幸せの答え
「嗚呼、またやっちゃったよ。」
夜の銀座の街をぶらぶら歩きながら、そんな事をひとりごちた。ふと目についたベンチに座り込む。
「こんな筈じゃあなかったのになぁ……」
深く潜っていく意識と共に、思考は過去の事へと向かっていった。
俺にとって学校なんてものは、憎悪渦巻く牢獄のようなところだった。先生も同級生も、後輩でさえもが心の内を隠し持っていて、自分の利益のために他人を貶め、傷つける事も厭わなかった。そんな悪意をもろに受けてしまう自分は、きっと弱い立場の人間だったのだろう。
そもそも社会において、強弱のヒエラルキーというものは絶対だった。強き者が弱き者を従える。弱肉強食の思想だ。動物だってこの思想に基づいて行動している。だとしたら、自分はあの悪意を自然の所作として、ただの運命として享受するべきだったのだろうか。
俺はクラスで言うところの、教室の端に座って本なんかを読んでいる暗い感じの奴だったと思う。きっとクラスでの利用価値はほとんど無くて、あるとしたらそれは……
「おい、お前汚ねぇな。雑巾やるよ、ほら!」
ギャハハハハ……数人の笑い声が教室に高らかに響く。思春期のこどもにとって不満は溜まるもので、それを解消する悪意のはけ口というものは、必ず必要になるものなのだろう。
俺はそれに不満を感じるでも、怒りを感じるでもなく、只々早くこの時間が終わることを願っていた。俺が面白おかしく行動すれば、彼らは囃し立て、嗤い、手を叩く。まるで舞台で奇妙に踊り、話すことすら許されない道化師のようだと思った。
先生に相談する気なんて、微塵も起きなかった。相談すれば更に悪意あるいたずらが待っているのだろうし、仮に相談出来たところで助けてくれるとも思わなかった。ひたすらに、水の滴る雑巾を顔からぶら下げて、彼らの嘲笑を浴び続けた。
そんな俺にも、少なからず憧れはあった。憧れというだけあって、実現することもない唯の白昼夢。それでも俺は、その夢が叶う事を心の中で妄想しながら、毎日を過ごしていたのだった。
教室の窓際、最前列。そこに彼女は座っていた。数人の取り巻きに囲まれながら。
「ねぇねぇ、昨日のドラマ見た? あのラストの展開、めっちゃビックリしたんだけど~」
金の髪の派手なアクセサリーを付けた女が、円の中央に座っている彼女に話しかける。彼女は花のような笑顔のまま、答えを返した。
「うん見たよ。私もびっくりしたの! まさかあそこで○○がさぁ……」
彼女の茶髪は日を受けて反射し、綺麗な白い肌は輝くばかりだった。恋愛感情を抱いていたわけではない。そんな思春期らしい感情、持ち合わせていなかった。ただ、社会には俺のような塵もいれば、彼女のような人間もいるのだと思い、神様の不平等性を実感していた。
彼女はそれ程に非の打ち所がなく、ひたすらに完璧だった。文武両道、秀麗眉目。彼女のために用意された言葉のようだった。俺は、魚が陸に憧れる様に、籠の中の鳥が外の世界に思いをはせる様に、彼女に憧れを抱いていた。しかし、それを感情に出せる筈もなく、自分の唯一の趣味であった本に意識を戻した。
私にとって学校とは、青春の一ページ……だったら良かったのになぁ。残念ながら、そんな楽しい思い出、欠片も無かった。私は幼い頃から、他人の目の色を伺う節があったのだと、亡き母は病院で臨終の際に私に言い残した。私は傍目から見ると“とても良い子”だったのだと思う。周りの大人や学校の先生は、いつもそうやって私を誉めそやした。
「とても良いお子さんですね。」
「あなたはとても良い子だから、お母さんも手が掛からなくて助かるでしょうね。」
そんな訳だったから、私は努めて“良い子”でいるようにした。その為に勉強や運動、人間関係でさえも手を抜かず、完璧に作り上げることができていたと自分でも思う。人が見ていないところで、人の何十倍も努力を重ね“完璧な人”であれるように常に振る舞った。他人が嫌がる委員や雑用も努めて引き受け、頼まれたことはどれだけ忙しくとも一つも断らなかった。
