博士の真意と明日菜の決意
廊下の半ばほどで立ち止まった傭兵たちよりも、服部博士はもう数歩余分に明日菜たちに近づいてから、足を止めた。
「まったく、外で生きていくとか、本気で可能なことだと思っているのかい?」
軽く小首をかしげた仕草が小馬鹿にしているようで、明日菜は奥歯を噛み締める。
「本気です。ここ、出ていきます」
そう答えた明日菜に返ってきたのは、深々とした、芝居がかったため息だ。
服部博士はかぶりを振って、呆れ混じりの眼差しを彼女に向けてくる。
「どうしてそんなことを言い出すのかな。ここにいたら、ほぼ昔と同じ生活ができるはずだけど」
「同じじゃないです。ここは、何ていうか……生きてる気が、しません」
「やれやれ。今さら『生きがい』やら『生きる意味』やら言い出す気なのかい? だけど君、まだ世界が変わる前はそんなこと求めていなかっただろう。ああ、ないものねだりかな? 手に入らないとなったら、欲しくなった?」
揶揄する博士の口調に、明日菜は唇を引き結んだ。
服部博士の言い分に返すことができないのは、どうしてだろう。彼が言っていることは、少しも自分に当てはまってない――と思う。けれど、どう違うのか言葉にすることができないのだ。
口をつぐんだままでいる明日菜をよそに、博士は続ける。
「僕はね、ヒトという種そのものの存続は別にどうでもいいんだけど、人間が遺した文明には未練があるんだ。科学は言うに及ばず、音楽、芸術、文学そういったもの全てにね。デジタルデータとして残してAIでプログラムを組んで保全していくことはできるけど、それだと、何か違うと思うんだよね。だから、それを守るためにヒトで構成された組織を残しておきたいんだ」
「また、人間の社会を立て直すんじゃないんですか?」
その為に、生存者を集めているのだとばかり思っていたのに。
けれど、明日菜の問いに返ってきたのは、おざなりな声だ。
「いや、それはどうでもいいよ。でも、優良な遺伝子を保つためにはある程度の人数は必要だからね」
そう言って、博士は肩をすくめた。
「女性は貴重なんだよ。生殖にあたって、父親は別に新生者でも構わないから精子バンクで事足りるけど、母親は確実に『変異者』でなければいけないからね。卵子バンクは精子バンクほど盛んじゃなかったし。女は、欲を言えば三百人くらい集めておきたかったけど、スペース的に無理だったんだよね」
いかにも「残念」というふうに、彼はかぶりを振る。そして、ニコリと笑った。
「まあ、数撃ちゃ当たるっていうでしょ? 受精させて遺伝子的なエラーが認められた受精卵は廃棄していけばいいわけだからね」
つまり、明日菜たちは卵を産む鶏というわけだ。
より良い卵子を排出させるために、良い餌を食べさせ、良い音楽を聴かせる。
目の前に立つ服部博士の声にも目にも、善意はもちろん悪意すらない。
彼はただ、自分の考えを披露しているだけだった。
けれど、悪意がないということに、明日菜は胸が悪くなる。
彼女の心中など全く斟酌することなく、博士は片手を差し伸べた。
「だから、ねえ。僕の研究、ひいては人類の未来の為に、ここにいたらいいじゃないか。人類の文明の保護のためだ。とても有意義なことだと思うだろう?」
薄ら寒い笑顔と共にそう言われても、明日菜は、とうてい、その手を取る気にはなれなかった。彼の考えに、どんなものでも反応を示してみせるのは嫌だったけれど、彼女はかろうじて、一言返す。
「お断りです」
軋む声で答えた明日菜に、服部博士は眉をひそめる。
「君たち自身には何も期待してないよ? 君の知能やら何やらは別に必要ないからね。だから、勉強も何もすることなく、毎日面白おかしく好きに生きたらいい。昔は、そうしていたかったんだろう? 大丈夫、次世代の為には完璧な教育プログラムを組んであるんだ。優秀な者が育つようにね。彼らが人間の文明をちゃんと保持していってくれる」
そう言って、彼は、どこかおもねるような色をその眼差しに浮かべた。
「次世代を残すこと、それだけが君たちの存在意義だよ。ここにいれば、君は生きているというだけで何にも代えられない価値があることになるんだ」
明日菜には、それのどこに『価値がある』ことになるのかさっぱり判らなかった。
まじまじと博士を見つめてから、かぶりを振る。
「嫌です。そんなの、受け入れられません」
きっぱり拒絶した明日菜に、博士の顔から虚ろな笑顔が消える。
「ここを出ていったら、君は何も残さず死ぬことになるんだよ? 何も為さないとしたら、その生にいったいどんな意味があるというんだい?」
それは、疑問の形を取った全否定だった。
冷笑を含んだその声に、明日菜は決然と顎を上げる。
「意味が欲しくて生きてるわけじゃない」
こんな世界になったのに、どうして生きようと思えるのか。
明日菜にも、それは未だに判らない。
けれど、いざ死にそうになった時、どうして生きたいのかなんて考えなかった。
ただ、「生きるのだ」と思っただけだ。
「あたしは誰かの為に生きるわけじゃない、理由が、目的があるから生きるわけでもない」
何か言いかけた服部博士を、明日菜は目で黙らせる。
「でも、ここで、ただ生かされていくのは、嫌です。生きる意味も目的もなくていい。そんなの、要らない。あたしは誰かの――何かの為に生きるんじゃない。人類にとっての価値なんてなくていい」
その時、ふいに、肩にしっかりとした温もりが置かれた。首だけで振り返ると、樹の包み込むような眼差しがあって、明日菜はそれに背中を支えられる。
彼女は、胸に息を吸い込んだ。そして吐き出し、博士を真っ直ぐに見据える。
「そんなものがなくても、あたしはあたしを生きたい――生きます」
腹の底から出てきた声で、明日菜は毅然たる眼差しを服部博士に向けてそう言い放った。