覚悟
「これを持っていろ」
地下駐車場に出る鉄扉の前で樹が差し出したのは、長さ二十センチ、直径五センチほどの懐中電灯のような代物だった。ただし、どちらの端にも電球は付いていないけれども。
「何、これ?」
受け取りながら、明日菜は首を傾げた。
樹は続いてバックパックを漁りながら答える。
「スタンガンだ」
取り出したものを小脇に挟んで、彼は棒の一方を指差し、次いで側面についているスウィッチを示す。
「ここを相手に押し付けながら、このスウィッチを押すんだ。『新生者』でも三秒で失神する。かなり強力だから、絶対に自分には当てるな」
そう説き、明日菜の目をしっかりと覗き込んでくる。
「使う必要があるときには躊躇うな。死にはしない。意識を失うだけだ」
「……判った」
明日菜が深く頷くのを待って、樹はバックパックを背負い直して脇に挟んでいた得物を右手に持ち替える。それは、余裕で刃渡り三十センチ以上はありそうで、テレビで見たことのある鉈に似ていた。ただ、鉈は刃の部分が長方形だったと思うけれど、彼が持っているのは刃の部分が曲線を描いていて、大きなナイフ、というふうにも見える。
明日菜の目がそれに釘付けになっていると、その視線に気付いた樹は手を下ろして自分の身体の陰に隠した。
「車の位置とどの車かは覚えているな?」
彼の確認の言葉に我に返って、明日菜は頷いた。
「非常階段を出て左側、十台目。黒のデカくてゴツいやつ」
「最悪、どれでもいい。囲まれたら手近な物に乗れ」
「うん」
肩を強張らせ手にしたスタンガンをグッと握り締めた明日菜に、樹は束の間ためらう素振りを見せた後、空いている方の手をポンと彼女の頭の上に置いた。
「気張り過ぎるな。緊張すると動けなくなる」
「そう言われたって、怖いし緊張しまくりだよ」
ムッと唇を尖らせてそう反論すると、彼は微かに唇を歪ませた。
「言い返せるなら大丈夫だ」
そしてまた、いつもの厳しい顔つきになる。
「何があっても、俺がお前をここから出す」
その眼差しはこの上なく真剣で、確たる力を持っている。明日菜は、その言葉を信じた。
樹はクシャリと彼女の髪をかき混ぜてから手を放し、扉のノブを握る。数呼吸分ほど息をひそめてその向こうの気配を探ると、音を立てずに押し開いた。
「迷わず、走れ」
そう囁いて、彼が駐車場に出る。と思ったら、即座にコンクリートの床を蹴って走り出した。
左ではなく、右側へ。
すぐに彼に続いた明日菜の耳に、獣じみた咆哮が届く。
「ぐがぁ!」
思わずそちらに目が吸い寄せられ、五メートルほど離れたところに三体の『新生者』が見えた。
「行け! 車の後ろ側に回れ!」
叱咤され、明日菜はハッと息を呑む。
彼の声に横面を叩かれたかのようにビクンと肩を跳ねさせ、次の瞬間走り出した。その視界の片隅を、樹が振るう刃の閃光がかすめる。
「ぎゃ!」
一瞬にして、樹の間近にいた一体の首が落ち、彼に掴みかかろうとした他の一体の腕が飛んだのが、見えた。
明日菜は頭を下げて車の陰に隠れながら壁際を走る。
もう、樹の姿は見えない。けれど声だけは聞こえてきて、明らかに襲撃者の数が増えていることが判った。獣じみた断末魔の声が間断なく駐車場の中に反響する。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫)
呪文のように口の中で呟きながら、明日菜は通り過ぎる車の数を数える。
三台目、五台目、七台目。
樹が言っていた『黒くてデカくてゴツい』車が見えた。
日本車だから、ハンドルは右側だ。
壁際から、車と車の隙間に走り込む。
と。
目指した車の真ん前に、一体の『新生者』。
男だ。三十かそこらの、男だったモノ、だ。
明日菜が思わず立ち止まるのと、それが彼女に目を向けるのとは、ほぼ同時だった。
「ぎ、が!」
構わず動いていれば、車に乗り込めていただろう。けれど一瞬真っ白になった明日菜の頭の中からは、車の万能キーのことなど、完全に消え失せていた。
カッと目を見開いて飛び掛かってきた『新生者』に、明日菜はとっさに手にしていた物を突き付ける。グッと押されそうになり、反射的にスウィッチを押していた。
「ぐ、ぎ、ぎ、ぎぎゃッ」
『新生者』に密着したところで青白い火花が散り、バチバチと何かが爆ぜるような音がする。『新生者』は悲鳴と共に激しく全身を跳ねさせ、数秒で昏倒した。床に倒れた後も、ビクンビクンと四肢を痙攣させている。
それに目を奪われたまま、明日菜はポケットに入れてあるキーを探った。スウィッチを押すと、左右の車から同時にカチリとロックが外れる音がする。
明日菜はドアを開け、江藤家の車よりも遥かに高い座席によじ登った。
ドアを閉めて、ようやく一息つく。
車高が高いせいか、見晴らしが良い。
明日菜が首を巡らせ非常階段の方へと目をやると、五、六体ほどの『新生者』がいた。
群がってくる彼らを前にして、樹は無駄のない動きで腕を振るっている。彼の狙いは的確で、一閃するたびに一体、また一体と『新生者』がくずおれていく。
ヒトの身体には骨という硬いものがあるはずなのに、樹の動きは滑らかで、まるでぬいぐるみか何かを切り裂いているようだ。
危なげなく次々と『新生者』を斃していく樹に、明日菜はホッと肩を撫で下ろした。
この調子なら、もうじき彼もここに辿り着く。
そう思った時だった。
「があああ!」
また新たな怒号が、響き渡る。
ハッと目を巡らせると、どこから湧き出したのか、新たに三体の『新生者』がわらわらと樹の方に向かっていくのが見えた。
きりがない。
樹の動きに疲れの気配は全く窺えないけれども、彼だって人間だ。そのうち力尽きてしまう。
(どうしよう)
樹は明日菜の為に闘っているのに、自分はこのままここで待っているだけでいいのだろうか。
彼女はスタンガンを握り締める。
これで加勢に行くか。
(でも、あたしなんか、邪魔になるだけだ)
威力は確かだけれども、たぶん速攻で喰い殺されてしまうだろう。
じゃあ、どうする。ただひたすら、このまま彼を待つのか。
待つだけで、いいのか。
窓の外へと目をやれば、樹の周りにはまだ数体の『新生者』がおり、彼の向こうの車の陰から、また二体、姿を現した。
樹は、明日菜の為に命を懸けている。
きっと、彼一人ならいくらでも逃げられるのに、明日菜を守る為にここにとどまっているのだ。
(あたしも、動かなくちゃ)
彼が明日菜を守る為に闘うというのならば、明日菜も彼の為に何かをしなければ。
何かを――何を?
