〜 グランソルシエールの禁術書 〜 第九話
◆山羊飼いの名
静かだった草原は、起床の銅鑼の音と共に静けさを失った。
毛布に包まって寝ていた騎士たちが銅鑼の音を合図に起き出して朝食の準備に取り掛かった者たちで俄かに騒がしくなり始めている。
先程まで見張りをしていた騎士は大欠伸をし眠そうに眼を擦っていた。
「あれ? 解けない……」
「うん? 何が?」
「縄……」
「アウラ? きみって才能ないなぁ、今度俺が――痛ぇ、まだ何も言ってないのに……酷いなぁ」
草原の朝に乾いた鐘の音が、からん♪ と響いた。
「プラム呼びますよ! プぅ――」
アウラは薄桃色の口を尖らせた。
「待って……、あいつが来ると俺の尻に尻尾が生える」
「大丈夫です。今の状態では喉しか噛めませんから」
「それは困る」
「いいじゃないですか? 討たれてくれるのでしょ? 私に」
「きみ……人の話全然聞いてないねぇ」
「覚えてます。討たれてくれるのですよね?」
アウラは、やわらかく微笑みを浮かべ口調は何処か冗談と確認の意を含めて言った。
「う――ん、今直ぐは困るなぁ」
「何故? 覗き魔さんの夢を叶えたいからですか? もしかしたら私たち敵になるかも知れないのですよ? それに仇同士かも知れないのですよ?」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない。それに……」
「それに?」
「俺は、まだ約束を守ってない。もう忘れたのか? 馬鹿だなぁ――アウラは」
少年が満面の笑みを浮かべた。
「……という事は循鱗の封印を解かなければならない時が来るかも知れませんね? 風狼さんに叱られますよ?」
アウラも少年が浮かべる微笑みと同じく紫水晶の瞳を瞼で覆うと弓のように反らせた。
「そうだなぁ……、まぁ、それはそれでいい事がある」
少年の含みのある言葉にアウラは、顔を赤らめながら苦笑した後、くすくす笑い出した。
「覗き魔さんて可笑しな人ですね。何を考えているのか、さっぱり分からないです。それにエッチで間が抜けてるし、それでいて覗き魔で変態だしなのに……それなのに物知りで頭の回転は早い人……まったく覗き魔さんは変な人です」
「……その言い様じゃ、まるで俺が危ない人みたいじゃないか、それに最後は助け船になってない。せめて風変わりと言ってくれ」
アウラと少年は、くすくす笑い合った。
今は、この少年の言葉を信じよう。
雲のようにふわふわ笑う少年の笑顔を信じていようとアウラは思った。
アウラの紫水晶の瞳は、やわらかな輝きを浮かべていた。
手の平に握った硬貨を振った時のような金属のぶつかり合う音が近付いて来ている。
「おはよう、アウラ」
長めの金髪を先程から強まった風に泳がせ金眼の騎士がアウラに声を掛けた。
「ランディー様! おはようございます」
アウラは、寝ぐぜで乱れた桃色の髪に慌てて手櫛を通し整えると長いスカートの中程を摘まみ、恭しくお辞儀をした。
ランディーの後ろには、二人の騎士が控え朝食のライ麦パンと日持ちのする野菜と塩漬けされた豚の肉を水で煮込んだスープが入った皿、葡萄酒を水で薄め蜂蜜を入れた飲み物が入った木の器を持っている。
「う――ん? 俺は乳の方が良いんだけど……」
少年が騎士に微笑み掛けた。
少年の言葉に後ろの騎士が肩を揺らしながら笑いを堪えている。
ランディーは、にこりと微笑を見せ少年に言った。
後ろに控えた騎士は我慢出来なくなったのか「ぷぷっ」と引き締めている唇を割って出る息の洩れる音が聞こえる。
「すまない。生憎王都からの遠征でね、傷みやすい乳は持ち合わせていないんだ」
「それなら俺が連れている山羊の乳を絞って来よう、アウラもその方がいいろ? 子供なんだから」
少年の碧眼がアウラの顔を見た後、胸元に移った。
「なっ! ど、何処見て言っているのですかぁ?」
アウラは、碧眼の矢を受けている胸元を両手で隠し頬を膨らませた。
「さぁ、内緒だ」
アウラは、わなわな身体を小刻みに揺らした。
「馬鹿にしないで! こう見えても私は、もうじき十六になるんだから、まだ十五だけど……」
「なんだぁ、俺は三月程前に十六になったばかりだ。俺と同じ年の頃じゃないか、小さいなぁアウラは! そうだ! 山羊の乳は栄養価が高い、大きくなるかもしれないぞ?」
「だから……何処見てそう思う訳ですか? まさか! 昨日の事を思い出して言ってるんじゃないですよねぇ!」
「言ってもいいのか?」
「言っちゃ駄目です」
「えっと――」
「わぁわぁわぁわぁ、言っちゃ駄目ですってばぁ」
アウラの声が少年の声を掻き消す。
「――と胸」
「あっ……、ばかぁ――! ランディー様の前でぇ……もう知らない。ばかぁ――」
