誘い
すっかり覚えてしまった六桁の暗証番号を明日菜がテンキーに打ち込むと、いつものように小さな電子音を立ててロックが解除された。
一応ノブを回してみるけれど、いつものように、やっぱりそれは動かない。
(ちょっとくらい譲歩してくれてもいいんじゃないかな)
明日菜はため息をつきつつドアに額を押し付けた。その姿勢のまま、一方通行の会話を始める。
「樹さん」
沈黙。
「あたしね、ここを出ようと思う」
刹那、ガタガタッと、中で音がした。
そしてまた、沈黙。
物音はしないけれど、扉一枚を隔てたすぐそこに、彼の息遣いを感じるような気がした。
明日菜の願望がそう錯覚させているだけかもしれない。でも、何となく、とても近くで樹が彼女の言葉に耳を傾けているように思えてならなかった。
(多分、無視はされてない)
それが樹の責任感の強さからくるものなのか、それとも、ほんの少しでも明日菜のことを気にかけてくれているからなのか。
(後の方ならいいけどなぁ)
そんなふうに思いながら、彼女はひんやりとしたドアにそっと手を押し当てた。
しばらく待ってから、明日菜は再び口を開く。
「聞こえてる? あたし、ここを出ていくよ」
二度目は、反応がなかった。
彼女は息を凝らしてドアの向こうの気配に耳を澄ます。
たっぷり五分は待ったと思う。
ただ待つだけの者には短いとは言えない静寂の後、ドアの内側で硬い物同士が当たる音がした。そうして、静かにノブが、扉が動く。
生まれた隙間の間に立つ樹は、今までで一番の渋い顔になっていた。片手で扉を押さえてほとんど睨んでいると言っていいほどの鋭い眼差しを明日菜に向けている。
そんな彼を見上げて、明日菜はニコリと笑いかけた。
「やっと会えた」
彼女のその言葉に、樹の顎にグッと力がこもる。その目がスッと細められたのは、明日菜の爆弾発言の真否を判断しかねているからなのだろう。
「……俺を試したのか?」
「え? 違うよ。さっきのセリフは、本当。おびき出そうとかしたわけじゃないよ」
かぶりを振れば、樹のしかめっ面は余計にひどくなった。
「何故、そんなことを」
低い声には出ていなかったけれど、『そんな』と『こと』の間には『バカな』が入っていたのを明日菜はしっかりと感じ取った。
彼女は表情を改めて樹を見上げ、きっぱりと告げる。
「いきたいからだよ」
「浅はかな好奇心は身の為にならない」
「好奇心なんかじゃない」
「では、何を考えているんだ? 外が危険であることは充分に承知しているはずだ」
ドアの縁にかかっている樹の指先が白くなった。明日菜に掴みかかりたいのを、そうすることで辛うじてこらえているのかもしれない。
「どうしてここでは駄目なんだ。現時点で、ここ以上に充実した生活ができる場所はない」
彼らしくなく長い台詞をつづったその声にも、明らかないら立ちがにじんでいた。
樹の苛立ちは、明日菜のことを案じているからだ。
それは百も承知だったけれど、明日菜は、樹以上の不満を込めて、彼が口にした言葉を繰り返す。
「……充実?」
意図せず吐き捨てるような声になってしまったその一言を、彼女はもう一度拾い上げた。
「充実って、何? ゲームがあるから? 御飯があるから? ああ、うん、フカフカの布団もシャワーもあるよね。確かに、ここは安全で、何でも揃ってる」
立て続けにそう挙げて、明日菜は微かに当惑の色を眉間に浮かべた樹の顔をねめ上げる。
「だけど……だけど、あたしはここじゃぁ幸せにはなれない。なれる気がしない。ここで過ごせば過ごすほど、なんか、モヤモヤしたものが溜まってきて、叫び出したくなる」
「明日菜。君はまだここに慣れていないだけだ。じきに――」
宥めるような口調になった樹を、明日菜は勢いよく首を振って遮った。
「じきに、面白おかしく過ごしてたらいい生活に慣れるって? でも、あたし、そんなのに慣れたくない」
「だが――」
「それに!」
彼女は両手を伸ばして樹のシャツを握り締める。
「何より、樹さんが傍にいないのがイヤ! 第一、なんで樹さんが閉じ込められてるの!? なんで、こんなところで我慢できるの!?」
確かに、多分元々倉庫であっただろうこの部屋は、個室としては広い。
けれど、高校の教室ほどの空間は、一生を過ごす場としては、狭すぎる。
「ここで変化して人を襲っちゃうのが心配っていうなら、外に行こう?」
「……俺がいれば外に行っても何とかなるとでも思っているのか?」
樹が歯を食いしばる。
「だから、そんな世迷言を吐けるのか?」
「違うよ!」
