1章 まだあげ初めし前髪の
古典的とまではいきませんが、戦後すぐを想定したモダンな話として執筆してます。
流行語等の言動は出来る限り登場人物には「話させない」ように気をつけてますが、お気づきの点があればご感想等お待ちしてます。
彼女はただただ、少し哀しみを湛えた瞳でほんのりと笑った。それは若しかしたら私の勘違いであったのかもしれない。
しかしそれでも私には確かに彼女は微笑んだのだと思えたのだ。
小説家には曜日なんていうものは必要ないのではないか。ただ毎日が新しい何らかの物や事を発見、または感じられる事が出来ればそれで幸せだ。
そう思っているのは私だけだろうか。
ただその月の何日に原稿の締切日があって、何日に原稿料が手渡され、何日に自分の執筆した作品が掲載される雑誌が発売されるか。それに尽きると思う。
たとえ今日が一週間のうちの何曜日か名度とは問題ではない。月曜日だろうが火曜日だろうが、私の行う作業は毎朝毎夕で変わりはせず同じ事を繰り返すのだ。
ただ毎日が同じように流れていく中で、ちょっとした、季節や天候かなんかの変化や何気ない雑談のひと時が私にとっては幸せだったりもするのだ。
ここまで書いていて私がそれこそどこかの大寺院か何かの高僧の如くのように、何かしらの『悟り』を開いているのかという事は全くない。『悟り』など私には見出せはしないし、見出したいとも思えない。
ただ独りの人間として、ふとそのような事を思っただけに過ぎず、若しかしたならば今思っている此の事ですらもう幾分かすれば忘れているに違いない。それでも今はただ、そう感じた自分がいたという事が分っただけでも良いのだ。
前振りがやたらと長くなったことをお詫びしよう。自分でも私自身がとても面倒な性格をしていると思うが、私の事を知ってもらいたいと思うと簡単には言い表せられないということだ。
つまり、短くまとめてしまえば私という人間はとても偏屈で変人とでも言ったら良いだろうか。そういう事なのである。
「成美君。聞いているかい」
はたと気がつけばどうやら私は目の前にいる人間の事でさえ、頭の中から一時的にすっぱりと消し去ってしまっていたらしい。カウンター越しに反対側に立っている彼は、珈琲用のカップを磨く手を休ませないまま、きょとんとした目で見つめ返している。
私は、あぁ、またやってしまったなぁ等と思いながら「何の話をしていましたか」と呟いた。
私の思考が会話の最中でさえどこか別の空間へといってしまう事、それまで話していた話とは全く関係のない事項を考えてしまうことは良くあることだった。実家に居住していた時分はそれこそ毎日のように兄や家族に注意を受けていたこともあったが、一人で独立してからは誰からも指摘はされない。しかしまま、こういう事は良くある事で良く相手を困らせる事も少なからずある。
「別段特別な話などはしていやしなかったけどね。また君が羽根を背負って何処かへ飛んでしまっていたから、現世に戻って欲しかっただけだよ。成美君」
口元に苦笑を浮かべた彼は、新たなカップへと手を伸ばす。カウンターの中でカップを磨くこの彼は、この喫茶店のマスター兼オーナーで、私の大学時代の先輩にもあたる友人だ。
彼の名前を奥平雄史という。旧公家か何かの血縁で彼はその何代目かの末裔にあたるそうである。しかし彼は次男坊だったので実家の家督は長兄が継いでいたために、上野の駅付近に気ままな喫茶店を開いてしまった。
奥平の人間は旧家の人間が商いなどということを良くは思わずに、親族の系列に養子として婿へ入れる腹積もりであったらしいのだが彼は断固としてそれを拒んだ。
そして彼が学生時代からお付き合いをしていた女性と婚姻をし、晴れて二人で切り盛りしているのがこの喫茶「ルージュ」である。
元々は古い酒屋の蔵であったらしいのだが、戦中の空襲で母屋などは焼けてしまい空襲の後に残ったのがこの建物であったらしい。その建物を買い取り、新たに改装を加えて建てたのである。
店内は二十坪にも満たないが、二人で切り盛りをするからそこまで広い必要もなかったし、収入も二人で暮らしていければ良いという慎ましいものだ。訪れる客も常連が数人いるくらいで、毎日通っている私でさえ一見さんと遭遇する事は極稀である。それと打って変わって毎日合わせる顔もあるが。
