〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第三話
◆あなたは魔術を信じますか?
森の中、少年の目の上に大きな枝に二つ、小ぶりの桃が実っている。
「人の話を聞かないから」
少年は、縄に足元をすくわれ木に吊るされている少女に微笑み掛けた。
「こ、こう言う事は早く言ってください……」
「言おうとしたらきみが聞かずに入っちゃたから、はぁはぁはぁ」
「ちょっと! 笑い事じゃないですよ。な、何故こんな所に罠を仕掛けたんですか!」
「獣道だからに決まってる。きみも何故獣道なんかを通るかなぁ? あっちに細いけど人が通れる山道があるのに」
少年が顎をしゃくって方向を差した。
「そんな事……知ってます。ここを抜ける方が草原まで近いんです。まったく何を捕ろうとしてたんですか。野宿をするならそれなりの準備をして……」
少女は言い掛けると、はっとした顔をした。
「立ち寄った街で食糧を分けて貰う事ができなかった」
少年は、屈託のない微笑を浮かべたまま答えた。
「……」
――少年は山羊飼い。
『彼ら山羊飼いは邪神たちが使わした魔物使いであり、山羊は豊穣を喰らう魔物である』
唯一神の教えが広まった世の中、誰もが知っている記述だ。
「夕飯に兎でも捕ろうと思って、食糧が無くなりそうだったし夕べ仕掛けておいた。あっ! ちょっと前に無くなったけ、きみの犬にあげようとして川に落として魚の餌かな? 今頃は」
――少女は羊飼い。
『羊は羊飼いに導かれ広野を歩き、羊飼いは人を導き、神に導かれ楽園に導かれる』
「先程は酷い事を言ってすいません……よろしければ私の食糧をお分けします……」
少女が思い直したような控え目な声で謝った。
「それはうれしい」
少年は、微笑を絶やさずに言った。
「その前に助けてくれませんか?」
少女は、天地逆さまの状態で木にぶら下がっている。
「どうやって?」
少年は、毛布にぐるぐる巻きにされ縛られている。
少年が縄を緩めようと、もぞもぞ身体をくねらせ動き回る。
しかし、きっちり縛られた縄は緩まない。
地面に擦りつけ摩擦で切ろうとしても簡単に切れるものでもない。
「縄を切るから貸してほしいんだけど……ナイフとか縄を切れる道具持ってるかなぁ?」
少年は、罠の縄を切る為、また自分の身体を戒める縛られている縄を断ち切ろうと刃物を持っているか少女に尋ねた。
「持ってますが――」
「俺がきみの手が届く所まで何とか縄を近付けるから切ってくれ」
少女の言葉を遮って少年が言い立ち上がろうと身体を動かす。
なんとか立ち上がろうとして転ぶ。
簀巻きにされ両足は揃っていてバランスが、何とも取りづらい。
「なんだか、気持ち悪くなってきました。早く降ろしてください」
天地逆さまに吊るされたままの少女が身体の不調を訴えている。
それを聞いた少年は、少女の顔色を窺がって見た。
少女の顔色が幾分か青ざめ悪くなってきている事が分かる。
長い時間、宙づり逆さまの状態でいるのだから当然の結果だ。
「頑張って、なんとかするから」
少年が少女に声を掛けた。
すぐさま立ち上がろうと少年が身体を起しに掛かる。
しかし、簀巻きに縛られた身体は自由が利かず、思うように立ち上がる事が出来ない。
何度転んでも立ち上がろうとしても上手くいかない流石に疲れてきた。
身体を縛る戒めのせいで倒れても受け身が取れない状態で転び、したたかに頭を地面に打ち付ける。
少年の顔から滲み出した血と汗と土で汚れ赤剥けた擦り傷が、ヒリヒリと痛む。
息も大分荒くなってきていた。
「絶対……、はぁ、はぁ、助ける……から」
少年は唇を噛みしめ、額で地面を支え身体をゆっくり引き寄せ、面積の狭い両足の裏でしっかり地面を感じながら、首を揺する反動と背筋の力を一気に使い跳ねるように立ち上がった。
勢いを失った駒のように回りながら必死にバランスを取る。
ふらふら揺れていた身体が徐々に安定していく。
「だぁっ――! 成功」
少年は、時折止めながら慎重にしていた息を一気に吐き出した。
幸い少女の近くに立ち上がる事が出来た。
僅かに近寄るだけで手が届く距離。
少年は、再び倒れないよう細かく刷り足で少女に近寄った。