アウラは、今のも顔から火を吹きそうな程赤らめ肩を落とした。
「大きな声出すから肝心なところが聞こえなかっただろ?」
「いや、むしろ肝心なところしか聞こえなかったですぅ……」
アウラは肩を落とし「はぁ――」とかわいらしい溜息を吐いた。
後ろに控えていた騎士たちが遂に堪え切れなくなって笑い出した。
「私は気にしないよ。アウラ」
ランディーが苦笑いを向けていた。
「ラ、ランディー様まで……世の殿方は皆、大きな胸に惹かれるのですね」
アウラは、細い肩を小さく落とした。
「いや、皆がそうとは限らない。それにアウラは今のままでも十分魅力的だ」
「そうだ! 断じてそんな事は無い! 俺も気にしない。むしろ俺は控え目な――」
「何を力説しようとしてるんですか! プラムぅぅぅ」
からん♪ と鐘の音が響きアウラが呼んだ名前は荒々しい息を吐ながら疾駆し少年との距離を急激に縮めて来ている。
そして、少年の尻尾と化した。
野営の後を始末し終えた騎士団が馬を引き出した。
「アウラ。この先どうするんだね。急ぎの用でもなければ、放棄された街まで一緒に来て貰えないだろうか? そこに例の禁術書が隠されていると噂になっている神殿がある」
ランディーが部下が引いてきた馬の手綱を握て尋ねた。
「はぁ……はい……私は、これから降り出す大雨で氾濫するかも知れない川の事を伝えに、シュベルクの街に急ぎ戻らねばなりません……」
禁術書が眠っていると聞いてアウラの胸に複雑な感情が湧き上がり、一瞬戸惑った。
禁術書の力を手にする事が出来れば、故郷を焼いたグリンベルの悪魔を討つ事が出来る。
しかし、その憎むべきグリンベルを滅ぼした悪魔の力は、ここにいる山羊飼いの少年の体内に封印されているのだ。
――胸が……切なくて苦しい。
ドラゴンの循鱗を宿した少年の事を考える度に心臓は踊り、何とも言えない切なく苦しい気持が湧き上がってくる。
この気持ちは何? アウラは、今日まで感じた事のない感情に戸惑った。
戸惑いを見せるアウラにランディーが言葉を掛けた。
「羊飼いの天候を読む力は侮れん。確かに山の雲行きが怪しい。なら尚の事、アウラの手助けが必要になる」
「いえ、今日まで私にも分りませんでした。彼がそうだと言っているのです」
アウラは、ランディーにそう答え山羊飼いの少年を、ちらりと見て目配せを送った。
「山羊飼いの少年が?」
「はい」
アウラの言葉を聞いてランディーが考え込むように腕を組み少し間を置き少年に向かって言った。
「山羊飼いの少年! 頼みたい事があるのだが、良いかね?」
「何かなぁ? 人には出来る事と出来ない事がある」
少年がすっかり馴染んだ微笑みをランディーに向けた。
「アウラが連れて来ている羊を連れシュベルクの街に行って、きみの言う事を伝えてくれないかね」
「それは出来ないなぁ」
少年の顔から笑顔が消え、困ったような顔をした。
「何故かね? きみは山羊飼いだ。群れを扱う事には長けているはずだ。きみの連れている山羊とアウラの羊、三十頭程何と言う事はあるまい」
「う――ん。数の問題じゃないかなぁ」
ランディーが隣に控えた副官らしき人物に目配せすると、その男が腰に下げていた革の袋を差しだした。
革の袋は、ごつごと歪な形にをしている。
「これは豪気だなぁ」
恐らく金貨がぎっしり詰まった革袋だろう。
「足りないかな?」
嫌な眼を少年に下してい副官らしき男が言った。
「困ったなぁ……、金は欲しいが、そういう問題でもない」
「なら何だ。言ってみろ」
「俺は山羊飼いだ」
傍で話を聞いていたアウラは、はっとして顔を上げた、細い桃色の髪がふんわり宙を踊る。
「俺は山羊飼いだ。これ位の頭数の羊たちを連れて行く事は、造作もない、でも俺がシュベルクだっけ? に行って話をしても誰も信じてはくれない」
「見た目で羊飼いと山羊飼いの区別などつかないだろう? それに山羊は街にもいる」
「羊飼いは、山羊も飼っているからなぁ。大きな羊の群れに何割か山羊を交ぜるからだ。アウラの羊に俺の山羊、合わせて三十頭程の小さな群れに三分の一も山羊が交じった羊の群れを街に連れて行っても誤魔化せない。それに羊飼いは自分の羊を見分ける眼を持っている」
副官は黙ってしまった。
「それに俺にはアウラと交わした約束がある。逃ないと」
少年と副官の様子を見ていたランディーが長めの金髪を揺らし高らかなに笑た。
「副官、貴様の負けだ。少年、名を聞こう」
少年は微笑んで応えた。
「俺の名は――」
その時、出立を知らせる大きな銅鑼の音が草原に鳴り響き渡り少年の声は掻き消された。
To Be Continued
最後までお読み下さいまして誠にありがとうございました。<(_ _)>
次回をお楽しみに!