明日菜は、奥歯を噛み締める。
この身体は、役に立たない。
じゃあ、何ができるのか。
明日菜は目の前のハンドルをジッと見つめた。そして、左にある、ギアを。
車の動かし方は、昨晩のうちに教えられていた。オートマチックなら、遊園地のゴーカートと大差がないから、と。
(左側にあるブレーキを踏んで、ハンドルの横のスウィッチを押して、エンジンが掛かったらブレーキを踏んだままギアをDに動かして、ハンドブレーキを外して、右のアクセルを踏んで……)
明日菜は教わった手順を反芻する。
大丈夫、いけそうだ。
彼女は深呼吸をしてブレーキを踏み締めた。
スウィッチを押す。
車が振動し、低く唸る声を上げた。明日菜のうちのものよりも、重い音に聞こえる。
ギアをPからDに動かす。スムーズに動いた。
ハンドブレーキを解除する。しようとした、けれど、思ったよりも硬い。
一瞬パニックになりかけたけれども、力いっぱいボタンを押し込んだら、動いた。
そっとブレーキから足を浮かすと、そろそろと車が動き出す。ハンドルを回すと、タイヤがキュルキュルと鳴った。その音で、ハッと『新生者』たちの動きが止まる。
とっさに身体を低くして、ドアの陰に隠れた。そのまま天井を見ながらハンドルを回し続ける。
多分、このくらいで真っ直ぐ通路に出られたくらい。
また少し身体を起こして前方に目をやると、樹と五、六体の『新生者』たちが見える。床には、おびただしい死体の数。たぶん、十五はある。
明日菜はしっかりと座席に座り直し、アクセルに足を置く。
そして、グッと踏み込んだ。
車はグンと加速し、背中が座席に押し付けられる。樹たちがどんどん迫ってきて、何かに――たぶん死体に乗り上げて、車がゆさゆさと揺れた。
目の前に、二体の『新生者』。
明日菜はハンドルを握り締める。そして更にアクセルを踏み込んだ。
ドン、ドン、と続けざまに衝突音。それは予想以上に強い反動で、明日菜は反射的にブレーキを踏む。止まる時の勢いも強くて、彼女はハンドルに額を打ち付けた。
その痛みと衝撃に、クラリとする。
ぼうっとした頭に、厳然たる事実がよぎった。
今、自分は人を撥ねたのだ。
実感はないけれど、もしかして、殺した。そうする意志を持って。
亡羊としていると、助手席側の窓にバンと何かがぶち当たる。首が取れそうな勢いで明日菜がそちらを振り向くと、血塗れの男が牙を剥きながら両手を窓に打ち付けている。片方の手はブラブラともげかけているのに、全然痛みなど感じていないかのようだ。
息を呑んでそれを見つめる明日菜のすぐ横、右側で、ガチャリとドアが開く音がする。びくりと首を巡らせると、冷静そのものの樹の眼差しがあった。
「そっちに移れ」
何も特別なことなど起きていないかのような淡々とした口調で言われ、明日菜はわたわたと真ん中の仕切りを乗り越える。
樹が車に乗り込もうとしたところに、また一体、襲い掛かってきた。
「がああ!」
爪を立てて掴みかかろうとしてきた両腕を、樹は振り向きざまに斬り捨てる。バランスを崩したところを蹴り飛ばし、彼は流れるような動きでシートに滑り込んできた。折よく前から突進してきた別の『新生者』がドアにぶち当たり、その勢いでドアが閉まる。
「無事に動かせたな」
まるで初めて自転車に乗った子どもにでも掛けるようなセリフを、樹は口にした。あんなにたくさんと闘っていたはずなのに、彼は息一つ乱していない。緊張している明日菜の方が、よほど荒い息をしているくらいだ。
答えられずにいる明日菜に、樹は軽く片方の眉を持ち上げた。そして片手を伸ばして、またクシャリと彼女の髪を掻き混ぜる。
「よくやった」
短い一言で明日菜を労うと、その手をハンドルに乗せる。
「じゃあ、出発だ」
宣言と共に、車が動き出す。
馬力のあるRV車は、追いすがってくる、あるいは前に立ちはだかる『新生者』たちを、ものともしなかった。
雄叫びが、遠ざかっていく。
完全にそれが消え去って初めて、ようやく明日菜はシートに深々と身を埋めることができた。