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航路  作者: 遠江朔鵺
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2章 林檎のもとに見えしとき

 「おや、今日の出勤は珍しく遅かったではないかね」

私が毎日の習慣のようにいつも通りに「ルージュ」のドアを開けると、これまたいつも通りにギャルソン姿の店主が迎えてくれた。

基本的に我が友人で大学校時代の先輩かつ店主の彼は、大らかな性格で穏やかな人物である。その為かあまり物事に執着することも細かい事にも拘らない性質である。誤解をしないで欲しいのだが、細かい事に心配りが出来ない人間という事ではない。第一、気の利かない心配りができない人間が、喫茶店を開こうなどと考えるはずがないだろう。

 そんな彼が気にする事項が一つある。それは時間という概念だ。何をするにしてもまずは時間の事から考える男なのである。曰く、時間は誰にでも平等に流れていながら、不平等にもなりえるからというのが理由だそうだ。

 大学の卒業時の論文の主題も時間にしたというのだから、彼の時間に対する敬愛は並々ならないものだろう。

 「そんなに遅くなったつもりはないんですが」

私は自分の左腕にはめているセイコー製の腕時計を見る。すると午前十一時半を示しており、店に置いてある一際大きな振り子時計も同じような時間だった。

この店の主が骨董品屋から譲り受けたという。いくらで譲り受けたのかは無粋な質問なのでたずねていないが、それなりの額は出しただろう。

しかし店には不釣合いにも見える大きな振り子時計だが、店主はいたく気に入っているようだ。一時間毎にオルゴールが鳴る仕掛けになっている。

 「ルージュ」は西洋風喫茶室である。以前述べた通り十席ほどしか席数はないが、テーブルや椅子の配置が良いのか、実際よりは広めに感じる。メニューは珈琲に紅茶、焼き菓子などの軽食。立ち寄る客の殆どが常連の顔見知り。毎日足を運ぶ私などはその筆頭だろう。

 「いつも朝の十時半位にはもう来ているだろう。今日は一時間も遅かったからね。珍しく寝坊でもしたのかと、文子と数守君と話をしていたのだよ」

確かにカウンター席には、はす向かいの派出所の警官、吉野数守が座っていた。彼も毎日「ルージュ」に顔を出す人だが、居座っているのは珍しい。巡邏の途中ではないのだろうか。

 「吉野君、巡察の途中じゃないのか。それともサボタージュかい」

私はカウンターの上にいつもの仕事道具、といっても原稿用紙の束と万年筆だ、を置き吉野君の隣の席へと腰を下ろす。

「いや、おはようございます。速水せんせ。僕はサボっている訳じゃありませんよ。丁度昼食を食べに来たんです。昼時でしょう。宣せの方だって、いつもより遅い時間に登場じゃないですか。サボタージュでしょう」

吉野君はニコニコと笑って、私に席を譲ろうとしたがそれをやんわりと断る。私がいつも座っている席に彼が座っていためだが、座る場所が隣に変わったとしても私の作業には支障はない。この狭い店内でテーブル席を占領しようとは思わないけれども。

 「その速水せんせっていう呼称は止めてくれないかな。前々から思っていたんだけれども、やっぱり呼ばれなれていないとどうにもね。今のところ雑誌の編集者だって、担当だって都筑さんだもの。せんせって呼ばれるのはそれこそきちんとしたものを書いている先生方に申し訳なくてね」

「いや、速水せんせは速水せんせですよ。ちゃんと作家活動を行い本まで出版されてるじゃないですか。それに僕の知っている人で他に先生って呼べる人はいやしませんよ。そりゃ芥川先生やら川端先生方とお会いすれば先生とは呼びましょうが、お会いする機会がない。だから今のところせんせと呼べるの速水せんせだけなんですよ」

 吉野君は警官の癖によく分らない屁理屈を言う。私は「せんせ」という敬称を外してもらいたいというだけなのに、どうやらその気持ちは汲んではもらえないようだ。

「もう仕方がないから諦めたまえよ、成美君。どうも彼の中では君はお偉い先生のようだからね。それに折角ペンネームがあるのだから、数守君くらいに呼ばれたほうが良いのさ。そのうち自分でも忘れてしまうかもしれないよ」

雄さんはそう囃し立てる。

 「いくらなんでも自分でつけたペンネームを忘れたりするものですか」

「それならば良いじゃないか。君が速水八角であることはかわらないのだから。・・・それで、逸れは良いとして今日はまたなんで遅くなっただい。数守君の言うとおりサボタージュかな」

「雄史さん、吉野さん、二人してサボタージュだなんて失礼ですわ。都筑さんにも毎日ここにいらっしゃる前に用事くらいありましょう」

文子さんはそんな二人を優しくたしなめてくれた。

「文子さんだけが私の味方ですよ。人がまるでいつもここに時間潰しにでもきているとくらいにしか思ってくれないんです。因みに今 朝は朝から曇っていない快晴でしたからね。溜まっていた洗濯物を全部干してきたんですよ。残念ですが私には文子さんみたいに綺麗で素敵な女性がいないので」