それはこの喫茶店「ルージュ」のはす向かいにある派出所の警察官で、吉野数守という青年である。少しひょうきんな面もあるが基本的には真面目な男で、毎日の巡察の順路にこの店が含まれているらしい。そのためか一日に一度必ずといって良いほど顔を出す。そして「何か変わった事でもないか」と声を掛けていくのだが、彼の大柄の姿は目立つのですぐに店の入り口で気づく。今日も今さっき「今日はどうですか」と顔を覗かせていったばかりだった。
「すみませんね。暫し考え事をしていただけだったのですが、それだけでも注意を受けるとは思っていませんでしたよ」
私がそう受け応えをすると、彼は二つ目のカップを片付けながら、さも驚いたというように笑った。
「考え事だったのか。てっきり文子のクッキーが美味しすぎて感動をしていたのかとばかり思っていたよ」
「確かに雄さんが絶賛する通り文子さんの手作りクッキーは美味しいですが、それとはまた違う事を考えていました」
文子さんとは奥平雄史が長年心から愛してやまない彼の細君である。因みに私は独り身なのでたまに細君を持つ彼の事を羨ましく思う。
「都筑さん、そんなお世辞をおっしゃらないでくださいな」
そう話に入ってきたのはその文子さんである。出過ぎることもなく奥ゆかしさを兼ね備えた彼女もまた、旦那同様に旧家の出身らしい。
「いえ、お世辞ではないです。雄さんの言うとおりこのクッキーはとても美味しいです」
「それなら良かったわ」
文子さんは「ふふ」と笑みを浮かべながら奥へと引っ込んでしまった。きっと店でかける蓄音機用のレコードを選びに行ったのだろうと検討をつける。そうしてから冷めてしまった珈琲カップに私は口をつけた。
「そういえば成美君が今度書いている小説はどんな内容なんだ」
「まだ外枠しか決まっていない中身もないものですよ。少なくとも雄さんが好みそうなポルノのような類のものではありませんね」
私は奥平雄史のことを「雄さん」と呼称させてもらっている。東京帝国大学校時代からのもので、彼が私のことを「成美君」と下の名前で呼ぶことにも既に慣れてしまっていた。彼は私と初対面のときに「都筑君」と呼ぶと舌を噛んでしまいそうだからという理由により、私のことを「成美君」と呼んでいる。その代わり「奥平さん」等と堅苦しい苗字で呼ぶのは止してくれということで、「雄さん」と呼ばざるをえなくなってしまった。文子さんが「雄史さん」と呼称するため「雄史さん」とは呼び難かったからという点もあるが。
「ポルノだなんて俺は全くそういう類のものに興味なんてないね。愛する妻だけで十分だ」
この奥平という人物は本当に細君を心から愛しているため、いつでもそういった歯の浮きそうな浪漫チックな台詞が出てくる。残念ながら私には全くそういったような、女性に有効的な浪漫チックな言語能力は欠如してしまっているらしく、考えが浮かんでこない。浮かんでこないから口をついて出てもこない。
だから未だに私には連れもおらず恋人でさえいないのだ。それでも親戚たちからはひっきりなしに見合いの話があるにはある。しかし「後は若い人同士で」という時になって緊張して自分でも何を言っているのか分らなくなってしまうのだから性質が悪い。しまいには兄でさえ私に結婚の話を持ち出すのを近頃では止めてしまった。
それが何故文子さんとは話しても大丈夫なのかといえば、慣れてしまったとしか分析できない。友人の妻女という事も一因だろう。
ただ述べさせてもらえれば、独身の若き乙女と二人きりになると極度に緊張をしてしまうということだけであって、女性に興味がないとか、対人恐怖症であるという事ではない。慣れてしまえば平気なはずである。
因みに軍に所属していた時代は同期と共に遊郭へ繰り出したこともあるし、経験が何もないという事ではない。しかし遊郭の女性と一般の淑女とは異なるだろう。
これまで全く私の名前も告げることもないまま紙面を無駄にしてしまった。
私の名前は都筑成美という。
