そして、新たな旅立ち
樹の治療は、実際には、半年ともう少し時間がかかった。
骨髄移植という処置は、明日菜が考えていたよりも遥かに大変なものだったのだ。
彼は実験室の奥の無菌室に入れられ、髪が抜け落ち、嘔吐に苦しみ、案山子のようにやせ細った。
明日菜はその間毎日面会に行ったけれども、会えるのはいつも硝子越しだった。
無事に治療そのものを乗り越えても、衰えてしまった体力を戻すために、余分に一ヶ月かかった。
そうして冬は丸々通り越し、もう、初夏を迎えようとしている。
でも、出発にはちょうどいい時期なのかもしれない。
「どちらへ行く?」
久しぶりの外の空気を深呼吸で吸い込んでいた明日菜に、すっかり以前の逞しさを取り戻した樹が振り返る。
「訊かれると、決められないなぁ」
高台からぐるりと見渡すと、ここに来るとき、ヘリコプターの窓から見えた枯れた森は、今、青々とした葉を茂らせている。
「あたしは世界を見たい。人間の世界は壊れてしまったかもしれないけれど、全てが壊れたわけじゃない。あたしは見たいよ、色々なことを」
期待で声を弾ませる明日菜を、樹は何か眩しいものでも見るように目を細めて、見下ろしてくる。
「君が望むなら、どこへでも。どこへ向かおうが、俺は君を守る」
生真面目な樹のその台詞に、明日菜は首をかしげるようにして彼を見上げた。
「前にも言ったけど、守ってくれなくていいんだよ。ただ、一緒に行って欲しいだけなの」
そこはちゃんと知っておいて欲しくて、もう何度も繰り返した言葉を明日菜はまた口にする。
樹はそんな彼女をジッと見つめてきた。何かもの言いたげな素振りに、明日菜は眉根を寄せる。
「樹さん?」
彼はしばらくそうしていたけれど、一度ためらうように唇を開け閉じした後、言葉を紡ぐ。
「俺は、一度壊れた」
そう言って、樹は右手を上げ、途中でふと止めてから、人差し指の背でそっと明日菜の頬に触れた。彼の方からそうすることは、滅多にない。
明日菜はドギマギしながら樹を見上げる。
「俺が俺に返れたのは、君のお陰だ」
睫毛を伏せるようにして明日菜を見つめ返してきた樹の声は、深く響いて彼女に届く。
明日菜は微かに感じる樹の指の温もりに気を取られながらも、真っ直ぐに彼を見た。
「だから、あんなに一生懸命守ろうとしてくれたの? 恩を感じたから?」
「恩、とは少し違う。あの時から、君が俺の生きる意味になった」
生きる、意味。
なんて重い言葉だろう。
明日菜には、自分がそれに値するほどのものがあるとは思えなかった。
そんな困惑が目に現れたのだろう、樹は言葉を探るようにしてさらに続ける。
「俺は、俺を取り戻したあと自分が何をしたのか知らされて、絶望した」
「助かって、嬉しくなかったの……?」
てっきり、明日菜の骨髄を移植されて正気を取り戻したことで、彼が『救われた』のだと思っていた。
(でも、そうじゃないの?)
