再会
ごまかしを見逃すまいと意気込む明日菜の鋭い眼光をサラリと受け流し、鹿角は手にしていたトレイを顎で示した。そこにのっているのは明日菜が頼むときの倍は盛られていそうなカレーライスだ。
「えぇっと、オレ、腹減ってんだけど……これ食っていい?」
一ヶ月ぶりに見るヘラッと締まりのない笑顔は以前と少しも変わりがない。明日菜はため息をついて、返事の代わりに近くの椅子を引いてそこに腰を下ろす。
鹿角も彼女の向かいの席に着くと、さっそく山盛りカレーにスプーンを突っ込んだ。一口分でごっそり減る。
その最初のひと口を呑み下すと、鹿角はコップに手を伸ばした。その間、一声もない。
一緒に旅をしていた間、彼の舌が止まるのは寝ている間くらいだった気がする。
あんなによくしゃべっていた彼がお愛想の一つも口にしようとしないのは、突然顔を合わせることになった明日菜のことを持て余しているからだろうか。
一応は待ってみたものの、鹿角の方からは何も言ってくれなそうなので、明日菜は自分から話を切り出すことにした。
ズバリと直球で。
「樹さんに会いたいんですけど」
刹那、黙々と頬張っていた鹿角の動きが瞬き半分ほどの時間だけ、止まる。
鹿角のことをこれほど凝視していなければ気付かなかっただろうというほど一瞬のものだったけれど、わずかとはいえ確かに彼は狼狽を見せた。
「何かあったんですか?」
「いや、何もないけど?」
今度は、返事が速かった。少し、不自然なほどに。
明日菜は目を眇める。
「あの人、出て行っちゃったんですか?」
「いや、――あ」
ほとんど反射のような返事の途中で、パッと鹿角は片手で口を覆った。
いかにも、アヤシイ。
「『あ』ってなんですか、『あ』って」
「あ――と、ラーメンでも食べよかな、とか」
そんな適当なことを言って、彼はヘラッと笑った。
「――居ないと言っておけば良かったとか思ったんじゃないですか?」
ジッと見据えて明日菜がそう指摘すれば、鹿角の目が宙を泳ぐ。
つまり、樹は、ここには居る。
けれど、どうしているかは言えない、ということで。
「樹さんに何かあったんだ」
ボソリと呟いたのは、確認ではなく断定だった。
返ってきたのは、小さな唸り声。鹿角を見れば、いかにも慌てて取り繕ったような笑顔になる。
「や、だから、ホント何もないって。ここ、色々揃ってんだろ? 過ぎたことは忘れて面白おかしく過ごしたらいいだろうが。友達も作らず何やってんの」
鹿角がこぼした台詞を、明日菜は聞きとがめる。
「……もしかして、あたしのこと見てました?」
詰問に近い質問に、彼はばつが悪そうにバリバリと頭を掻いた。
「そりゃまあ、何つぅか、やっぱ気になるだろ。ほら、袖振り合うも、みたいな」
「見てたのにあたしから逃げてたんですね。それって、樹さんのことを話したくなかったから――樹さんに何かあったからじゃないんですか?」
グイグイ食いついていけば、どんどん鹿角の困り顔が深くなっていく。
一緒に過ごしていた間、樹同様、鹿角も、動じる姿を見せることがなかった。明日菜が水澤にさらわれた時には、樹よりも平常心を保っていたくらいだ。
その彼が見せる不審な態度に、明日菜の中には真冬の豪雪地帯並みに不安が募っていく。
「ここに着いてから、何があったんですか? 病気になった、なんてことはないですよね」
ブツブツと、鹿角にというよりも自分自身に確かめるように呟いた明日菜だったが、そこでハタと思い付く。
「まさか、また、あの時みたくなっちゃったんですか!?」
思わず椅子を蹴立てて立ち上がった明日菜に、今度は鹿角の方が怪訝そうな眼差しになった。
「あの時?」
「ほら、鹿角さんと会った時の……」
明日菜は言い淀む。
口にしたとたん、鹿角と会った日の、樹が『新生者』として変化しそうになった時の姿が彼女の脳裏によみがえった。
できたらもう二度とあんな彼は見たくないけれど、もしもそうならちゃんと戻れたのか知りたい。
「そうなんですか!?」
「――ああ」
更に詰め寄られて鹿角も思い当たったらしく、ひそめていた眉を開いた。そうして、今度は明日菜をごまかすためではなく安心させるための笑顔になる。
「いや、違う。アレはない」
「そう……」
明日菜はホッと肩を撫で下ろしたけれど、また椅子に座った彼女に向けられている鹿角の眼差しには、困ったような、憐れむような、持て余したような、いくつもの色が複雑に入り混じっている。
なんだか一人判ったような顔をしている彼に、明日菜は苛立ちを覚えた――特に、何故か浮かんでいる憐れみの色に。
「ここに居るんなら、会わせてもらえませんか?」
「え、それは、だな」
らしくなく、鹿角はしどろもどろだ。
「ダメなんですか? なんでダメなんですか?」
ムッと唇を尖らせてそう言ってから、明日菜はふともう一つの可能性に思い至った。
(もしかして)
明日菜はテーブルの上に目を落とし、ボソリと呟く。
「……樹さんが会いたくないって言ってるなら、別ですけど」
一緒にいる時には樹もそんな素振りは欠片も見せなかったけれども、もしかしたら、明日菜の相手をするのにうんざりしていて、ここに着いてようやく解放されて、安堵しているのかもしれない。
だったら、彼女の前に姿を見せないのは彼の意思――彼がそうしたいと思っているから、していることなわけで。
(それでも会いたいっていうのは、あたしの我がままだよね)
樹が会いたくないというなら、明日菜は諦めるしかない。
そう思うと、力なく彼女の視線が落ちてしまう。
少ししてから、うつむく明日菜の耳に、カチャカチャと鹿角が食事を再開する音が届いた。
この沈黙は、図星を指したせいだろうか。
樹に会いたいと、一緒にいたいと思っていたのは自分だけだったのかもしれないと思うと、居た堪れなくなる。
彼に避けられているかもしれないと思うとそれ以上何も言えなくて、明日菜は聞くともなしに鹿角が食事を進める音に耳を傾ける。
再び鹿角の手が止まるまで、さほどの時間はかからなかった。
カチンとスプーンが更に置かれる音がして、それきり静かになる。
静かになってからも――食べ終わってからも、鹿角はすぐには席を立とうとしなかった。
彼は何も言わないけれど、その視線が自分に注がれているのはひしひしと感じられる。
ややして。
吐き出された、深いため息。
諦めに満ちたそれに、明日菜は顔を上げる。
目が合うと、鹿角は、ふ、と笑った。
「あんたをあいつに会わせられるかどうか、オレには決められない」
「……そう、なんだ。そう、だよね」
明日菜は落胆に肩を落とす。が、続く言葉にまた彼を見た。
「だからさ、ちょっと博士にお伺い立ててくるから、オッケー出るまで待ってくれや」
「え。……いいの?」
「許可が出るかどうかは判らんけどな」
許可、ということは、樹の意思で明日菜から逃げているという訳ではないということだろうか。
そう思っただけで、ほんの少し、気持ちが浮いた。
「ありがとう」
無意識のうちに食いしばっていた顎を緩めて明日菜がそう応えると、鹿角はテーブル越しに手を伸ばしてグシャグシャと彼女の髪を撫でた。
荒っぽい手つきは樹のものに似ていて、でも、やっぱり少し違う。
明日菜は今、無性に彼の手が欲しかった。