抗戦
唇を引き結んで立つ明日菜を見返す服部博士の顔からは、完全に表情が消えていた。
それはまるで、ケージの中の実験動物を観察する研究者のようで。
明日菜はそんなふうに感じたけれど、多分、それはまごうことなき真実なのだろう。
無言で明日菜を眺めていた博士は、やがて大きなため息をついた。
「仕方ないなぁ」
ぼそりとこぼれた声。
(解かってくれた……?)
ほんの一瞬、そんな期待が明日菜に走る。
けれど、それはすぐに覆された。
「ちょっと頭を冷やしてもらおうか。一ヶ月もしたらまた考えが変わるでしょ」
そう言って、服部博士は明日菜たちに背を向ける。
「博士!」
呼ばわっても、彼は肩をピクリとさせることすらせず、傭兵たちが作る壁の向こうへ行ってしまった。代わって五人の男が歩みを進める。彼らが手にしているのは、明日菜も世話になったスタンガンだ。
思わず博士を追いかけて数歩進んだ明日菜の肩が、後ろに引かれた。振り返ると、彼女の頭の上を素通りして男たちを見据えた樹の鋭い眼差しがある。
「樹さん」
呟くようにその名を呼んでも、彼の視線は傭兵たちに向けられたままだ。彼の手にだけ力が籠って、明日菜に後ろへ下がるように促している。
確かに、樹は強い。
けれど、五人を相手にするのは無謀過ぎる。
明日菜は、また傭兵たちに目を戻した。その中の一人は、かつて彼女を助けてくれた人だった。今、それを望むのは無理な話だろうか。
迷う明日菜の肩が、また引かれる。
今度はそこに断固とした力が込められていて、明日菜はあらがうこともできずに壁際に追いやられた。背中をピタリと壁につけて、彼女は歩き出した樹を見守る。
男たちに向かっていく樹は、当然丸腰だ。
廊下は大の男が二人並んで通れるくらいで、広くはないから、後ろに回られて四方から取り囲まれるということはないだろう。けれど、それでも、圧倒的に不利なことは素人の明日菜にだって判る。
せめて、あと一人――すがるような思いで明日菜は男たちの中に交じる鹿角を見たけれど、いつもの軽い笑みを消し去った彼が何を考えているのかは、さっぱり読み取ることができなかった。
歩み寄った彼らは、三歩分ほどの距離を残して、足を止める。そこは丁度、先ほど博士が立っていた辺りだった。
樹と男たちが無言で向かい合う。
静寂で息を詰まらせながら、明日菜は彼らを見守る。彼女にできるのは、それしかなかった。
そうして、ついに。
前触れなく、シュッと、空気を切り裂く音が廊下に響く。先に動いたのがどちらだったのか、明日菜には判らなかった。
樹の前には男が二人――その二人から次々と拳や蹴りが繰り出される。絶え間なく襲い来るそれを、樹は巧みに受け流していた。彼らがスタンガンを使おうとしないのは、味方を巻き添えにするのを恐れているからだろうか。
まるで映画のアクションシーンのように、樹は相手の攻撃をかわしている。避けたところに現れる拳も、彼はまるで予期していたかのように易々とやり過ごしていた。
恐れていたほど、劣勢ではないように見える。けれど、それでも、やっぱり多勢に無勢なのか、樹の方からはなかなか手が出ない。
ハラハラしながら見守る明日菜だったが、男の一人からの蹴りに身を捻った樹がふら付くのを目にして、ハッと息を呑んだ。
追い打ちをかけるように、もう一人が拳を突き出す。
けれど。
バキッと、ヒトとヒトとの身体がぶつかり合ったにしては硬質な音が、廊下に響き渡った。けれど、いったい何が起きたのか、崩れ落ちたのは樹ではなく、殴り掛かってきた男の方だ。
樹は前かがみになった男を回し蹴りで叩きのめした。彼は信じられない勢いで壁に叩き付けられ、そのままズルズルと崩れ落ちる。その男には目もくれず、樹は残る四人に対峙していた。すっくと伸ばされたその背中は、何事もなかったかのように泰然としている。
