3章 前にさしたる花櫛の
初めて彼女を見た日から、一月が経とうとしていた。未だ彼女というあいまいな呼称でしかできないのは、名前さえ知らない相手だからに他ならない。
週に一度、喫茶店へ通ってくる彼女。いつも清楚な装いおしており、声も外見と違わぬ透き通った鈴の音色のようであり紅茶を一杯注文する。雄さんはいずこの令嬢のお嬢様と言っていたが、真偽は分っていない。文子さんが彼女に話しかけたが、自分のことはあまり話したがらないそうだ。
「速水せんせ」
不意に路上で声を掛けられ振り返ると、そこには警官の吉野君がいた。
「巡察の途中かい」
「そうですよ。せんせもルージュへご出勤ですか」
「そうだ。出勤とは言わないだろうけどね。いつも通り変わり映えのしない生活だよ」
「それはまた自虐的な台詞ですね。速水せんせらしからぬ言い方じゃないですか」
「変わり映えしないから、変わり映えしないって言ったまでのことだよ。正直にね」
「それじゃ、僕だって変わり映えしない毎日ですけどね。そんなあっけらかんと言われちゃ困るじゃないですか」
「何が困るんだい。それに君の変わり映えしないっていうのは良
い事じゃないのかな。君の場合は事件も何も起きてなくて平和だっていう事だろう。私の場合だってそう。仕事があるっていうだけだからね。平和が一番」
「そりゃそうですけどね・・・まぁ、いいや。僕もこれからルージュへ行くのでご一緒しましょう」
吉野君に先導されるような形でルージュへと歩みを進める。夏になって照り付ける太陽の日差しが強くなってきた。日が高くなったから影も短い。路上を横切る熱風も季節の移り変わりを示していた。
「安達さん」
吉野君が声を掛けた相手に不覚にも気づくのが遅れたのは、私が下を向いて歩いていたからに他ならない。毎日通う店へのルートは前を向いて歩かなくとも、自然へ足が進むように出来ている。吉野君には悪いが安全確認は彼任せ。といっても、車なんて殆ど通らないからぶつかっても自転車が相手なくらいだろう。だからそこまで酷い事にもならない。
それよりも私は吉野君が声を掛けた相手が気になって仕方がなかった。その相手は図らずも件の彼女でだったからだ。
「あら、警官さん。巡察ですか」
初めて対面に接した彼女の声はじかに聞いたからか、とても素敵なものだった。私が想像していた以上のものだ。ニコリと笑った彼女はまるで私にとっては天女が降りてきた如くのことに感じられたと言っても大げさではない。
「ええ、そうですよ。安達さん。これから速水せんせがルージュへ行かれるとの事ですから、連れ立って歩いているのです。安達さんはお買い物か何かですか」
吉野君はよそ行きの話し方で応じていた。いつもの砕けた口調ではない。無論、私や奥平と話すような話方では、市民の皆さんに格好がつかないといったところだろう。
「速水・・・先生ですか」
彼女は今、私の存在に気づいたというように視線を向けた。彼女と初めて視線が交錯する。日本人としては色素の薄い茶色の瞳が印象的だった。
「こちらは作家の速水八角せんせです。毎日ルージュへ通って執筆をされているんですよ」
吉野君が丁寧に紹介してくれたので、私はお辞儀をした。
「吉野君はこう言っていますが、私なんて大した作家でもなんでもありません。どちらかというと本名の都筑成美と呼ばれる方に慣れていますから」
彼女は少し考えたようだが、コクリと頷いた。
「そうですか。作家さんでいらっしゃったんですね。毎回ルージュへ行くといらっしゃっているので・・・。お店の方とは思えませんでしたし。不思議に思っていたんです」
私が彼女を思うようにとは違うと思うが、彼女も私を認識していてくれたのだ。その事実だけでも私は嬉しかった。
思わずそのことに感動してしまって私は黙ってしまったが、彼女にはそれが私の機嫌が悪くなたのかと勘違いをしてしまったようで「あの・・・」と戸惑わせてしまった。吉野君も私を肘で突く。
「いえ、はい・・・大した腕もありませんが作家な事だけは確かです」
「速水せんせ。どっちなんですかその回答は。安達さん、これでもれっきとした作家先生ですから・・・。不審ですけど」
「不審って酷いよ。吉野君。作家です。それほど名前が知れ渡ってはいませんがね。けっして怪しい人間ではありません」
「何だかお二人ともとても面白い方々ですね。速水先生、私は安達佐智子と申します。よろしくお願いします」
