終着点
水澤のところを脱出して、夜が明けて。
樹が操縦するヘリコプターの中、明日菜はシートベルトが許す限り身をよじり、一心に窓にへばりついていた。
遥か上空から見下ろす大地は、茶色い。
北海道といえども十一月だとまだ雪の季節には早いようで、さりとて木々の葉はすっかり落ち、一面、ひたすら茶色い。
その景観は荒涼としているけれど、ヘリコプターという、一般人は恐らく一生乗ることがないだろう代物に乗った明日菜は、席に着いてからというもの一瞬たりとも窓の外から目を離すことができなかった。
その景色も、あっという間に過ぎ去っていく。
実際に乗るまではっきりしたイメージを持てなかった明日菜は、ヘリコプターもてっきり車と大差ない速度なのだろうと思っていた。だいたい、プロペラで浮くのはまだしも、前に進むというのが、彼女にはよく判らないし、そんなにスピードが出るとは思えなかったのだ。けれど、いざ動き始めるとこのおもちゃのような乗り物は明らかに車よりも断然速く、鹿角に訊いてみたら時速二百キロ近く出ているのだと教えてくれた。
乗ってすぐに一度海上に出て、数十分ほどでまた北海道の大地に戻ってきた。それからは、枯れた大地が広がるだけだ。
大体は森。
時々、川が流れていくのを目で追って。
ちょっと重力がかかったなと思ったら、ヘリコプターは高度を上げて山とも丘ともつかないものを越す。
時々市街地の上空を通り越しても、また、延々、山、森、平原が続いていた。
(さすが、北海道)
自然あふれるその土地は、多分、歩きでは途中で野垂れ死んでいたに違いない。
(最初からヘリだったらもっと楽だったろうにな)
ひと月分以上をかけてほとんどを歩きで過ごしてきた今までの距離も、ヘリコプターだったら数日で済んだのだろう。それなら、どれほど楽だったことか。
ただ座っているだけで良くて、苦労も恐怖も疲労も味わずに済んで。
(でも)
明日菜は楽ではなかったこれまでを振り返る。
その日々で、色々な人に会って、色々なことを経験して、色々なことを感じて、考えた。
それらを経て、何がどうとはっきり言うことはできないけれど、自分は変わったと明日菜が感じていた。今の明日菜はこの旅を始める前の彼女とは同じではない――と思う。
マンションを出た時の明日菜は、とにかく、ただただ安全なところに行きたかった。怯えずに生きられる、ただそれだけが欲しかった。
(今も、確かに安全は欲しいけど)
それだけでは、多分、満足できない。まだ形にはなっていないけれど、明日菜の中には何かがわだかまっていて、それが安住の地に向かおうとしている明日菜を落ち着かなくさせた。
彼女は、また、窓の外に広がる世界を眺める。
それはとても広かった。
日本のごく一部でさえこの広さなのだから、日本の外にはどれほどのものがあることだろう。明日菜は、それを知ることなく生きていく。
(それが、なんか、悔しいっていうか)
このまま服部博士という人がいるところに避難したとして。
(あたしは、そこで何をするんだろう)
学校の委員会みたいに、何か役割を与えられるのだろうけれど、高校二年生にできることなどたかが知れている。
(それに)
明日菜は隣で操縦桿を握る樹をチラリと横目で見遣る。
博士のところに行ったら、彼とはどうなるのだろう。
きっと樹には仕事がたくさんあって、今までのように明日菜の傍にはいてくれなくなるに違いない。
彼が隣にいない日々を想像すると、明日菜は、身体の一部を持っていかれてしまったような気持ちになった。
(今さら行きたくないとか言ったら、どうなるかな)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
こんなにあっという間に着いてしまうとは思わなかったから、明日菜には色々と心構えができていなかった。
彼女は唇を噛んで窓の外に目を戻す。
初めて目にする地平線の彼方まで広がるのは、人の手が及ばない大自然だ。あまりに広大で、眺めるほどに我が身のちっぽけさが身に沁みる。
(あたしは、自分のことばかりだ)
と、明日菜が小さなため息をこぼした時だった。
「疲れた? でも、もうすぐ着くからさ」
「え!?」
突然のそんな台詞に、明日菜は勢いよく鹿角を振り返った。彼は先方を指さしにこやかに教えてくれる。
「ほら、あそこに尾根があるだろ? あれを越えたらあっという間だ」
確かに、鹿角が指さした先はちょっとした壁のように盛り上がっている。
「あの先には、もう人は住んでいないよ。服部博士はよっぽど金持ちらしくてね、北海道の山奥買い占めてそこに地下施設作っちまったんだよなぁ。着いたらびっくりするぞ」
彼がそう話している間にもヘリコプターは進み続けて、気付けば尾根が間近に迫っていた。
グン、と浮遊感。
高度を上げたヘリコプターは、尾根を越える。
その先に広がっているのは、見渡す限りの原生林だ。
そこには、木々しか見えない。
だけど、確かに、終着点が存在している。
ふいに、不安か、あるいはそれに近い何かに襲われて、明日菜は樹の腕に手をかける。
横目で明日菜を捉えた樹は、彼女の表情を目にして眉根を寄せた。
「どうした?」
「え。え……っと……」
(あたしが行きたくないって言ったら、樹さんはどうするんだろう)
このまま、一緒に外の世界を旅していたいと言ったら。
明日菜は一瞬顔を伏せ、唇を噛んだ。
(そんなの、無理に決まってる)
現実味はないし、第一、樹の役割は明日菜を無事に博士の下に送り届けることなのだから、彼が頷くはずがない。そんなわがままを言ったら、彼を困らせるだけだ。
「博士のところって、いいところだよ、ね?」
「――生活するために必要なものは一通り揃っている。君は安全に、快適に暮らせる」
樹のその返事に、明日菜はうつむいたまま笑った。
多分、彼は、明日菜に『安全で快適な』生活を送って欲しいのだろう。
「明日菜?」
答えない彼女に、樹がいぶかし気に問いかけてきた。
明日菜はこっそりと一つ呼吸をしてから、顔を上げる。そうして、ニコリと笑い返した。
「なんでもない。早く行きたいな」
明日菜のそんな台詞に、樹はまたちらりと彼女を見てから、わずかに顎を引くようにして、黙って頷いた。