生存者の役割
服部博士は小柄な人だった。身長百六十センチ弱の明日菜と、ほとんど目の高さが変わらない。だから、樹たちにするように首を反らして見上げずとも、真っ直ぐに少し歪んだ丸眼鏡の奥の目を覗き込むことができる。
そう、真正面から見つめ合えるにもかかわらず、常に柔和な笑みを浮かべる博士の眼差しは底知れず、その目は彼が何を考えているのかを読み取らせてくれなかった。多分年は四十から五十の間くらいだと思うのだけれども、それ以上にもそれ以下にも見える。
とにかく、なんというか、前に立つと落ち着かない気分にさせる人だ。
再び彼と対峙して、初めて会った時もそうだったと、明日菜はふと思い出す。
微笑みを浮かべているにもかかわらず、そこに温かみは感じられなくて、明日菜は居心地の悪さを覚えたものだった。もっとも、顔合わせは数分で、すぐに彼は樹と鹿角を連れて去って行ってしまったのだったけれども。
服部博士が距離を縮めるにつれ、彼よりも遥かに大柄な樹や鹿角と対峙するときには覚えない威圧感に気圧されて、明日菜は無意識のうちに後ずさりかけた。ズッと靴底がすれる感覚でそんな自分に気付いて、彼女は一歩たりとも下がるまいと膝に力を入れる。
そうやって身構える明日菜の胸中を知ってか知らずか――いずれにせよ明らかにそんなものには斟酌していない様子で、服部博士が立てた人差し指を顎に当てて首をかしげた。
「えぇっと、それでなんだっけ? ああそうだ、五島君のことだ」
ポンと右の拳を左の手のひらに打ち付ける。妙に芝居がかった仕草は、意図したものなのかどうなのか。そんなおどけた所作をとるくせに、視線はほとんど動かない。
無邪気な仕草と目の輝きのようなものが微妙にちぐはぐで、明日菜には奇妙に感じられた。
(なんか、なんていうか……得体が知れないってやつ?)
明日菜は何となく胸元を握り締める。そうやって、その胸がざわつく感覚を圧し潰し、彼女は服部博士を見据えた。
「樹さんはまだここにいるんですよね?」
「ん? ああ、いるよ、もちろん」
返ってきたのは、なんでそんなことを訊くんだい? と言わんばかりの顔。
明日菜は少し深めに息を吸い込み、そして吐き出しながら言う。
「なら、会いたいんです」
「あ、そう。じゃ、鹿角君に連れて行ってもらってよ」
さっくりと下りた許可。
樹に会う前に服部博士から話があると、鹿角は言っていたような気がするけれど。
あまりに簡単で、明日菜はポカンと博士を見てしまう。と、彼がいぶかし気に首を傾げた。
「どうかした?」
「あ、いえ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた彼女に、服部博士がひらひらと片手を振る。
「別にお礼言われるようなことじゃないし。で、君の用はそれだけかな?」
「え、はい」
明日菜がそう返すと、服部博士は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、僕の用件だけど、君、卵子を提供してもらうから」
「…………――――は?」
(らんし?)
――とは、何だろう。
音だけでは意味が掴めず目をしばたたかせている明日菜に、服部博士が眉根を寄せた。
「卵子だよ。卵の子。君がここにきてもう一ヶ月になるし、そろそろ落ち着いただろう? 君の役割を果たしてもらわないと」
「え、と、その……」
(役割って、卵子――?)