冒頭に書いた通りに私は小説家の端くれだ。売れているか売れていないかといえば中途半端で、とりあえず食っていくに困らない程度に売れているといった程度である。
たまに月刊誌に読み切りの短編の投稿をし、極短期間の連載も書いたことはある。それでも売れてはいないが、生活に困ることもない。売れないと断言も出来ないし、数冊の単行本を出させて貰っているのだから読者もいることにはいる。そんな具合である。
そして話はようやく元に戻り、奥平氏の発言である。
「今度はどんな内容かと問われても、説明をするのは少し難しいですよ。純文学というか不条理小説というか・・・とにかくふと頭に浮かんだだけの内容を形作ろうとしているんです。ノスタルジーでもないし」
「そうか。まぁ、君の書く本はいつも何か何処かの螺子が飛んでしまっているようなところがあるからね。今流行りの探偵小説とかを書けば良いのに」
「螺子が飛んでしまっているなんて酷い言い様ですね。大体探偵小説なんて書けませんよ。あぁいうのは頭が良い人間が書くものです」
「頭が良い人間だって。君とて東京帝国大学校のそれこそ文学部出身だろうに。それに螺子が飛んでいるのは本当のことだろう。前は嘘を吐くと死んでしまう少年か何かの話だったではなかったかな。確か。その前まではちょっと覚えていないけれどもね」
「まぁ、そんな話ですよ。誰に評価を受けても良くわからないというような内容です」
「君は感受性が高いだけだと思うけどね」
雄さんは偶にこうして私のことを弄りながらも慰めてくれることがある。顔が格好良いだけに様になる。
私はというと他人からは良く柴犬のような顔をしていると言われる。ひょうきんで可愛げのある顔なのだろうと自分自身では楽観的に考えるようにしている。目がクリクリと顔全体に比べて大きく出来ているようだ。
確かに私が今までに書き殴ってきた散文を省みたとき、どこか突飛というか掴みどころの無い内容であることは間違いない。それを指摘されたのだ。
「また話が飛んでしまったな。それで結局、どんな内容なんだい」
彼は私の空いたカップに新しく温かい珈琲を注いでくれた。その間に文子さんは蓄音機にかかっていたレコードを、落ち着いた低音のものへ針を落としなおした。
「私が今執筆中のものも、今までに似たような類のものですよ。一人の女性が自身の生き方に迷い模索するというような」
「おや、君にしてはまたポジティヴィティな中身じゃないか」
「放っておいてください。私とて常日頃からネガティブな事を考えている訳ではありませんよ」
その時である。
「いらっしゃいませ」
文子さんが一人の女性を店内に招き入れたので、反射的にそちらを見てしまった。そこには二十代ほどの水色のワンピースを着用した女性が立っていて、店内に二つしかないテーブル席の一つに腰を落ち着けるところだった。
そして私が感じた印象通りの、鈴の音のような美しい声音で「紅茶を一つお願いします」と注文を告げた。
私は思わず自分自身でも気づいていない間に息を呑んでいたようだ。それこそ私の小説の中に登場させてみたいような、理想の女性像があったからに他ならない。彼女は何処か儚げで目を閉じてしまったら、掻き消えてしまうのではないかという感じがした。
しかしそれはあくまでも私の錯覚であり、彼女は目の前から消えることはなかったのだが。
それから彼女は肩から掛けていたショルダータイプの革の鞄から、革製のカバーのついた手帳と万年筆を取り出した。女性では普段から手帳と万年筆を持ち歩く人は少なく見掛けない。その為暫くの間見とれてしまっていた。
「おい、成美君いくら君が人間観察を趣味にしていても良いだろうが、女性をそうジロジロと眺めるものではないよ」
雄さんはやはり先輩らしく諭したが、直ぐには目を離すことが出来なかった。
「すみません。なんだか・・・まるで今の私は初恋で一目惚れでもしてしまった子供のようだ。・・・彼女は今日が初めてのお客さんですよね」
「君とて毎日ここへご苦労にも足を運んでいるのだから知っているとは思っていたが、今日が初めてのお客様だよ」
「あぁ・・・やっぱり」
何が「やっぱり」なのか、さっぱり自分でも分らなかったけれども自然と口から出ていた。
