囚われ人
鹿角は明日菜を連れてまたエレベーターに乗ると、今度は地下二階のボタンを先ほどと同じようにリズミカルに操作した。
そうして動き出したエレベーターは、上にではなく下に向かう。
「地下五階もあるの?」
横を見上げてそう問うと、鹿角は頷いた。
「ああ。オレもそこまでは行ったことがある。倉庫――とかがあるんだ」
「ふうん」
明日菜が相槌を打つと、ちょうどそのタイミングでエレベーターは止まった。
降りてみるとそこもまた真っ直ぐ廊下が伸びていたけれど、今度は普通に扉が並んでいるだけだ。左右にそれぞれ三ずつと、服部博士がいた部屋のように、廊下の突き当りに一枚。
歩き出した鹿角は、どうやら一番奥の扉に向かっているらしい。
廊下はしんと静まり返って、人の気配は皆無だ。
「ここって、倉庫なんでしょ? 樹さん、ここで仕事してるの?」
首をかしげてそう訊ねると、鹿角の足が止まった。彼は明日菜を見下ろしてきたけれど、その目は微妙に気まずげだ。
「何?」
「え……いや、まあ、詳しいことは本人から聞いてくれ」
「うん?」
そんなに返事に詰まるようなことを訊いてしまっただろうか。
再び歩き出した鹿角を追いかけて、明日菜は眉をひそめた。何となくそれ以上は訊ねられず、彼女は口をつぐんで彼に続く。
広いとはいえ廊下を歩ききるのはあっという間で、二人はすぐに奥の扉の前まで辿り着いた。
鹿角は扉の横に付いているテンキーに手を伸ばしたけれど、明日菜はおや、と思って廊下を振り返った。他の扉には、テンキーなど付いていない。
(よほど大事なものがしまわれてるのかな)
明日菜が首をかしげているうちに、ピーという電子音に続いてロックが外れる小さな音が聞こえた。
「樹さん、鍵がかかっちゃう中にいるの?」
「ああ、まあ。オレはエレベーターの前で待ってるから。オートロックだからドアは閉めるなよ」
「うん……」
何だか奇妙に思いながら明日菜は頷いた。そんな彼女の頭を鹿角はクシャリと撫で、踵を返して遠ざかっていく。
明日菜はほんの一瞬その背を見送ってからドアノブに手をかけた。
そっと押し開け、中を覗き込む。
てっきり棚やら何やらあると思っていたのに、目に入ってきたのは一見普通の部屋だった。かなり広いけれど、ホテルの部屋のように、色々なものが一通り揃っているように見える。
(でも、鍵がかかってたよね?)
眉根を寄せた明日菜を、静かな声が呼んだ。
「明日菜?」
パッと目を巡らせると、ベッドに座っていたらしい樹が半ば腰を浮かせて彼女を凝視していた。
「樹さん!」
一ヶ月ぶりの彼の姿だ。
駆け寄ろうとした明日菜に、立ち上がった樹から鋭い声が飛ぶ。
「入るな」
「え?」
「何故ここにいる? 早く戻れ」
「なんで……」
明らかに、樹はその言葉で明日菜を拒絶していた。彼女との距離を、一歩たりとも詰めようともせずに。
「あたし、樹さんに会いたくて」
「俺の役割は終わった。会う必要などない」
にべもない樹の言葉に、明日菜は戸口で立ちすくんだ。そんな彼女に注がれる彼の視線は、厳しく、険しい。
台詞よりも、その眼差しの方が雄弁かもしれない。
(樹さんの方は、あたしに会いたくなかったんだ)
その事実がズッシリと肩に圧し掛かる。
旅をしていた一ヶ月と少しの時間を貴重なものに感じていたのは、自分だけだったのか。
その落胆は、あからさまに明日菜の顔に出てしまったのだろう。
彼女を見つめていた樹の眼差しが、微かに曇る。
「明日菜……」
彼の声に含まれているのは、明日菜を気遣う響きだった。それは、一緒に過ごしていた間、いつもそこにあったものだ。
明日菜の中に、ほんの少し明るいものが射す。
(あたしのことが嫌なわけじゃないの?)
よく見れば、樹の眼差しには声と同じく気遣う光と共に、もどかしそうな色もある。
旅をしていた間、樹は、常に明日菜のことを第一に考えて動いていた。
(今も、それは同じ?)