リアクションを取りかねた明日菜をよそに、服部博士は言う。
「世界の人口は著しく減少したからね、効率よく増やさなくちゃ。大丈夫、君に妊娠しろとは言わないから。人工子宮があるからね。君は卵子をよこせばいいだけ。簡単でしょ?」
そう言われても、何をもってして『簡単』だというのか、明日菜にはさっぱり頷けない。
「は、あ……」
曖昧に相槌を打った彼女を置き去りにして、博士の『説明』が続く。
「君たちにはものすごい価値があるんだ。貴重な存在なんだよ。正直、男はいらないんだけどね。こうなる前に精子バンクをいくつか買い取っておいたから、優秀な精子はたくさんあるんだ。でもほら、どんな群れでも、雌だけっていうのは不自然だろう? 雄も入れておかないと変なフラストレーション溜まっちゃうから良くないと思ってね。まあ、男ってだけなら五島君や鹿角君のような護衛たちでも事足りるけど、年やら生活やらがあまりにかけ離れていると交流できないだろうから」
「群れ……フラストレーション……?」
「そうストレスは生殖に良くないからね。できるだけ快適に過ごしてもらおうと思って、設備にも色々用意したんだよ」
それはもしや、ゲームや映画のことだろうか。
解らない。
服部博士が言っていることが、今一つ、理解できない。
「でも、ただ遊ぶだけの生活なんて、続けられませんよね?」
得意げな顔をしている服部博士に、つい、明日菜はそう呟いてしまった。とたん、彼が眉根を寄せる。
「そんなこと言ったって、君たちはこういう生活を望んでいたんじゃないのかい?」
「こういう生活、ですか?」
「そう。君のことは色々と調査させていたけど、別に、そう勉強熱心な方ではなかったじゃないか。君に限らず、皆そうでしょ? 僕は色々な知識を吸収することがとても好きだったけれど、周りで同じことを言う人はいなかったなぁ。逆に、彼らの『楽しいこと』に賛同しないということで攻撃対象にはされたけどね」
そう言って、服部はため息混じりに肩をすくめた。
「多くの人間には、人生の崇高な目標やら輝かしい未来なんていらないんだよ。その日その日をうまく楽しく過ごせればいいんだ。ここでは、僕がその生活を担保してあげる。だから君も、せっかく一日遊び暮らしていたらいいようになったんだから、それを堪能したらどうだい」
反論できない。
確かに、こうなるまで、普通に学校に通っていた頃は、勉強なんて定期試験の前に渋々やるのが関の山だった。何度、教科書を放り投げ、「勉強なんてしたくない!」と叫んだことだろう。
別に将来やりたいことが固まっていたわけではなく、何となく大学に行って、楽しく過ごして、それなりに給料をもらえるところに就職して、くらいのことしか考えていなかった。
押し黙った明日菜に、服部博士はいかにもどうでも良さそうな声で言う。
「僕は多くは要求しないよ。僕から君に課すのは、さっき言ったことだけだから。あとは自由にしたらいい。ああ、五島君のことなら、鹿角君がやってくれるよ。君の望みが五島君に会うことだというのなら、そうしたらいい。許可は出しておくよ」
それを最後に、服部博士は片手を振った。どうやら、退室の合図だったらしい。
「行くぞ」
鹿角に小声で促され、明日菜はふらふらと歩き出す。ハタと気付いたときには、廊下に出ていた。
まるで犬でも追い払うような仕草で部屋を追い出され、廊下で立ちすくんだ明日菜は固くこぶしを握り締める。
卵子。
(それを提供することが、あたしが生きる意味――生かされる理由なの?)
それが自分の存在意義なのだろうか。
だけどそれは、『江藤明日菜』の存在意義ではない。『変異者の女』の存在意義だ。
「そんなの、なんか、違う」
貴重な存在であると言われたにもかかわらず、明日菜は、今、自分の全てを否定されたような気がしていた。
「明日菜」
珍しく控えめな低い声が彼女を呼ぶ。
顔を上げると、微かに眉根を寄せて鹿角が明日菜を見下ろしていた。
「大丈夫か?」
(大丈夫?)
何が、だろう。別に、明日菜は博士に害されたわけではない。ただ、ここでの生活の説明を受けただけだ。
(それだけ、だし)
「……大丈夫」
乾いた喉から、それだけ吐き出した。
そんな明日菜の頭を、鹿角はポン、クシャリと撫でる。
「だから言っただろ? 別に、あの人にも悪意があったりするわけじゃないんだ。ただ、なんというか――優先順位が違うというか、思考回路が違うというか。オレも最初はドン引きしたよ」
最後は少しおどけた口調で鹿角が言った。
明日菜はどうにかこうにか笑顔を作り、彼に頷いて見せる。
「うん、ちょっと驚いたけど、大丈夫、気にしてないから」
「そっか。まあ、とりあえず、五島に会いに行こうぜ」
「うん」
鹿角の笑顔にさっきよりも少しはマシな笑顔を返し、彼と連れ立って歩きだす。
歩きながら、今の博士との遣り取りを思い返していた。
彼の話は、衝撃的だった。
だけど、いったい、明日菜にとって何がそんなに大きなダメージになったのだろう。
卵子の提供――は、確かに驚いた。
自分の価値はそれにしかない――うん、まあ、ちょっとショックだった。
博士に、言い返せなかった――多分、これが一番、大きい。
あの滅茶苦茶で一方的な話に、明日菜は、それは違うと、自分はこう考えると言えなかった。
彼の話に反感を覚えたのに、何も返せなかった。
それが、悔しい。
「ああ、もう!」
思わず呻きをこぼすと、隣を歩く鹿角が見下ろしてきた。
「なんだ?」
いぶかし気な、案じるような眼差しに、明日菜は小さくかぶりを振る。
「何でもないです」
その返事に鹿角はまだ何か言いたそうにしていたけれど、明日菜は顔を上げ、真っ直ぐに廊下の先を見つめてその視線を振り払った。