息を詰めて樹を見つめる明日菜に、彼は、は、と小さく嗤った。
「全てを知った俺は、自分が赦せなかった。仲間を殺した俺を、殺したかった」
「治療は、余計なことだった? いらないことだった?」
声が、震えてしまった。
樹は明日菜の頬に指だけ触れさせていた手を開き、もう片方の手も上げて、彼女の顔を包み込む。
「正直、生きたいとは思えなかった。だが、君を守るという使命を与えられて、それが俺を生き永らえさせた」
「あたし、を、守る?」
「ああ。君の写真を見て、その瞬間、俺は君を守るために引き戻されたのだと思った。あるいは、そう思いたかったのかもしれない」
また彼の頬に浮かんだ、自嘲の笑み。
明日菜は手を伸ばしてそれを消してあげたい衝動に駆られる。けれど実際にはそうせずに、問いを重ねた。
「それって、義務感みたいなもの?」
「違う。うまく言えないが、生き続けるための支柱というか……」
樹はかぶりを振ったけれども、やっぱりその根底には恩や義務が根底にある気がする。
「あたしに、縛られる必要はないんだよ? ここに来るまで守ってくれたことで、何ていうか、充分恩は返してもらったっていうか」
おずおずとそう言ってみると、樹の目には苛立ちのようなもどかしさのようなものが浮かんだ。
「違う」
ほんの少しだけ、明日菜の頬を包む樹の手に力がこもったのが感じられた。
「初めのうちは、君はそういう意味で俺にとってなくてはならない存在だった。だが、君と過ごすうちに……」
そこで彼が言い淀む。
「何?」
そっと促す明日菜に、よほど言いにくいことを言おうとしているのか、樹の顎に力がこもる。
「――君と、いたいと思うようになった」
少し早口でそう言った後。
「俺が、君の傍にいたい、と」
もう一度、一言一言を噛み締めるように。
そうして、もう一度。
「義務や恩や、そういうものではなく、俺は、俺の意思で君の傍にいて、君を守っていきたいと思っている。だから、この先も君と共に行かせてほしい」
明日菜は、どう答えていいのか判らなかった。
だから、両腕を広げて渾身の力を込めて大きな身体を抱き締める。
「……明日菜?」
名前を呼ばれて首だけ反らして見上げれば、困惑しきりでどうしたら良いのか解からないとデカデカ書かれた樹の顔があった。彼の両手はとうに明日菜の頬を離れていて、所在投げに宙に浮いている。
そんなところも彼らしくて、明日菜は答えるより先に笑ってしまった。クスクスと笑いながら、また彼の胸に頬を押し付ける。
「明日菜……」
困り切った声。
そろそろ、解放してあげた方がいいのかもしれない。
そう思って、身体を離しかけた時。
「全く、気が利かない男だなぁ、五島君は? そういう時は抱き締め返してやらないと」
明日菜と樹は二人揃ってパッと声の方に振り返る。
そこに立つ人物は、二人と目が合うとヘラッと笑って片手を振ってよこした。
「鹿角、さん?」
どうしてここに彼がいるのか。
ポカンと見つめるしかできない明日菜をよそに、鹿角は身軽く近寄ってくる。その背には、樹が背負っているのと同じ、大きなバックパックがあった。
先に我に返ったのは、樹の方だ。
「何をしに来た?」
いぶかしむ声で尋ねた彼に、鹿角は二ッと笑う。
「オレも行くから」
「は?」
間が抜けた声は明日菜だ。
鹿角は彼女に目を向けると、片手で彼女の髪をグシャグシャと撫で回す。眉間にしわを寄せた樹がその手をはたき落とすと、鹿角はまた人の悪い笑みを浮かべた。
「服部博士の命令でね、五島君一人じゃ心配だから、一緒に行って明日菜ちゃんを守ってやってってさ。あの人、彼女のこと気に入ちゃったみたいで、他の子らよりもちょっとばかし余分に思い入れができちゃったみたいだよ?」
鹿角の助けはありがたいかもしれないけれど、博士の思い入れとやらは、何となく、あまり嬉しくない気がする。
複雑な思いで明日菜がそんなことを考えていると、鹿角が樹の肩にポンと手を置いた。
「それに、五島君も、まだ当分は三人暮らしの方がいいんじゃないの?」
意味ありげにポンポンと肩を叩いてくる鹿角の手を、樹は邪険に振り払う。
能天気な二人の遣り取りは、何だか平和そのものだ。
明日菜は真っ青に晴れ渡る空を見上げる。
果てしなく透き通る青。
プカリと浮かぶ、白い雲。
チチ、と可愛らしい声を残しながらあっという間に消えていく小さな小鳥。
空気を深く吸い込めば、青葉と微かな水の匂い。
世界は壊れてしまったのかもしれないけれど、明日菜が慣れ親しんだ世界はもう二度と戻ってこないのだろうけれども、それでも、やっぱり、歩き続ける価値はあると思う。
特に、一緒に歩いてくれる誰かがいるならば。
「決めた」
一声と共に、明日菜は鹿角を睨む樹と樹に笑みを返している鹿角に向き直る。
「取り敢えず、北! ここまで来たんだから、北の果てに行ってみたい」
その選択に理由も意味も目的もないけれど、明日菜は高らかにそう宣言した。
これにて完結、です。
開始からほぼ丸1年。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。