「さあ、切ってくれ」
血と汗と土で汚れた眉目秀麗な顔を満面の笑みに変えて言い放った。
「すいません……、ナイフ……草原に置いてきた鞄の中でした」
少女が申し訳なさそうに紫の瞳を閉じる。
「……」
「……」
両者の間に暫しの沈黙の時間が流れた。
沈黙を静かに破るように小さな声で少女が重い口を開いた。
「覗き魔さん? あなたは魔術を信じますか?」
少女が荒唐無稽な事を言い出した。
「魔術ねぇ……」
少年は暫く黙り込んだ。
「他の羊飼いたちは、そんなの『まじない』だって言いますが、覗き魔さんも山羊飼いなら遠い昔から伝わる術式を何か知っているはずなんじゃぁ……」
少女が不安そうに見ている。
「魔術が存在していた事は知っている。母さんに聞いた事があるし実際、一度だけ使われた事もある」
「使えないんですか? なんかこう――、バァンと」
少女が大きく両手を広げた。
「俺は魔術の存在を知っているだけで使える訳じゃない、きみは使えないのか?」
「私は……」
少女が何かを言い掛けて唇を結んだ。
「私が使えるのは魔除けの術式だけですから、何かを造り出したり破壊したり変化させたりはできません。魔除けのまじない程度の火くらいしか出したりできません」
「火? それで十分だ」
「でも、私が知っている魔術? かも知れない魔除けのおまじないの火でどうやって?」
「火が出せればそれでいい、魔術は応用だと母さんは言っていた。使えるんだろ? 魔術」
「今まで誰にも……ある人にしか見せた事はないです……、怖くて」
「教会?」
少女は小さく頷いた。
「もし、魔術が使える事を知られれば……、考えるだけでどんな仕打ちを受けるかと思うと……」
「分かった。大丈夫、誰にも言わない。もし何かあれば俺も力を貸すから」
「……ちから? を」
「封印されていてほとんど使えないけど、力の封印を解けるのは魔術師だけだ」
「もしかして魔――」
少年は少女が言い掛けた言葉に声を重ねる。
「内緒だ」
少年は微笑みで、そう少女に答えた。
少女は、逆さまになっても手放さなかった節くれた杖で、今にも途切れそうになる朦朧とする意識と戦いながら、地面に小さな五芒陣を描き始める。
「逆さまだと難しいですね」
少女はそう言いながらも陣を描き終えた。
「kano・uruz」
(火よ。力を)
少女が古語を口にし鐘の音に乗せるように杖を揺らした。
静かな森の中に、からん、からん――♪ と鐘の音が響く。
描かれた五芒陣の中に火が熾り初め、小さな焚き火程の火が揺れている。
少年はバランスを崩さないように、ゆっくりしゃがみ少しづつ慎重に身体を火に近付けていく。
幸い毛布は動物の皮を剥いだもので火が直ぐに燃え移りそうにない。
湧いたダニや蚤の駆除に湯で煮詰め、天日に干しを繰り返しているうちに毛もほとんど抜け落ち、最早毛布と呼んでいいのか分からない程だった。 火にあぶられ麻縄がじりじりと音を立て始め、次第に身体の戒めを緩め始める。
戒めが緩んだ事を感じ取った少年は、渾身の力を込めて腕を開いた。
やがて麻縄は、パチンと弾け少年の戒めを解いた。
少年は自由の戻った身体で少女の身体を背中側から自分の体で支えながら抱え、腰に帯びていた山鉈で罠の縄を叩き切った。
少女の足は糸を切った操り人形のように地面に落ちる。
「大丈夫か?」
少年が尋ねると少女は下を向いたまま震えている。
「どこか痛むのか?」
少年の言葉に少女が強く節くれた杖を強く握り締めわなわな震えながら言った。
「手」
「手がどうした? 腕のどこか痛むのか?」
少女は節くれた杖を徐々に持ち上げている。
「手……、どこを掴んでるんですか?」
少年が手の平を握った。
手の平の中に、ちょうど納まる程の弾力に富む、やわらかい感触が広がっている。
「ピーチパイ?」
少女は、ふらつきながらも節くれた杖を高く振り上げ、天を指した杖を振り下ろす。
森の中に、からん♪ と小気味良い鐘の音色が響き渡った。
To Be Continued
最後までお読み下さいまして誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!