彼女は微笑んで名前を教えてくれた。佐智子さんというのだ。私は頭の中で復唱する。
「これからルージュへ行かれると窺いましたが」
彼女はそのまま話を終わらせて去ろうとはしなかった。それだけに関わらずそのまま私たちと話を続けてくれるのだ。
「はい。速水せんせは毎日ルージュへ通っているんですよ」
「あの・・・ええ、そうなんです。私はなかなか面倒な人間に出来ていて、誰もいない場所、もしくは何も雑音のない場所ではかえって集中できなくなってしまって、執筆が出来なくなってしまうのです。だからルージュの店主の奥平には悪いですが、毎日通って店の端を汚しているんです」
別に聞かれていない事でもペチャペチャ喋ってしまっている。厚かましい奴に思われていないだろうか。少し心配だ。
「そうだったんですか。週に一度お見かけしてはいたのですが、何かお忙しそうにしていらっしゃったんで・・・。速水先生とおっしゃいますと、あの速水八角先生でいらっしゃいますね」
まさかそのペンネームが彼女の唇からこぼれるとは思ってはいなかった。私の書いた本を彼女は読んだことがあるのだろうか。
「えと・・・あのとかどのとかは分りませんが、速水八角とは私のことです。でもその名前で呼ばれるのはどうも調子悪くて・・・。良かったら申し訳ないですが本名で呼んでいただけませんか。都筑とでも」
「都筑さん・・・ですか。ええ。分りました。でも警官さんは」
「ああ、彼は半ば茶化して私のことを呼んでいるのです。ですから私のことを先生と呼ぶことは出来るだけお断りしているのです。こそばゆくて、落ち着かないんですよ」
「そうなんですか。は・・・いえ、都筑さんは作家なのですね。今日もこれからルージュへ執筆へ行かれるんですか」
彼女が都筑と私のことを呼んでくれたことに優しさを感じた。私の気持ちを大切にしてくれるということが嬉しい。
「良かったが一緒にいかがですか」
自然とその誘い文句が出ていた。隣の吉野君がさも珍しそうに見てきたが、いっそのこと気にしない。驚くならば驚くがよい。そんなことより彼女と二人きりにするくらいの気を遣って欲しいものだ。妻帯者なのだから。
彼女は私の誘いに少し踊ろいたようだ。当たり前だろう。初対面でいきなりそんなことを言われたら、私だったら疑ってしまう。
「迷惑ではありませんか。私としては是非ご一緒したいのですが、都筑さんのお邪魔にならないでしょうか。手が止まってしまいませんか」
彼女は意外なことを言った。自分よりも私の仕事の心配をしてくれるのだ。
「そのような心配はご無用です。どうせ毎日同じ仕事をするものですから。毎日書くスピードは気にしないのです。締め切りに間に合わせられれば良いのです」
「一日に一ページも進まない日もありますもんね」
そういって吉野君が茶化す。思わず私はズッコケてしまいそうになった。
「君が言わなくっても良いじゃないか」
「それは失礼しました。っと、それでは安達さんのお供は速水せんせにお願いして、僕は他の見回りに行きますよ。せんせ、おかしなことしちゃ駄目ですよ」
「ちょ・・・吉野君」
私の制止など振り切って、彼は自転車に跨りさっさと消えてしまった。いくら二人きりにして欲しいという願いが叶っても、突然二人きりにさせられてしまったら戸惑う。何しろ家族とは別の女性と二人きりになった事など、数える程度しかないのだ。あわててしまうのは当たり前だろう。尚且つ、少なからずとも相手に好意を抱いているのだから。そんな事はお構いなしに吉野君の姿はどこかへ消えてしまった。
「行ってしまわれましたね」
取り残されたような私たち、否、私に彼女がポツリと呟く。
「はい」
「いえ、私と二人で残されたといいますか、私を押し付けられてしまった都筑さんが戸惑われているように見えましたから」
彼女の観察力は鋭い。しかしそんなことを言っている場合ではない。
「そんなことありませんよ。久しく女性と出かけた事がありませんでしたので緊張してしまって。すいません」
意味もなく謝っている私がいる。
「謝れるようなことではありません。都筑さんには何もされていません」
「いえ、なんといいますか癖みたいなものです。お気になさらずに。どうせルージュもあと100メートルも歩けば着きますので、私とご一緒してください」
「都筑さんて面白いかたですね」
安達さんはそう笑って言うと「では参りましょうか」と私を促した。
「いらっしゃい。おや、珍しいカップルだ。どうしたんだい」