そう感じた瞬間、明日菜は樹に拒まれた衝撃で頭の中からすっ飛んでいた事実を思い出した。
「樹さん、ここに閉じ込められてるの?」
疑問の形で発したけれど、振り返って確かめたドアには中から鍵を開けられそうなものが見当たらない。
「なんで……?」
今度は、樹を見つめて問いかけた。
彼は黙って明日菜を見返してくる。
明日菜も、樹が答えるまではそれ以上何も言わないつもりだった。
互いに唇を引き結んだまま向かい合う。
短いとは言えない時間が過ぎて。
「……俺は、危険だと判断された」
「え?」
「一度、変化しかけただろう。あれがまた起きるかもしれない、と」
「だから閉じ込められてるの?」
返事はなかったけれど、それが明日菜の問いを肯定していた。
「でも、そんなのひどい」
「ここで俺が変化すれば大惨事になりかねない」
「だけど、こんなふうに閉じ込めなくたっていいじゃない!」
「これは俺が選んだことだ」
「選んだって……」
「服部博士は、ここを出ていくか、ここに残るかを提示した。俺は後者を選択した」
淡々とした樹の台詞を、明日菜は彼らしくないと思った。その口ぶりではなく、内容が。
確かに外の世界は危険極まりないものだけれども、樹なら、こんなふうに自由を奪われるくらいなら危険な日々を選ぶと思ったのに。
明日菜は唇を噛んで樹を見つめた。でも、どんなに探っても、彼の心中を読み取ることができない。
「あたし、こんな樹さん見たくない」
「ならば、もう来るな」
即座に、鋼鉄製のシャッターを下ろすように樹が言った。
明日菜は、グッと息を呑む。指先も引っかけられないほどに突き放されて、目の奥が熱くなった。どうにも制御できずに視界が潤む。
「明日菜」
軋む声で樹が彼女の名前を呼んだ。
明日菜は大きく息を吸い込み、強く瞬きをして滲んだ涙を追いやる。
クリアになった視界に立つ樹は両手を握り締め、眉間に深い溝を刻んでいる。その肩にはずいぶんと力が籠っているように見えた。まるで、その場にとどまるために全身の力を振り絞っているかのように。
明日菜は自分から彼に近付きたかった。
けれど、拒まれるのが怖かった。
また、ジワリと視界が歪んで、明日菜は慌てて顔を伏せた。彼には、もう、涙を見せたくない。
と、ふいに荒々しい吐息が耳に届いた。と思ったら、重い足音が二つ三つ。
温もりが間近に迫って、目を上げると、手が届く距離にがっしりとした胸があった。
更に顔を上げた明日菜は、渋面と行き合う。
黙ったまま、怒っているのかと思うくらい鋭い眼差しを注いでくる樹を、明日菜は首が痛くなるほど頭を逸らして見返した。彼の方も、とても難しい顔をしている。
しばらくそうしていて、ふと、樹が小さく息をついた。
わずかなためらいを見せた後、右手を上げて、指の節で明日菜の頬に触れる。
それは、仄かに温もりが伝わってくるだけの触れ方だった。明日菜はほんの少しでも動いたら何かが壊れてしまうような気がして、全身を強張らせる。
許されるなら彼女の方から寄り添いたかったけれども、きっと、それは、許されない。
だから、明日菜は身じろぎ一つせずに、ただ樹を見上げていた。
長い時間ではなかった。
ほんの、呼吸数回分だけ。それだけで、樹はギュッとその手を握り込み、下ろした。
そして。
「ここには、もう来るな。俺のことは忘れろ」
低いけれども深く響く声で、彼はそう言った。
その台詞で一気に現実に引き戻された明日菜は、とっさにかぶりを振る。
「いや! あたしは、樹さんに会いたい! あたし、樹さんと一緒にいたいよ!」
「君のそれは鳥の雛の刷り込みのようなものだ」
昂る明日菜と正反対の、冷静極まりない彼の声。
その温度差が、苦しい。
明日菜は樹の両腕を掴んで身を乗り出す。
「だけど、樹さんはこれでいいの!? 確かに安全かもしれないけど、こんなふうに閉じ込められたままで!?」
明日菜には、この生活が樹の望んでいるものだとは、思えなかった。
樹の真意を知りたくて、明日菜は必死に彼の目を覗き込む。けれど、何も見えない――みつけられない。
もどかしくてギュッと指に力を籠めると、その下の彼の腕が強張った。
ほんの少しだけ視線を逸らした樹はそっと明日菜の手を外し、一歩下がる。
物理的な距離と共に気持ちも遠ざけられた気がして、彼女はそれ以上追いすがることができなかった。
ただ樹を見るしかできない明日菜を、彼は静かに見返してくる。そして、口を開いた。
「俺の望みは、叶えられた」
「え?」
唐突な言葉に目を瞬かせた明日菜に、大きな手が伸びてくる。
乱暴ではない、けれども確かな力で肩を押されて、彼女は数歩下がった。
部屋の外へと押し出された明日菜の前で、ドアが閉ざされていく。それが完全に閉まる直前に、低い囁き声がその隙間から彼女に届く。
「君がここで安全に守られて、幸せになれることが俺の一番の望みだ」
ハッと明日菜が息を呑んだ瞬間、カチリと音がしてロックがかかった。
「樹さん!?」
ノブを握って押し開けようとしたけれど、それはもう一ミリたりとも動かない。
「樹さん……」
扉越しに呼んでも、返事はなかった。