即座に明日菜はかぶりを振った。そうして、続ける。
「樹さんが行かないって言っても、あたしは行くよ」
そう断言した彼女に、樹がハ、と大きく息を吐く。
「君が一人で生きていけるはずがない」
「そうかもね。でも、それでも、行く」
真っ直ぐに樹を見つめながら言い切れば、しばし視線を絡めた後、彼はふいと目を逸らした。
「君は、何も判っていない。俺は、完璧ではない――君を守りきることなど、不可能だ」
「守ってもらいたいから一緒に行って欲しいわけじゃないよ。あたしは、樹さんと一緒に生きていきたいだけ」
明日菜の望みはそれだけだけれども。
そう言ってしまってから彼女は樹のシャツを捕まえ直し、顔を伏せた。
「あたしが足手まといなのは、良く判ってる」
「明日菜……」
バッと、彼女は顔を上げる。
「だけど! 教えてくれたら、色々覚えていくから! 外での生活の仕方だって、戦い方だって。あたしだって初めて会ったころに比べれば、ずいぶんとマシにはなったでしょ? もっともっと、色んなことできるようになるよ。しばらくは人が住んでいなかったようなところで過ごしてさ、そうしたら、『新生者』は大丈夫になるでしょ?」
北海道なら、そういう土地がいくらでもあるはずだ。少なくとも、彼らが大挙して押し寄せてくるようなことは、ないに違いない。
「だから、行こう、一緒に」
必死に言い募る明日菜を受けて止めて、樹の眼差しが揺らいだ。明日菜は、頑なに彼女を拒否していた壁に、小さなひびが入ったことを感じ取る。
樹の顎に力が入り、唇がピクリと引き攣った。
「俺、は――」
迷いが溢れる声が、彼の口から洩れる。けれど、それは、突如響き渡ったガガッというノイズに掻き消された。
『ちょっと、五島君。子どもの夢物語に同意するわけじゃないよね?』
呆れたようなその声の主は。
「服部博士!?」
明日菜はパッと廊下を振り返ったけれども、突き当りであるここから唯一人の出入りが可能なエレベーターまでの間には、誰もいない。
キョロキョロとあたりを見回す明日菜をなだめるように、大きな掌が頭に置かれる。
「落ち着け。スピーカーだ」
「あの人、聞いてたの!?」
憤慨する明日菜に、また、姿のない声が返される。
『もちろん。ああ、誤解しないでよ? 監視は君の為だ。五島君はいつ変化するか判らないからね。二人きりにするのは危険じゃないか』
博士の言い方からすると、声だけでなく姿も見られていたようだ。てっきり二人きりだと思っていた明日菜は、無性に胸がムカムカした。こっそり監視されていたことだけでなく、博士の台詞の内容がまた、腹立たしい。
「樹さんは危なくなんかない!」
『やれやれ。五島君が自分を傷付けるはずがないって? さっきから、根拠もないのに諸々自信満々だなぁ。まあ、それは置いておいて、江藤明日菜君、君がここから出ていくことは、許可できないな』
決めつけた口調に、明日菜はムッと宙を睨み付けた。
「それは、博士が決めることじゃないです」
『そうかい? だけど、どうやってここを出ていくんだい?』
その台詞と共にポーンと柔らかなベルが鳴って、エレベーターの扉が開かれた。その中から、六人の男性が現れる。一人は服部博士、残りが傭兵たちだということは、がっしりした体格から容易に導き出せた。
服部博士以外の男たちは皆、武装をしている。
そして、その中には。
「鹿角、さん?」
明日菜は目を瞬かせてその名を呟いた。
廊下の端と端でずいぶん離れているけれど、見間違えようがない。彼だ。
あの立ち位置では、明日菜の味方をしてくれるわけではなさそうだ。
当然、鹿角の雇い主は服部博士なのだから、彼の側に着くのは当然だ。けれど、明日菜は、裏切られた気分になってしまう。
ギュッと手を握り締めた明日菜の肩を、大きく温かなものが包み込む。目を落とせばそこには樹の手があった。
彼はそっと明日菜を横にやり、自らが進み出る。
『おやおや、五島君?』
まだ廊下の向こうにいる服部博士の声が、先ほどと同じように廊下に響いた。よく見れば、彼はマイクのようなものを手の中に持っているようだ。彼はのんびりとした足取りで、明日菜たちの方へと向かってくる。
小柄なはずの服部博士は傭兵たちに埋もれてしまってもおかしくないのに、どうしてか、一番の存在感を放っていた。
彼がまた、マイクを持った手を口元に持っていく。
『僕に逆らうの?』
服部博士の言葉の内容は責めるはずのものなのに、声の調子は全く変わらないことが、明日菜にはむしろ薄気味悪かった。