ルージュにくると、雄さんがさも珍しげに私たちをカウンターへ案内した。二人きりでテーブルにはしてくれないらしい。他には客の姿はなかった。奥から文子さんが現れる。
「あらほんとに、珍しい組み合わせですこと」
「成美君、こちらの彼女の事を紹介してもらえないかい。週に一度贔屓にしていただいているが、今までは話すこともなかったからね」
雄さんは私にはいつものブラックコーヒーを用意した。彼女には「紅茶でいいかな」と紳士らしく確認している。彼女は嬉しそうに頷いた。
「こちらの女性は安達佐智子さんです。安達さん、マスターの奥平雄史さんと奥方の文子さんです。実は奥平さんとは私の大学校時代の先輩後輩の仲なんですよ」
互いによろしくと挨拶を交わす。雄さんは何が面白いのかニヤニヤしていた。
「佐智子さんは普段どういうお仕事をされているんですか」
文子さんがクッキーを出しながら彼女に尋ねると、彼女は少し戸惑ったような顔をして黙った。仕事の話は好きではないのかもしれない」
「洗濯屋です。今はとある屋敷に給仕してますが、お手伝いの仕事もしています。毎週一度お休みを頂いていて、その日は外に出かけるんです」
私が予想していたものとは別の回答だった。少なくとも彼女が着用するものは使用人が着るようなものではなかったし、いつも何かしらを手帳に書き込んでいるのを見ていたから。正直に言うと彼女は少し笑みを浮かべた。
「本当に大したことないんですが、毎日ちょっとした変化や事柄を忘れないように書いているんです。特別な事は何もしていません」
「そうなんですか。何かものがきの仕事をされているのかと思っていました。いつも何かを書き込んでいらっしゃったようなので」
「都筑さんみたいには上手くは掛けません。私のはただの日記や備忘録です」
彼女の微笑みは美しい。
「普段洗濯を」
「洗濯屋です。ここ近頃、お洗濯をする時間がないとおっしゃられて。女性も外で仕事をする時代になりましたから。洗濯をする時間もないという方が増えてきまして」
「そうなんですか。知りませんでした。それにしては手が綺麗ですね」
「いつもクリームを塗っていますから」
それから私たちは色々と事を話した。意外にも二人とも意気投合し、奥平さん夫妻も含めて話に花が咲いた。彼女は「執筆のお邪魔をしてしまってすみません」と言ったが、私は「また来週お会いしましょう」と言った。彼女と話すのは楽しく、彼女が帰った後しまらく私は夢見心地でボーっとしていたが執筆は進んだ。
それから数週間、毎日決まった日に彼女と話をする事になった。内容はまったくたいしたことではなく、日常会話だったけれど会話の中身なんてどうでも良かった。彼女と話すことが出来る。ただ、それだけで幸せだった。
ふと、ある日彼女から予想もしていなかった質問を受けた。
「なぜ小説家になったんですか」
「なぜか・・・うん・・・そうだね」
私は思わず黙り込み考えてしまった。そういえば何故私が小説を書くようになったのか、考えた事はない。幼い頃は確か兵隊になりたいと思っていたが、自分がその立場になった時など嬉しくもなんともなかった。その頃は日本も敗色濃く、戦果を流すラジオ放送などただの空回り。ある程度以上の学識があれば、日本の負けはわかっていただろう。大学校在学中に兵役になた者なら、日本の負けはわかっていただろう。ミッドウェー海戦で日本軍は連合艦隊に惨敗し制海、制空権を失った。それから坂道を下る如く。
「飛ぶため・・・かな」
「飛ぶため」
なんて言って答えたらよいのかわからなかったけど、そうとしか応えられなかった。
「そう。誰よりも高く飛ぶため。私の心は敗戦のあの日から止まってしまっている。頭の中ではもちろん、そんなことなどないとわかっているのにね。だからその心を少しずつ修復して、ずっとずっと高く飛んでいきたいんだ。私にとって書くっていうことは、他人とのコニュニケーションであって、自分のリハビリテーションでもあるんだよ。きっと私以外にこの真理をわかる人はいない」
「高く飛ぶため」
「だからね、君にも祈って欲しいんだ。私が途中で逃げ出さずに高く飛べるように。それがあの戦争を生き残った者の使命でも義務でもあると思ってる。・・・なんだかつまらない事を喋ってしまったみたいだね。ごめんね」
「そんなことありません」
彼女は一粒の涙を流した。それはとても綺麗で彼女がまるで消えてしまうように思えた―。