げ少女は静かに口を開く。
「七年前の冬……、覗き魔さんとあなたのお母様は何処にいて何をしていたか覚えていますか?」
「俺と母さんがハングラードの街に住みだしたのは七年程前だったかなぁ? それまでは放浪の旅をしていた。その頃にはもう山羊を連れて旅をしていたけど」
「北方の山間に広がった裾野にあったグリンベルという街を知っていますか? その頃から放牧をしていたのですね?」
「グリンベル? 知らないなぁ……、北には行った覚えはない。確かにその頃から山羊は連れて放浪の旅をしていた。でも俺が山羊飼いになったのは母さんが死んでからだ」
「良かった。やはり、ドラゴン違いだったのですね……」
少女は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ドラゴン違い? それはないかなぁ? この世で古今東西、真にドラゴンを名乗れる存在は母さんしかいない」
「そ、そんな……炎を吐く凶暴な竜は野にもいると言うじゃないですか」
「それらは、きっと眷属か竜族の亜種だろうさ。姿かたちが似ているからなぁ」
少女は、ぎりっと奥歯を噛みしめ、難しい表情を浮かべ水晶石の眼を瞼の奥に隠し先程、胸の前で撫で下ろしいた手を止め堅く握った。
「グリンベルは私が生まれた街。七年前……ドラゴンに焼かれた街。家族を焼かれ全てを失った場所です」
少女は、消えゆく鈴の音のような切ない震える声で少年に告げた。
To Be Continued
最後までお読み下さいまして誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!