「あら、都筑さんたらお口がお上手ですわね。居はくるみのケーキが上手く焼けましたの。是非食べてみてくださいな」

「胡桃のケーキですか。是非いただきます」

 文子さんの作る菓子はどれもとても美味しい。それに私は甘いものに目がない。酒が弱いという事もある。

 「なんだ、単に洗濯をしてきただけですか」

「吉野君、面白くなさそうだね」

私がジロリと彼を見やると、彼は大げさに首を左右に振った。

「そんなことはありませんよ。さて、僕もそろそろ派出所に戻らないと。それこそ速水せんせではありませんが、サボタージュとでも思われかねませんからねぇ」

そんなあまりに警察官らしくない台詞を言うと、文子さんに食事代を払い、「それでは何かありましたら呼びに来てください」と言い残し頭を下げて出て行った。

「警察官にはあまり世話になりたくはないな」と雄さんが最もな事を言い、「吉野さんがいらっしゃるから町内が平和なんです」と文子さんが切り捨てる。実は雄さんよりも文子さんのほうが二つ三つ年上なのだ。姉さん女房には、雄さんも頭が上がらない。

 ようやくきちんと席に腰を落ち着けられた私は、改めて店内を見渡した。

「彼女を探しているのかい」

雄さんがぼそりと私の耳元に囁く。思わずテノールの美声に肩を震わせた。

「な・・・いきなり何ですか。驚くじゃありませんか」

「いや、君にも春が来たのかと」

何が面白いのか彼はニヤニヤと笑っている。手はそれでもいつものように隙を作らず、珈琲をカップに注いでいた。

「何か勘違いをしていませんか。私は別に」

カップを私の前に置きながら、「俺が気づかないとでも思っているのかい」と雄さんは笑う。そして小声で。

「君は一週間前から毎日ずっと、店に入って直ぐに奥のテーブル席を確認するじゃないか。それはあの水色のワンピースを着た彼女が来ていないかを確認しているに違いない。しかし残念ながらあの日以来、君も知っている通り彼女はここへは来ていない。そうだろう」

「私はそんなつもりじゃないです。ただ他にお客さんは・・・」

「いないよ。毎日こんな刻限にこの店に現れるのは君みたいな自由業をやっている連中か、近所の引退した仙人たちかな。それ以外の連中は真っ当に働いて汗を流している。あの警官の数守君のようにね。今日だって彼はたまたま奥方が弁当を作ってくれなかったという

ハプニングから、昼食を食べに来ただけに過ぎない。それに大体において毎日ここへ顔を出している君がそんな単純なことに気づかないわけもない。ちょっと考えてみればわかることだからね」

 ごもっとも。

こんな刻限なら学生でさえ自分たちの本分である学業に専念しているはずである。お互い黙り込んでいる間に「ボーンボーン」と振り子の時計が鳴ると、そのままオルゴール音に変わった。

「雄史さん、また都筑さんにことを虐めていらっしゃるの。ごめんささいね。この人、好きな相手を虐めたがる傾向があるみたいなの。さ、気にしないでケーキでも食べてちょうだい。ちょっとブランデーを入れてあるんだけれど、大丈夫だと思いますから」

「いただきます」

私は目の前に置かれたケーキにぱくついた。

「文子さん、とっても美味しいです。ほのかにブランデーの味がしますが、その風味があるからくるみがより香ばしく感じます」

 正直に言った。やはり文子さんの作る菓子は絶品だ。勿論料理のほうも美味しい。私は何度か雄さんと文子さんに夕食を誘われたが、今までに一回も失敗したと思ったことはなかった。雄さんが酒好きなので何かしらのお酒を持参するが、それに合うつまみを文子さんが作ってくれる。

「そうおっしゃっていただけると作る甲斐があるわ。雄史さんたらお酒は笊なのに甘いものはからきし駄目なんですもの。何を食べさせても甘いって一言しか言わないから、都筑さんがそう感想を言ってくれると参考になるわ。たくさん作ってあるから、帰りに持ち帰ってくださいね」

雄さんは相当の酒豪である。だから甘いものは苦手なのだ。私は全くその逆で、酒がぜんぜん飲めない代わりに甘いものはいくつも食べられる。しかし酒は少しで顔が真っ赤になってしまう。文子さんも意外とお酒も強い。

 それからしばらくして、私は自分の世界へと没頭した。振り子時計のカチカチというリズム音と、蓄音機から流れてくるクラシック。私が執筆を行う際、何か音楽なり何なりの音があった方が効率よく作業が進む。逆に無音の中だとちょっとした音が気になってしまって進まない。

 どれくらいの時間が経っただろうか。気づけば太陽はだいぶ傾いたようで、薄い陽光が店内を満たしている。数人の常連客の顔見知りと挨拶を交わしたが、彼らも私の仕事を知っているので気を利かせて長時間居座るものはいなかった。

