研究所
「あ、明日菜ちゃん、おはよー」
食堂に入っていった明日菜に、さっそく朗らかな声がかけられた。その主は七海という二十一歳の女性だ。明日菜と目が合うと、彼女はヒラヒラと手を振ってよこした。テーブルについている彼女の隣には美香という少女が、向かいの席には浩史という少年が座っている。美香は十八で、浩史は明日菜と同学年の十七歳らしい。
「おはようございます」
明日菜は彼女たちの下に向かい、椅子を引いて浩史の隣に座る。
明るく広々とした食堂の中では、明日菜たちの他にも、二十人ほどが笑いさざめいていた。
明日菜が今いるのは、服部博士の研究所、あるいは『変異者』たちの安息の地、だ。それは、北海道の大地の地中深くにある。
ここに着いたのは三日前。
その日、服部博士は明日菜をにこやかに迎えてくれたけれど、「好きにしていいよ」とだけ言い残して、すぐに樹と鹿角を連れてどこかに行ってしまった。それきり、何の音沙汰もない。
独り置き去りにされてポカンと立ちすくんでいた明日菜に声をかけてくれたのが七海だ。彼女が明日菜の私室となる部屋に案内してくれて、この施設の中のことも色々と教えてくれた。美香や浩史と知り合ったのも、その日の夕食の席、七海を通してだった。
七海が教えてくれたのは、まず、この研究所の中で明日菜たちがうろつけるのは地下三階までらしいということだった。
そして、各階の説明。
地下一階は生活のための場――食堂や風呂などがある。
地下二階は、個々人に与えられた私室で、ホテルの客室のような感じだ。
地下三階は娯楽やら何やら。図書室とか映画やゲームができる部屋とか、フィットネスとか、そんな諸々が揃っている。
その下にも部屋はあるらしいのだけれども、立ち入ることは禁止されているようで、鍵がかけられているらしい。多分、博士の研究施設があるのだろう。
ここに集められたのはもちろん全員『変異者』で、皆若く、二十歳前後の者がほとんどだった。というよりも、多分、七海が最年長に近いのではないかと思う。
男女比には偏りがあって、女性は五十人強、男性は三十人弱だ。男性陣のうち二十人ほどは樹のような守護者だった。つまり救助された男性の『変異者』は、女性に比べてかなり少ないということになる。
その人数構成を聞かされた時、なんでそんなに偏りがあるのだろうと明日菜が首を傾げたら、七海は、苦笑を浮かべた。
「博士にとっては、必要なのは女性だけなんだよ、ホントは」
彼女はそう言って、それ以上の説明はしてくれなかった。
(でも、女の人だけじゃ、人類増やせないよね)
何となく、答えを教えてもらって一層疑問が増えただけだった気がする。
明日菜のことも放置状態だし、服部博士が何をしたいのか今一つよく判らない。そのせいか、安全な場所に来たというのに、彼女の胸は妙にざわついていた。
「だけどさぁ、明日菜って、良くここまで辿り着いたよね」
唐突に美香がそんなことを言い出して、明日菜は物思いから抜け出した。そうして、彼女の台詞に目をしばたたかせる。
「え?」
「わたし、ここに連れて来られたの二ヶ月前なんだよね。七海さんと浩史もそんな感じだよ」
「二ヶ月前?」
「そ。こうなる前に、拉致られたんだ。ことが起きてからここに来たのって、多分明日菜が初めてじゃないかな」
そういえば、樹も、本当はこうなる前に明日菜を回収したかったとか言っていた気がする。
樹のことを思い出してちょっと胸が詰まった明日菜に、美香の後を継いで浩史が続ける。
「今ここにいる人たち、皆そうだけどな。ほら、一ヶ月くらい前にこんなことになっただろ? オレらは連れてこられてからそれまで眠らされてたんだ。目が覚めたらびっくりだよ。なんか、世界中の様子見させられてさ、超グロかった。最初は信じられなかったけど、ドローン使ってだけど、まあ、今どうなってるのかリアルタイムで見ててさ。いや、それだって、作った映像なのかもしんないけど……」
