出立の時
「取り敢えず、地下駐車場にある四駆でここを出る。昨日のうちにガソリンは満タンにしておいたから、それである程度の距離は稼げるだろう」
一晩明けていよいよ出発となった時、玄関の扉の前に立った樹が言った。
「え、四駆って、それ、うちのじゃないよ? 鍵は?」
江藤家の乗用車はコンパクトカーで四駆とは程遠い。
眉をひそめた明日菜に、樹は胸ポケットから何かを取り出した。彼の手のひらにのっているのは、確かに車の鍵だ。が、やっぱり江藤家のものではない。
車の鍵にはどれもメーカーを表すマークが付いているものだと思ったけれど、それらしきものは見当たらない。
樹が乗ってきたものだろうかと見上げた明日菜に、彼が言う。
「これはどの車も解除できる」
「何それ。そんなの売ってるんだ?」
そんな便利なものがあったら車泥棒の天下になりそうだけれども、カーグッズの店にでも置いてあるのだろうか。
物珍しそうにそれをしげしげと見つめると、樹からは少し呆れたような声が返ってきた。
「売っているわけがないだろう」
「……あたしだってそう思ったけど、樹さん、実際に持ってるじゃない」
「これは博士が作ったんだ」
「博士が?」
「ああ。彼は――所謂天才で、色々なものを作った。俺のトンファーやマチェットも彼が開発した特別製だ」
「とんふぁー……まちぇっと……?」
耳慣れない単語に明日菜が首をかしげると、樹は腰のベルトに差してある取っ手の付いた棍棒のような物を示した。
「トンファーはこれ――これは靭性も強化した特殊カーボン製でまず折れることがない。マチェットは……短刀のようなものだ。それも強度と厚みを増して武器としても使えるようにしてある」
それは見せてくれないのだろうか、と明日菜は首を傾げ、すぐに彼がそうしようとしない理由に思い至った。
一瞬脳裏によみがえった、腕と首を切り落とされた、父。
きっと、あの時に使っていた代物なのだろう。
この武骨な守護者は、口数は少ないけれども実はかなり気配りが細かいのだ。
決して表情には出していないけれど、もしかして、明日菜の目の前で父の命を奪ったことを、実は彼女以上に気にしているのではないか。
そんなふうに、明日菜には思える。
(本当は、お礼を言うべきだったのに)
彼だって、殺したくて殺したわけじゃない。
きっと、そういう人ではない。
まだほんの数時間しか一緒に過ごしていないしいくつも言葉を交わしていないけれど、そのわずかな遣り取りだけでも、むしろこの樹という人はとても命を重んじる人なのだということは、伝わってきた。
そんな彼にとって、人の命を奪うということは、しかも明日菜の目の前で彼女の父親の命を奪うということは、とても苦しいことだったに違いない。
八つ当たりの罵倒ではなく、救ってくれて――自分と父を救ってくれてありがとうと言うのが、明日菜がまずするべきことだった。
けれど今となってはタイミングを逃してしまっていて、何だか口にしにくい。
(もう少し、樹さんの愛想が良かったりとか、恩に着せたりとかしてくれたらいいのに)
それなのに淡々と、ただ彼女を助けるのが義務のようにしているから、「ごめんなさい」も「ありがとう」も言い出せない。言ったところで怪訝な顔をされそうな気がする。
むう、と唇を結んだ明日菜に、樹の声が割り込んできた。
「……聞いているのか?」
「え、あ、ごめんなさい……」
聞こえたのは、ごく小さなため息。
「いいか、ざっと確認してきたところではマンションの廊下をうろついている『新生者』はいないが、実際のところ、いつ遭遇するか判らない。車に乗るまでは細心の注意を払って、俺の指示に従え」
「判った……でも、姿見られなかったら、大丈夫なんじゃないの?」
少しでも安心したくてそう訊いてみたけれど、彼から返ってきたのは渋い顔だった。
「そうだが――『新生者』は『変異者』のおおよその位置を知ることができるらしい」
「え?」
「『新生者』は『変異者』の出すシグナルのようなものを察知して、集まってくる。最終的には『新生者』同士でも共食いを始めるのだが、彼らは近くに『変異者』がいるとまずそれを探そうとする。少なくとも、博士がネズミにヒトのミトコンドリアを組み込んで行っていた実験では、そうだった」
「何、それ」
それなら、じきにこの辺りは奴らで溢れ返るということなのか。
しかも、明日菜を喰い殺そうという意欲満々で。
吐きそうだ。
思わず両腕で自分の身体を抱き締めた明日菜に、樹が落ち着いた、冷静そのものの声で続ける。
「まだ猶予がある。それに半径百メートルほどまでは感知できるようだが、細かく位置を知られるわけではない。『新生者』が周りに増えれば遭遇する率は上がるが、知能は獣並みに落ちているから慎重に身を隠しながら進めば見つからない。ただ、五感――特に音には敏感になっているから、大きな物音は立てるな」
樹は安心させようとして説明してくれたのだろうが、なんだか、微妙に不安が増す内容だった。
そんな明日菜の心中を察したのか、樹の眼差しが微かに和らぐ。
「大丈夫だ。どんな状況になろうが、必ず俺が守る」
そう言って、ほんの少しの逡巡の後、彼の大きな手が上がった。それがそっと明日菜の頭に置かれ、クシャリと髪をかき混ぜられる。
乱暴、ではないけれど、丁寧、とも言えない手付き。
やっぱり、慰めるときでもぶっきら棒だ。
(こういうことするの、あんまり慣れていないんだろうな)
しみじみとそう思わせる仕草だけれど、でもそれは、温かくて――優しかった。
明日菜の頭に手を置いたまま、樹は低く落ち着いた声で告げる。
「俺はもう十年この仕事に身を置いている。激しい戦地の真っただ中から人質を救出し、連れ帰ったこともあった。あれに比べればこの状況は遥かに容易い」
自慢するわけでもなく、驕るわけでもなく、ただ自信に満ちた声で事実を述べるだけ。
そんな彼の言葉に、明日菜の中で不安がすぅっと溶けていくような気がする。
「……うん」
頷けば、また、クシャリと頭を撫でられた。
そうしてその手が離れていったとき、明日菜の胸にはほんの少しだけ残念な気持ちがよぎる。もう少しだけ、彼の温もりが与えてくれる安心感に、すがっていたかった、と。
「この階から地下駐車場まで、八階分だ。東の非常階段を使う。下りだからそれほど難しくはないと思うが」
「大丈夫、あたし陸上部だし、いつも階段で上り下りしてるから」
胸を張って答えると、微かに彼の目尻にしわが寄った。
「そうか。それは助かる」
「あ、え、うん……」
(今、もしかして、ちょっとだけ、笑った……?)
そう思って、明日菜の胸がドキリと一つ高鳴った。
微かな表情の変化で、驚くほど雰囲気が和らいだ気がして。
けれど、それもほんのわずかな間のことで、すぐに彼の顔は引き締まる。
「行くぞ」
短いその一声で、樹は音を立てずに扉を引いた。