(なんか、勝てそう)
まだ一人しか倒していないけれど、その背中を見ていると樹が負ける気がしなくなってきた。
明日菜の気持ちは浮上したものの、相手も同じように思ったらしい。
何がどうとは言えないけれど、微妙に、空気が変わったように感じられる。
ピリピリと肌に突き刺さってくる緊張感に、明日菜は息を詰めた。
ズイ、と、樹が一歩を踏み出す。その半分だけ、相手は後ずさった。
刹那。
樹の右と左の両方から、同時に拳が襲い掛かる。
直後に彼が崩れ落ちたから、明日菜は彼が殴られたのかと思った。
けれど、違った。
身を下げたと同時に樹は片手を軸に目にも止まらぬ速さで足を薙ぎ払う。無造作な仕草のように見えたのに、見た目以上の力があったのかそれとも当たり所によるものなのか、足をすくわれた男二人は勢いよく倒れた――かのようだったが、即座に体勢を立て直す。けれど、右側にいた男には、身体を起こしきると同時に間髪入れずその顎に樹の拳が叩き込まれた。
その一撃で、男は昏倒する。
が、樹が向き直るわずかな隙に、もう一人の男が彼の脇腹めがけて蹴りを繰り出してきた。
樹の身体が吹き飛び、廊下の壁に叩き付けられる。それを目の当たりにして明日菜は悲鳴を呑み込んだ。思わず駆け寄りかけた彼女に、低いが鋭い声が飛ぶ。
「来るな」
その一声で明日菜を制した樹はゆらりと身を起こし、何事もなかったかのように廊下の真ん中に戻った。派手に飛ばされたようだったのに、ダメージがあるようには見えない。
対して、樹が先ほど叩きのめした男は床に倒れ伏したままピクリともせず、残った男の一人が足で蹴って壁際にやっても全然反応しなかった。
相手は、あと三人。
このままでは勝てそうにないと悟ったのか、そのうちの一人がついにスタンガンを取り出した。
あれが自分が持つ物と同じだとすれば、明日菜も、その威力はとてもよく知っている。彼女はごくりと唾を呑み、腰の後ろに差してある物を握り締めた。
明日菜があの場に足を踏み入れても、きっと邪魔なだけだろう。
(でも……)
自分は、彼に一方的に守られるだけの存在にはなりたくない。
仮に樹が一緒にここを出てくれるとしても、明日菜は、以前のようにただのお荷物ではいたくなかった。
一歩を踏み出そうとした、その時。
樹は動いていなかった――はずだ。にもかかわらず、鈍い打撃音の直後、スタンガンを手にしている方の男が崩れ落ちる。
「え?」
思わずポカンと目を丸くした明日菜と同じように、もう一人の男もそちらを見た。と、すかさず樹が動く。ハッと我に返った男が防御の構えを取りかけたけれども一瞬遅く、気付いた時には彼もまた床に倒れ伏していた。
残っているのは鹿角一人だ。
でも。
(あのスタンガン持った人やっつけたの、鹿角さんだよね?)
明日菜の目がおかしくなっているのでなければ、確かにそうだった。
まじまじと見つめているとそれに気付いた鹿角と目が合って、彼はヒラヒラと手を振ってよこす。その緊張感の欠片もない仕草は、かつて一緒に旅していた頃の彼のものだった。
明日菜の目のせいではなかったらしい。
鹿角が何を考えているのかは今一つ解からないけれど、少なくとも、今は助けてくれるのだと思っていいようだ。
廊下の真ん中に立っているのは樹と鹿角だけで、床に伸びている者たちは呻き声すら上げていない。
(もう近寄ってもいい、よね?)
見たところ、樹にも怪我はないようだ。
ホッと胸を撫で下ろして、明日菜は今度こそ、と彼の下に向かおうとした。
と、その時。
ピー、という、何となく耳慣れた音が。
(何の音?)
