決意
頭を抱え込むようにして丸くなった水澤は、その身を震わせながら絶え間なく何かを呟いている。耳を澄ました明日菜には、それが人の――女の子の名前のように聞こえた。
(みか? みな?)
はっきりとは聞き取れないけれど、多分、そんな感じ。
その名前の合間に、許しを乞う言葉が交じる。
「あの、水澤さん?」
あまりにその声が痛ましくて、明日菜はそっと彼女に声をかけた。
途端、水澤の呟きがスウィッチを切られたようにフツリとやみ、同時に、震えも止まる。
また、襲い掛かってくるのだろうか。
明日菜の脳裏によみがえるのは、常軌を逸した水澤の姿だ。その手にはもうナイフはないけれど、何をするか予想がつかない。
同じことを考えたらしく、樹が一歩動いて水澤と明日菜の間に入る。
息を呑んで水澤の動きを見守る明日菜の前で、一呼吸分置いてから、彼女がふらりと立ち上がった。そうして、操り人形さながらに覚束ない足取りで歩き出す。明日菜と樹の存在など完全に忘れてしまったかのように、二人の横を素通りして。
まるで心ここにあらず、だ。
「水澤さん!」
思わず明日菜は声をかけてしまったけれど、水澤はその呼びかけに全く反応を見せず、振り返る気配もないまま行ってしまった。
言葉もなく彼女の背を見送っていた明日菜を、低い声が呼ぶ。
「明日菜」
「樹さん」
振り仰いだ彼は、いつものように眉間にしわを寄せて明日菜を見下ろしている。
「大丈夫か?」
「え、うん、何ともない。えっと……鹿角さんは?」
尋ねると、樹は右の耳から何かを外して明日菜に差し出した。その掌の上に載った小さな機械――イヤホンと思しきものから、能天気な声がする。
「やあ、明日菜ちゃん、半日ぶり」
「鹿角さん、どこにいるんですか?」
「北側だよ。五島が敷地の南側、オレが北側を探すことにしたんだ。オレがそっちに行ってれば、明日菜ちゃんを助けるのがオレになったのにな、残念」
軽い口調の鹿角の声は緊張感皆無だ。樹が手首にはめた時計のようなものを口元に寄せた。
「さっさと合流しろ」
「はいはい、判りましたよ。じゃあね、明日菜ちゃん、またすぐ会おう」
笑ってしまうほど、いつも通りの遣り取りだ。
なんだかやけにホッとして、自然と明日菜の顔が緩む。と同時に目の奥が熱くなって、気付いた時にはもう頬が濡れていた。
「!」
滝のように涙をこぼしている明日菜を目にした樹がたじろいだように身体を揺らす。
「あ、ごめん。何でもないよ。ただ、安心しただけ」
明日菜は慌ててそう言って、手のひらで涙を拭った。けれど、どうしてだろう、止めようと思うほど、それは次から次へと溢れてくる。
「気にしないで、ホント、大丈夫だから」
弁明するのもくぐもった鼻声だから格好がつかないし、それを耳にした樹はいっそう鼻白んだような顔になってしまう。
(なんで泣くかな、あたし)
内心そうぼやきながら、取り繕うために、明日菜はヘラリと笑って見せた。
と、その瞬間。
樹の奥歯がぎしりと噛み締められた。眉間のしわも紙が挟めそうなほどに深い。
(怒った?)
なんで? と呆気に取られた明日菜の腕が不意に引かれて、アッと思ったときにはもう彼女は大きな胸の中にすっぽりと包み込まれていた。
「樹さん?」
鼻をすすりながら呼ぶと、明日菜の背に回された腕にグッと力が籠る。
「遅くなって、済まない」
唸るような声が響いてきて、明日菜は目をしばたたかせた。そうしてから、全身の力を抜いて頬を温かな胸に委ねる。
「や、スゴイいいタイミングだったよね。なんか、初めて会った時みたい」
「……あの時も、もっと早く行くべきだった」
声は苦々しげで、未だ彼が悔やんでいるのだということがありありと伝わってくる。
樹の役割は、明日菜と、そして彼女の母親を助けることだったのだろう。それを成し遂げられなかったことが、今でも彼の中には深く根を下ろしているのか。
(それだけ、樹さんにとって服部博士の言うことが絶対なんだよね、きっと)
はふ、と明日菜はこっそり息をつく。それからもう少しだけ樹の温もりに浸っておいて、がっしりとしたその胸をそっと両手で押した。
身体を離して涙が乾いた顔で樹を見上げ、にこりと笑いかける。
「今度も、助けてくれてありがとう」
ごくごく自然な感謝の言葉のはずなのに、何故か樹は彼女を見下ろし固まっている。
「樹さん?」
明日菜が小首をかしげると、樹は彼女の背に置いていた手を下ろし、一歩後ずさった。いや、一歩と言わず、更に、一歩、また一歩と無言で距離を取っていく。
「無事で、良かった」
手を伸ばしても届かない、というところまで離れた樹が、ようやくそう言った。妙な態度に、明日菜は眉をひそめて彼を見つめる。樹の方はと言えばどことなく気まずげな素振りで彼女から視線を逸らし、流した先にあった光景にその目を留めた。
「これは――『新生者』か」
明日菜の気を逸らすためにその台詞を口にしたような気がしないこともないけれど、彼女は樹が見るものに向き直り、頷く。
「そうみたい。さっきの、水澤さんが、やったみたいで」
「生存者は彼女だけか?」
「多分。あたしは、他には会ってないよ」
答えた彼女に、樹は無言で焼けた『新生者』の群れを見つめたままでいる。
「樹さん?」
何か考え込んでいるようにも見える彼に、明日菜は首をかしげて問いかけた。
樹は少し間を置き、そしてその口を開く。
「君を探してあの黄色の建物を回っていた時に、恐らく、彼女の部屋に入った」
「水澤さんの?」
「……そこに、彼女が少女と写っている写真があった」
「女の子」
明日菜は、繰り返した。
かつていたけれども、今はいない、少女。
(娘さん、とか?)
多分、水澤にとってとても大事な存在。
そして、水澤は、彼女の言葉を用いるならば、その手でその存在を『この世から旅立たせた』。
明日菜は、ブルリと身を震わせた。
(だけどそれって、水澤さんがその子を殺したってことだよね)
そうしたことにより、彼女は今のようになってしまったのか、それとも、それ以前からのことだったのだろうか。
本当にその子が幸せになると思って、手を下したのか、それとも――
いくつかの可能性が頭に浮かび、それを振り払うように、明日菜はかぶりを振った。
(どちらでも、あたしには関係ない)
水澤のしたことが彼女の崇める神様に命じられたものであろうが、何か他の理由があってのことであろうが、為したのは彼女だ。そして、その結果を背負うのも投げ出すのも、水澤が決めることだ。
(でも)
苦しみ混乱する水澤を見て、思った。
明日菜は、自分がしたことから目を逸らしたくない。
この先たくさんの選択肢が彼女の前に提示されることになるのだろうけれども、ちゃんと自分で考え、自分で選び、自分で背負っていきたいと思う。
全てを誰かに委ねてしまえば楽に生きられるのかもしれないけれど、安楽を手に入れて矜持を手放すことにはなりたくない。
(あたしは、あたしを生きていく)
明日菜は背筋を伸ばし、両手を固く握り締めた。