濁した言葉尻で、言外に、明日菜に問いかけている。
彼女は束の間テーブルの上に目を落とし、そして三人を順々に見つめた。
「現実だよ。外は、ボロボロ」
瞬間、三人の動きがピタリと止まった。いや、凍った、という言い方の方が正しいかもしれない。
最初に動いたのは、七海だった。
彼女はゆるゆると息を吐き出し、少し引きつった笑みを浮かべる。
「そっか。ホントは、ちょっとだけ、期待してたんだよね。あの服部博士がただの頭オカシイ人で、本当は何も起きてない、皆あの人の妄想なんだって。それがはっきりしたら、何が何でも逃げ出してやる……とか、ね」
「ごめん、なさい」
他に言いようがなくて、明日菜はそれだけ口にした。と、七海が目を丸くし、次いで笑う。
「明日菜ちゃんが謝ることじゃないよ。むしろ、諦めがついたっていうか」
なんだか、明るい。
明日菜は気持ち眉をひそめて首を傾げた。
「目が覚めてすぐ、ここを逃げようとは思わなかったんですか?」
「思ったけど、外へのドアは開かないし、どんなに暴れても博士は出てこないし、淡々とあれが片付けていくだけだったし」
そう言って七海が指さしたのは、食堂の中をうろつき回るロボットだ。二本足でこそないものの、付いている四本の腕は人間顔負けの動きを見せる。その腕で、掃除から料理からその他諸々、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのだ。各階に十体ほど配置されているらしい。色々やってくれるのはありがたいけれど、あまりに黙々と作業をこなしていくから、何となく不気味でもある。
横目でロボットの動きを追う明日菜の前で、はあ、と大きなため息をついたのは美香だった。
「まあ、でも、現実なら仕方ないよねぇ」
「やっぱ実感はこれっぽっちも湧かないけどな」
頷き合う美香と浩史を、明日菜は見遣った。美香と浩史と七海と、それから、食堂で穏やかな日常を営んでいる、人たちを。
彼らを目にして彼女の胸に生じたのは微かな違和感だ。
(一ヶ月間、この状況を受け入れてるんだよね、皆)
自分なら、どうだっただろう。
もしも事態が始まる前に、樹にここに連れてこられていたら。
(やっぱりあたしも、こんなふうにしていたのかな)
突然、何の説明もなく誘拐されて、一ヶ月間眠らされた挙句に世界は壊れたから外には出られないと言われて閉じ込められて――そんな状況を唯々諾々と受け入れていたのだろうか。何も教えてもらえないから、と、知らないままでいられただろうか。
(判らない)
そう胸の内で呟いて、それから、明日菜はその呟きを否定した。
いや、自分を偽るのは止めよう。
(多分、あたしもここのみんなと同じように、何となく受け入れていた)
かつての明日菜なら、考えることなく、あまり抵抗することもなく、与えられた状況に甘んじていたに違いない。それまで、ずっと、そう生きて来ていたから。
(でも、今のあたしには、できない)
この一ヶ月間を経て、考えることを知った、今の明日菜には。
(まずは、ここで色々知ることから始めよう)
知って、それから考えて、決めるのだ。
自分が何をしたいのか、何をすべきなのか。
テーブルの下で、明日菜は両手を握り締める。
「明日菜ちゃん? 頭でも痛い?」
ジッとテーブルの上を睨み据えていた明日菜に、七海が呼びかけた。ハッと我に返った明日菜は、表情を取り繕う。
「あ、いえ、大丈夫です」
「そう?」
かぶりを振った明日菜に、七海はまだ心配そうな顔をしている。そんな彼女に、明日菜は心に決めたことを押し隠して笑顔を返した。