「美しい人ですね」
「ああ、そうだな。しかし君との付き合いはそれなりに長かったと思っていたが、俺にもわからない事が生じる事もあるものだ。一目惚れでもしたのかい。年甲斐もなくとは言わないが、初めて今のような君を見たよ」
雄さんはそう囃し立てつつ、丁寧に彼女が注文をした紅茶を淹れた。文子さんがすかさずそれを運んでいく。
「馬鹿を言っちゃいけませんよ。ただ私は美しい人だと思って見惚れてしまっていただけなんです。それにああやって手帳を持ち歩く習慣を持つ女性を見たことがありませんでしたからね」
「新聞社の記者か何かが職業なのかもしれないよ。近頃では女性の社会進出は目覚しいし当たり前になりつつある」
そう言うと雄さんは口元にはやしてる無精髭を撫でた。
「新聞記者には見えませんよ。写真機も何も持っていませんし、ワンピースの女性が社会で活動していますか。どちらかといえば文子さんのように良家のご息女といった風ではありませんか」
「それは君の言うとおりかな。確かにワンピースの新聞記者はいないだろう。しかし何かしらの文字を手帳に書き込んでいるようだよ」、
私が再び後ろを振り返ると丁度、ペンを置き、顔を上げた彼女と目が合ってしまった。瞳だけで彼女は微笑んだので、私の心臓はドキリと音を立て高鳴り自分の執筆作業など手付かずになってしまった。
「目が合ってしまいました。変な人間に思われたかもしれません」
カウンターに置いてある水の入ったピッチャーからグラスへ水を注ぎ飲み下した。
「そんなに不審な行動したわけでもないのだから、しっかりしたまえよ。大体において目が合っただけで不審と思う人なんてそうそういないから安心しないか」
「そうですかね」
「そうだろう。それで不審者だったら、それこそ殆どの人間が不審者扱いだ」
冷静になって考えてみれば雄さんの言う事は最もなことだ。どんな人間でも官憲に不審者として逮捕される時代は終焉を迎えて久しい。
「そうですね。でも何だか書き物が出来る心境ではなくなってしまいましたよ」
そう告げると雄さんは若干にも、やはり驚いていた。しかし私の心のうちの動揺など誰にも分りはしないのだ。
「そうかい。ならば今日のところは一旦中断したらどうなんだい。別にその原稿は急ぎというわけでもないのだろう。それにたまには友人として話をして過ごすのも悪くはないだろし、文子も君とゆるりと話もしたいだろうね」
そうしてから「ここだけの話だが、文子は学生時代、君に憧れを抱いていたらしいのだよ。まぁ、君は全く気づいていなかったようだがね」と付け足した。小さな声で言ったつもりのようだが、所詮は十席程しかない狭い店内のことだ。文子さんに聞こえなかったはずがない。
「あら、雄史さん、嫌ですわ。そんな一昔も前の話を持ち出したりなんかしたら、恥ずかしいじゃありませんか。確かに私は都筑さんの論文に憧れておりましたけれど、ご本人の前でばらす事はないではありませんこと」
「確かに本人の前でばらされるのは恥ずかしかったかい。すまなかったね、文子」
「もう言ってしまった事は仕方ありません。それに都筑さん、今あなたが執筆されている小説も私は好きですからね。それはお忘れなく」
「すみませんね。気を遣わせてしまって、どうも」
なんだかふとした事で褒められてしまい、背中がむず痒くなってしまった。人に褒められること自体に慣れていないのだ。
正反対に虐げられることには慣れきってしまっている身体である。それこそ軍時代は上官から何度も拳を上げられていたものだ。
「どうにも腰を落ち着けていられない気分ですよ。なんだかソワソワしてしまって。今日のところは折角ですがお暇させていただきます。また明日、日を改めて来ます」
「お勘定は・・・」と尋ねれば、「月末で懐が寂しいだろうからつけにしておくよ」と言われてしまった。正直ありがたい。雄さんの言うとおり懐具合は良くないのだ。一人暮らしとはいえ。
「ではまた明日いらっしゃって下さいね。何か美味しい菓子でも用意しておきますわ」
文子さんの声を背に、私は喫茶「ルージュ」のドアを押し開いたのだった―。