4章 花ある君と思ひけり
拝啓。都筑成美様。
初めてお手紙をお出しします。
まず、突然姿を消してしまい申し訳ありません。この手紙がお手元に届いている頃、私は日本にはいないかと思います。もし失踪と思われたら申し訳ありませんが、私は自分の意思で姿を消したのだとご理解ください。
何度も思案し今日ここに実行いたしました。ご挨拶もせず申し訳ないと思いますが、会ってしまいますと私の決意が緩みますので黙って日本を発ちます。
いくつか都筑さんに嘘を言ってしまいました。まずそれをお詫びいたします。まず私は洗濯屋をしていると言いましたが、それは嘘です。確かに私の両親は洗濯屋を営んでおりました。戦前の話です。ですが戦中は不景気に煽られ、それに増して物価が上がり両親は店をたたみ父はシベリアへ出兵しました。そのまま父は帰らず、戦死したとのはがきが一枚届いただけに終わりました。
母はその後病をえて亡くなり、私は天涯孤独になりました。そんな私が普通の仕事に就けるはずもなく、娼館の女として身を落としました。
そして戦後、日本に入ってきた彼に出会いました。私はGHQに所属しており、私の働いていた娼館の常連でもありました。そして今より十年ほど前、彼は私に娼館を辞めました。けれども私は彼を信じる事が出来ませんでした。
その頃私は他人を信じるという事が出来ませんでした。それまでの人生で私が味わった苦しみ全てが私以外の人が起こしたもので、その度に酷い目にあっていました。
ですから私は彼の言い分をそのまま素直に信じるわけにはいかなかったのです。『君をここから解放したい。そして私と一緒にアメリカに来てくれ』との誘いです。
今の日本で娼館に働いていたというだけで下賎なものと扱われている事も知っておりましたので、わざわざそんな人間を金を払ってまで自分の傍に置きたいという人は知りませんでした。
ですから私はすぐさま俄かには信じられぬ事でしたので、一度お断りしました。けれども彼は私を諦めることをしませんでした。それから毎日娼館へ通い、熱心に私を説得しようとしました。
それから2ヶ月あまり経とうとした日でした。彼が『GHQの仕事が終わったから、もう日本へいることは出来ない。この機を逃してしまえば諦めて君に会えなくなってしまう。その前にもう一度私に君に会いたい』とのことでした。確かにその頃、常連客だった他のGHQの方々も半数ほどの人が帰国されていたあとでした。ですから彼も近いうちに帰国するだろうとは知らないことではありませんでした。
けれども私は娼館の女です。どうやって店を抜ければよいのでしょう。一度泥沼に落ちた人間は、そのほんの一欠けらの者しか外には出られないのです。私は彼にハッキリ言いました。『あなたを信じられない』と。今考えてみますとそれは随分と酷い言葉を浴びせていたような気がします。
彼は黙って帰国の途につきました。私は喜ぶ事も哀しむ事も出来ませんでした。しかし私が予想もしていなかった事態がその時には起きていたのです。
翌朝、いつもの通りに女将さんの所へ挨拶に行きました。しかし女将さんはいつもと違う事を言いました。『これからは本名で生きていきなさい』と。私はそのときにはその意味がわかりませんでした。けれどもすぐさまわかりました。彼は私を娼館から落とすために大金を払っていったのです。私は彼からは何も聞いていませんでした。『君をただ救いたい』と一通の手紙が残されていました。
私はその時になってようやく涙があふれました。嬉しかったのではありません。結局彼を信じられずに裏切った自分が嫌になったのです。その人が私のことを愛してくれていたとしても。
そのあと、私は何処へ行ったらいいのか行き先がありませんでした。突然娼館から解放されても私の家は勿論、全てのものは手元にはありませんでした。私は女将さんから幾らかのお金を頂きました。それも彼が置いていたものでした。
けれども私の心は空虚でした。私は彼のことをいつの間にか愛してしまっていました。彼がいなくなって初めて気づきました。けれどもそれは後の祭りです。彼のアメリカでの住所もそれを知る手段も、行動力もありませんでした。私は途方にくれて、娼館の近い場所に家を借りて住む事にしました。
日々の生活は貴族の家の家政婦として少しずつお金を貯めていきました。いつかアメリカへ行きたいと。それが私の我侭であり、不可能に近い事も知っていました。しかし、あの日。都筑さんが私に愛を告白してくれたあの夜。私のうちをある人が訪れました。
その人は彼の親友でした。日本にいた時も二人して繰り出してきた同伴者だったのです。私はとても驚きました。何故私の居場所がわかったんでしょう。
その人は言いました。『あの男はまだ君の事を想っている。出張のついでに娼館を訪れてくれ』と頼まれたと言うのです。私は時間をくださいと言いました。やはり俄かに信じられない事でしたので、飛びつきたくとも飛びつく事は出来ないと。
ですから私はアメリカに行く事を決意しました。彼の親友が私と一緒にアメリカへ、彼の元へ連れて行ってくれるというのです。そして私は今、この手紙を書いております。
私は都筑さんに告白された事を嬉しく思っています。けれども応えられない。そして日本を発つ前に愛にもいけない。卑怯な女です。でも私はそれ以上に彼を愛してしまったのです。
都筑さん、私はあなたに窺った言葉を思い浮かべています。『飛ぶために小説を書く』と。私も飛びたかったのです。直ぐにでも彼のところへ。
最後になりましたが、とても親切にしてくれて、私を愛してくれてありがとうございました。あなたの愛はそっと心の中へしまって行きます。でもこれだけは本当です。私は今でも都筑さんが書かれる小説を愛しています。作家としてのあなたも。それでは今度こそお別れです。短い間でしたがありがとうございました。
かしこ
追伸
私が書きとめていたもの。それは私の日記です。娼館から解放されてから、毎日が私にはサーカスのように感じられました。時間の流れ全てが私自身でした_。
最終話、終了しました。
ここまで読んでいただき有難うございました。
是非とも感想を教えてください。