立ち止まり、明日菜は首をかしげる。と同時に、カチリと小さな音がして、彼女の斜め前の扉がゆっくりと開かれた。
「え?」
誰も触っていないはずだ。それなのに、勝手に解錠されて勝手にドアが開いた。
何だろうとドアを見つめている明日菜の前でそれは更に開かれる。
そうして中から現れたのは――
「ロ、ボット……?」
確かにそれは、上の階で明日菜たちの世話をしてくれているロボットだ。
一体、そしてもう一体、出てくる。
どうしてここに、何のためにここに、と眉をひそめる明日菜をよそに、二体のロボットはグルリと頭を巡らせている。
彼女が我に返ったのは、強い口調で呼びかける樹の声のお陰だった。
「明日菜! こっちへ来い!」
ハッとそちらを見ると、彼が明日菜の方へ駆けて来ようとしているのが目に入った。
「あ、うん……」
その指示に従おうと、ロボットの間を擦り抜けようとした、けれど。
明日菜は視界の中にグイと入ってきたロボットの腕に、思わず跳びすさる。そうしたのは、反射的な動きだった。
空を切ったロボットの腕は束の間動きを止め、また彼女の方へと伸びてくる。
(え? あたし? あたしを捕まえようとしてる?)
さっきの動きもたまたまではなく、明日菜を捉えようとしていう意図を持ってのものだったのだ。
一体は身をかわす明日菜に執拗に向かってきたけれど、もう一体は向きを変え、樹たちの方へと動き始める。
駆け寄った樹がそれを蹴り倒そうとしたのが目に入る。が、安定性第一で設計されているらしく、それはほんの一瞬動きを止めただけだった。
(ロボット相手じゃ、無理だよ)
人相手と違って、蹴ろうが殴ろうが大したダメージにはならないに違いない。
(どうしよう)
樹たちを相手にしているロボットは結構素早い動きをしているけれど、明日菜に対峙している方は彼女を傷付けまいとしているのか、割と動きが遅い。だから伸びてくる腕を避けるのは難しいことではないものの、避けているだけではらちが明かなかった。
(どうしたら……あ、そうだ)
今また伸ばされた腕を掻い潜りながら、明日菜は腰をまさぐる。手に触れた物を握り締め、考えるより先にそれを突き出した。
ガチンと硬いものに当たった瞬間、スウィッチを押す。バチバチと激しく散った火花に怯みそうになるけれど、明日菜はスウィッチから親指を離すことはしなかった。
さんざん彼女を捕まえようとうごめいていた腕はやがてブラリと落ちて、全ての動きが止まる。
それを顧みることなく、明日菜は樹の方へと振り返った。
二人はロボットに囚われてはいなかったけれども、攻撃の利かないそれを持て余しているようだった。
「樹さん、鹿角さんも、離れて!」
声をかけながら明日菜はそちらに駆け寄り、ロボットが彼女に反応するより先に手にした物を――スタンガンを突きつけた。
さっきと同じように電気の火花が散って、ロボットが停止する。
ふう、と一息ついたところで、鹿角が呆気に取られたような声を上げた。
「明日菜ちゃん、それ、いったい……」
鹿角の目が向けられているのは、明日菜の手の中のスタンガンだ。
「ああ、これ? これは、ほら、樹さんに会うの、二人きりだと思ってたから」
「え?」
明日菜の言葉に、鹿角と樹は眉をひそめている。
「だって、樹さんといる時は絶対持っとけって言ってたじゃない」
万一樹が変化した時の為に、と。
旅の間中、口を酸っぱくして言い続けられた。
実際、樹が明日菜に襲い掛かった時、彼女を傷付けてしまった時に一番つらい思いをするのは、彼なのだ。
樹の為に、明日菜は彼に会う時は必ず――たとえ彼が会ってくれなくても――スタンガンを携行していた。それが、こんなふうに役立つとは思っていなかったけれど。
ボソボソと説明した彼女に、男二人は目を丸くし、そして同時に苦笑を浮かべた。