もしくは戦後復興のこの忙しい最中で、彼らもまた喫茶店でゆっくりと時間を過ごすことも出来ないのかもしれない。

 「いらっしゃいませ」

随分久しぶりに文子さんの声を聞いたような気がした。それに気づいて顔を上げてみると、そこにはかの水色のワンピースをまとっていた彼女が立っていた。

今日の装いは白いブラウスと茶色のフレアスカート。しかし彼女が手荷物鞄は前回と同じもので、席も文子さんが前回と同じ席に案内していた。

 「紅茶を一つお願いします」

デジャブのようにあの鈴の音のような声がその美しい薔薇のような口からこぼれた。そうして彼女は私が前回見たとおりに、革のカバーの付いた手帳を開き万年筆で何かを書き込んでいっている。思わずぼうっと見とれてしまっていて、雄さんに話しかけられてドキっとした。

 「先週来た彼女だね」

「そうですね」

月並みな返事をしていたが、そんなことには気にならなかった。前回初めて彼女を見た私はドギマギしてまるで不審者のようになってしまっていたので、それを気をつけて今回は慎重に観察してみた。

彼女の慎重派文子さんより少しだけ低い。それは靴の高さから見ても分る。体も全てのパーツが小さく出来ていて、瞳だけが二重で大きかった。

 「やっぱり彼女のことが気になってしかたがないようだね。成美君」

雄さんは彼女の頼んだ紅茶を文子さんに私、私の空いたカップに珈琲を注ぐ。

「気になるっていいますか・・・まあ、正直にいってしまえば気になります。何がどうと問われても困るんですが、なんとなく彼女の存在が・・・」

「それは彼女が店に入ってきたとたんに、周りのことが気にならなくなるような気がするからかしら」

カウンターに戻ってきた文子さんが問うのに、暫く黙り込んでしまった。黙り込む私に二人は笑い、「それは恋だね」と言った。

 「恋ですか」

懐かしい響きだ。何年も忘れていたフレーズである。何せこれまでは何でもお国のためにと捨ててきた時代だったから、それこそ自分のことなど後回しだったのだ。

私は前述したとおり学生であったが、学徒出陣の行進に参加しその後そのまま海軍に所属した。けれども幸いにして内地の予備隊の練習生のうちに終戦を迎えた。私の二期上の仲間は沖縄の海へ特別攻撃飛行隊として散ってしまったが、戦争がもっと長引いていたら私も同じ道を辿っていただろう。

 終戦直後こそ随分と混乱の状況が続いていたが、GHQの介入で色々なものが変わった。

とにもかくにも命を拾った私は、横浜の実家に戻ったが、家と写真屋をしていた店は空襲にやられていた。つい数年前に再建し、次兄が店を継ぎ営業している。一番上の兄は戦地で戦死してしまった。因みに私は三人兄弟の末っ子で、一つ上に他家に嫁いでいる姉がいる。

 「恋ですか・・・いや、ありえないような気もします。恋なんて」

「ありえないなんて事はないよ。君だってれっきとした健康的な成人男子だ。恋をして、人を愛して結婚して、子供を成す。そんな当たり前の人生を送っても誰にも負い目を感じなくても良いはずだよ。君の過去に何があったのだとしてもね」

雄さんには戦時中の自分のことを話していった。自分が先に逝った仲間に対して負い目を感じずにはいられないことを彼は知っている。

「戦争は君のせいで起きたわけでもない。とうてい君の肩に背負い込むなんて無理という事さ。東京裁判にでも出頭する訳でもあるまいし。気は自分の責務を果たしたんだからね」

「分ってはいるんです。先に死んだ人間の全部を背負い込むことなんて不可能だしおこがましい。ただ私は自分で納得するための言い訳が欲しいだけなんですよ」

「それが人間ってものさ。誰でも強いわけではない。そうじゃないか」

雄さんは私が欲する言葉をストレートにくれる。私がその言葉に何度も励まされているし、助けられてもいる。

「人間ってものは欲まみれで出来ている。そう思えて仕方ないんです。自分の思うようにならなければ強攻策に出る。そういう欲にまみれた生き物だから、私は多少なりとも嫌悪を抱いているのかもしれません」

「だからソレが人間だよ。それが普通なものだよ。そのことは君自身が一番知っているし、自覚もしているだろう。だったらそれはそれで良いじゃないか。そういうものだ」

「ありがとうございます」

雄さんは少し得意げに笑う。その表情は男前過ぎて私には羨ましく感じられた。

「そうだ、成美君。あそこの彼女のことでお客さんからちょっと漏れ聞こえたものを知っているかい」

「彼女についてですか、知りません」

「どこかのお嬢様だってね。本当のことはどうかわからないけれども。君も気になるところかな」

雄さんはうっそりと笑い、「おかわりはいるかい」とカップを示した。


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