いつしか私の周りには、取り巻きがくっつく様になった。正直面倒で仕方がないが、“完璧な人”はどんな人間にも優しくあるものだ。自分では何一つ努力をせず、私の持つ栄光のおこぼれを待ち続ける。そんな愚かな人間に反吐が出そうだった。
クラスの皆と趣味を合わせ、時間を合わせて行動するようになった。努めて“良い子”だった私は、それに伴いあらゆる努力をした。面白くもないドラマを何回も見たり、行きたくもないカラオケに休日朝から出かけたり。髪を染めてみたり、化粧で着飾ってみたりもした。
私は正直、限界を感じていたのだと思う。自分の意見が通らないと、人はストレスが溜まるものだ。しかし、私にもはや自分の意思を伝える方法も、否、なんなら自分の意思を見つける方法さえも解らないのだった。思春期だった私は、余りに早く大人の考えを知った私は、自分の意思を押さえ付け続けた結果、殺してしまったのだろうか。まるで私は、仮面で自分の本性を隠し通す、奇術師のようだと思った。
そんな時、教室の隅で熱心に本を読む彼を見つけた。彼の表情は明るく、本の世界に熱中しているようだ。彼はその存在感を主張こそしないが、人と交わらなくても生きていける、自分の意思を貫ける人間なのだと思った。私はもう他人なしには生きられない。余りにも長く仮面を被って生活し続けてしまった。
私は、彼が実は同じクラスの男子から虐められていることを知っていた。学級委員として止めねばならないのだろうことも知っていた。彼はたとえ周りから罵声を浴びせられても、執拗な嫌がらせを受けても、嫌な顔をすることなくただ享受していた。
彼は私の理想となった。彼のように何のしがらみにも捕らわれず、自由に暮らしたいと感じた。控えめでありながらも、自分の生き方を誇りに思えるような、汚れ無きすみれの花のような彼。見た目だけどんどん派手になって、とうとう棘まで持ってしまったばらのような私。
自分の身体が汚れているように感じて、自分が自分でいる事に嫌悪を感じた。そう思うとなんだかいたたまれなくなって、私はもう彼の方を見る事が出来なかった。私は結局最後まで、少しずつエスカレートしていく彼への暴力を止めることは無かった。
人もまばらなネオン街を歩いていると、街灯の下のベンチに誰かが座っているのが見えた。いつもなら気にせず通り過ぎてしまう光景。何の違和感もない当たり前の光景。でも、何故かその時の私は素通りすることが出来なかった。目が吸い込まれるように引き寄せられる。気が付くと私はベンチの前に立ち尽くしていた。そこに座っていた男の顔をちらりと見る。私が状況を理解して言葉を発する前に、向こうから声が掛けられた。
「君は……もしかして。」
「そうみたいですね。お久しぶり、になるのかしら?」
私たちはどちらから言い出すともなく、近くの喫茶店に入って行った。わざと暗くしてある照明に寡黙なマスター、クラシックの流れる落ち着いた雰囲気の良い店だった。私たちはコーヒーを一つずつ頼み、話を始める。お互いの職業から今の具合など、様々なことを話した。
「私ね、今丁度あなたの事を考えていたの。」
「そうか。俺も今さっき、君の事を考えていた。」
私は冗談めかして笑う。
「それってなんだか、運命みたいね?」
彼は真顔で返す。
「そうだな、運命かもしれない。」
気まずい沈黙。何か喋ろうと思った時、ふと頭に疑問が浮かんだ。今まで聞きたくても誰にも聞けなかった言葉。この人なら答えをくれるかもしれない。
「私ね、あなたに聞きたいことがあるの。」
彼はまたもや真顔で返してくる。
「そうか、俺も君に聞きたいことがある。」
その瞬間に直感する。もしかしたら、彼が聞きたいことはきっと......
「「私/俺は、どうやったら幸せになれますか?」」
二人して、声をあげて笑った。