平和で不安で不満な日々
旅の間にしばしば樹が言っていた通り、服部博士の研究所での日々は、確かに安全で平和なものだった。
身の回りのことは全てロボットがしてくれるし、何かをしろと言われることもない。娯楽室には電子書籍やゲーム、DVDは溢れんばかりに備わっているから、退屈するということはないけれど。
こんなことになる前は、楽しいことだけしていればいい生活に憧れたこともある。
でも、実際にその生活にどっぷり浸かってみると、決してそれで満ち足りることできるわけではないのだということを実感した。
(何か、もっと、何か……)
物足りなさを感じても、では、何をしたら良いのかが判らない。
自室を出て、もやもやしながら廊下を歩いていた明日菜は、浩史と連れ立った美香とすれ違った。
「明日菜! これから浩史とファイナルファイトやるけど、どう?」
美香が屈託なくそう誘ってくれる。
ファイナルファイトはサバイバルアクション系のテレビゲームだ。特殊部隊のメンバーとしてミッションをクリアしていくもので、最高五人でプレイできる。リアリティ溢れるCGを大画面で堪能できるそのゲームを、明日菜も最初の三日は楽しんだ。
(でも……)
立ち止まって明日菜の返事を待っている美香に、彼女はかぶりを振る。
「ごめん、あたしはちょっとやりたいことあるから」
「そう? やりたかったらいつでも来てよ」
最近の明日菜の付き合いの悪さのせいか、美香は最初からそれほど強く誘う気はなかったらしい。さほど残念そうな様子も見せずにそう言った。
彼女たちとは、しばらく前から、何となく距離ができている。
多分、外の生活を一ヶ月間過ごした明日菜とそれを知らない美香たちとでは、もうそもそも根本的に何かが違ってしまっているのかもしれない。
「うん、ありがと」
ひらひらと手を振って美香と浩史を見送ってから、明日菜はまた歩き出した。
ここに来てから、約一ヶ月。
着いた当初は美香たちに誘われるままに過ごしていたけれど、それも一週間ほどの間だけだった。
確かに、明日菜だって本もゲームも映画も好きだ。でも、それだけで埋め尽くされる日々は、あっという間に色を失った。というよりも、単に、常に危険に晒されていた日常から解放されて緩んでいた気が、元に戻っただけかもしれない。
ただただ面白おかしいだけの毎日は、むしろ、明日菜に違和感をもたらした。
そうして、その違和感と共に、それまで頭の奥へと追いやっていたものが心の表面に浮き上がってきたのだ。
頭の奥へと追いやっていたもの――それは、樹のことだ。
到着した時以来服部博士は全く姿を見せず、樹も鹿角も音沙汰なし。彼らと同じような風体をした男たちとはそこかしこですれ違うのに、どうしてか、樹と鹿角はここに来てからさっぱり会えなかった。
明日菜ももうただ待つのをやめて、二週間ほど前からは積極的に二人を探すようにしている。
にも拘らず。
(姿を見かけることすらないって、どういうこと?)
明日菜は内心で、唇を尖らせた。二人とも、意図して自分から逃げているのではないかとすら勘ぐってしまう。
「まあ、確かに? あたしには何の義理も義務もないけど?」
ついつい、声に出た。
すれ違った女の子にいぶかしげな眼差しを注がれて、明日菜は唇を噛んで口を封じる。
今彼女がいるのは、娯楽施設のある地下三階だ。
一日のうち数時間は図書室で知識を仕入れ、それ以外の時間は樹か鹿角を探して地下一階から三階までを歩き回る。それが、最近の明日菜のルーチンワークになっていた。
だが、二週間そうしているというのに、一向に求める姿は見つけられない。
「むしろ、どこかで待ち伏せした方が良かったりして」
彼らが明日菜を避けるならそうする理由があるのだろうけれど、正直、もうそんなの知ったこっちゃないという気分だ。
「食堂で張り込んでみよっかな」
呟いてみたら、その方が良いような気がしてきた。他の傭兵たちも同じ生活施設を使っているのだから、樹たちだって食事を摂る為に食堂に出入りしているはずだ。なまじ明日菜が動くから捕まえられないのだという可能性は、大いにある。
明日菜は踵を返してエレベーターに向かい、食堂がある地下一階を目指す。
着いてみると、十四時を回った、昼食には遅いこの時間、食堂にはほとんど人がいなかった。
その中に樹たちの姿はもちろんなくて、明日菜はさてどうしようかと腕を組んだ。
もしも彼らが明日菜のことを避けているなら、普通に席に座っている彼女を見られたら逃げられるかもしれない。
束の間思案し、明日菜は椅子を柱の陰に持って行って、そこから入口を見張った。
それから一時間。
室内を出入りしたのはほんの数人だ。
そしてさらに一時間。
やっぱり、求める姿は入ってこない。
あと二時間もしたら夕飯になる。
(もしかして、ここ、使わないのかな)
あるいは、この研究所内にいないとか。
他の生存者を探しに行ったり、何か用を言いつけられたりして、外に行ってしまっているのかも。
(だから、全然会えない、とか?)
そう考えて、もっと最悪なことを思い付いてしまった。
「ここに、もういなかったりして」
樹が、ここにいない。
明日菜を置いて行ってしまった。
その可能性だって、充分にある。
明日菜をここに連れてくることだけが樹の職務だったら、もしかしたら、それを成し遂げてしまった今は、もうここを離れてしまったのかも。
そんな考えが頭をよぎって、彼女は身を強張らせる。
と、ちょうどその時。
様子を窺うような素振りを見せながら、一人の男が食堂に入ってきた。
その視線がこちらに注がれそうになって、咄嗟に明日菜は柱の陰に身を潜める。
細心の注意を払って覗いてみると――男は、鹿角だった。疎らな人を一望した彼は、ホッとしたように肩の力を抜いて食事を供してくれるカウンターに向かう。
彼が探していたのは、明日菜だ。彼女はそう直感する。それも、会うためではなく避けるためだと。
(でも、なんで?)
実は嫌われていたとか――は、ない気がする。というより、ないと思いたい。
だったら、意図して明日菜に会うまいとする理由は何だろう。
思案を巡らせる彼女だったけれど、食事のトレイを手にした鹿角が食堂内のテーブルに着くことなく出口に向かっているのを目にして慌てて立ち上がる。その拍子に椅子が床にこすれて音が鳴って、鹿角がパッと振り向いた。
明日菜と目が合った瞬間、彼が「しまった」と言わんばかりに顔をしかめたのが見て取れた。そして、間を置かずに歩き出す。彼女に近づくためでなく、食堂を出ていくために。
やっぱり、避けていたのだ。
悟った瞬間、明日菜は駆け出した。
食堂の出入り口は一つだけ。
明日菜の方がその近くにいるから、充分に彼を捕まえられる。
食堂を出るまであと五歩ほど、というところで立ち塞がった彼女を、鹿角は渋面で見下ろしてきた。
一度目だけで天井を見上げ、そして諦めたようにまた視線を明日菜に戻す。
「……久し振り」
気まずげな、鹿角の声音。そんな彼を、明日菜は目を尖らせて睨み上げた。