自らで
明日菜は、水澤を真っ直ぐに見つめる。
「水澤さんが――水澤さんの神様が何を命じようと何をさせようと、あたしには関係ないです。あたしは、自分の頭で考えて決めたことをしたい」
そこから後悔や罪悪感が生じるとしても、明日菜はそれを受け止める。受け止めたいと思う。
誰かに言われたから、誰かの為にするのだからと、逃げたくない。
今はまず、樹と一緒に服部博士の下へ行こう。
でも、それも、樹に言われたからではない。樹に職務を全うさせたいと明日菜が思ったから、行くのだ。
固く両手を握った明日菜に、水澤がすがるような声を上げる。
「でも、『ミヒカリ様』がおっしゃるようにしていれば、間違いがないのよ? それに今までとっても苦しい思いをしてきたあなたなら、絶対来世では――」
「そこも! あたしは来世のことなんて考えていないんです。あたしは、今、この世界に生きてるんですから。あたしは、今を生きるために生きてるんです。死んだ後に幸せになるためじゃなくて」
明日菜がきっぱりと言い切ると、水澤はふらりとよろけた。
彼女が信じてきたものを全否定することになってしまったのには、正直、胸が痛む。
でも、水澤の生き方は、はっきり言って相容れないのだ。
「あたしをここから出してください。水澤さんがこの人たちにしたこと、あたしだってしたと思います。自分が生き延びるために誰かを殺さなければいけないなら、します――実際、あたしがこの手でしてきたわけじゃないですけど、あたしを生かすためにたくさんの人が死にました。あたしは、その事実から逃げたくないです」
多分、明日菜はある意味水澤よりも罪が重い。
自分の命を守るために他者の命を奪う行為を、樹に肩代わりさせてきたのだから。
この先、フッと我に返ったとき、その罪がズシリと心にのしかかってくるのかもしれない。今、水澤の身に起きているように。
けれど、そうなったとしても、明日菜は、それから逃げたくないと、逃げてはいけないと、思う。
そう自分の心に言い聞かせて水澤を見つめると、彼女はふ、と目を逸らした。
「私は、違うわ。私は、自分の為になんて……自分が死にたくないからって、そんなこと……」
呻くようにそう言って、水澤がナイフを握る手に力を籠める。
頑なに自らの行為を否定する彼女が、明日菜には何だか哀れに思えた。そうやって否定することで、いっそう苦しみを増しているようだったから。
「お願いです。あたしを行かせて」
もう一度、明日菜は静かな声でそう請うた。
水澤はナイフを握り締めたまま、うつむいている。その肩は、小刻みに震えていた。
「水澤さん?」
明日菜は、そっと声をかける。
と。
「『ミヒカリ様』は正しいのよ」
「え?」
「『ミヒカリ様』は正しいの。間違われないの。だから、お言葉には絶対に従わなければならないの」
ズルリと水澤の顔が上がり、炯々と光る眼差しが、明日菜を捉えた。
「私は、『ミヒカリ様』がそうしろとおっしゃったから、あの子を送ったのよ。来世で幸せになれるからって」
また、『あの子』だ。
水澤の子どもなのか、ただここで一緒に暮らしていただけの子どもなのかは判らない。今の水澤が相手では確かめる術はないけれど、いずれにせよ、恐らく、もう生きてはいない子ども。
――多分、きっと、水澤が手を下した、子ども。
そうしたことが彼女の中に深い傷を残していることは、明日菜にも容易に察せられる。
「あたしは、ここを出ていきます」
明日菜は、重ねて告げた。決定事項として。
息詰まるような沈黙の後。
水澤は、はぁ、と大きく息をついた。そうして、にっこりと微笑む――晴れやかに。
その笑顔に、明日菜の肌がザワリと粟立った。
「水澤さ――」
「大丈夫よ。私が助けてあげる」
まるで、この何十分かの遣り取りが綺麗に消え失せたかのようだった。
一瞬呆気に取られた明日菜に向けて、数歩分の距離をあっという間に詰めて水澤がナイフを振りかざす。
襲い掛かってきた刃をスタンガンで弾き飛ばすことができたのは、明日菜の反射神経よりも運に依るところが大きかったのだろう。
ギィンと甲高い音が響き渡って、水澤が眉をひそめる。
「おとなしくしていないと、痛い思いをさせてしまうわ。大丈夫、じっとしていたら、すぐよ」
優しく笑いながら言われても、その台詞の内容は「はいそうですか」と頷けるものではない。
ようやく、明日菜は悟った。
凝り固まってしまっている水澤とは、会話ができない。どれだけ言葉を尽くそうと、水澤に明日菜の声が届くことは、決してないのだ。
明日菜はスタンガンのスウィッチに親指をのせた。もう、ためらったり、ましてや水澤のことを気遣ったりしている余裕などない。そういうのは、樹のように、圧倒的な力を持つ者だけが赦されるものなのだ。
水澤は、これを懐中電灯か何かだと思っているはず。確実に当てられるのは、きっと最初の一回だけだろう。これがスタンガンだと気づかれていない今が、チャンスだ。
明日菜は水澤を見据えたまま、じりじりと後ずさる。
「何を怖がっているの?」
水澤は不思議そうな顔で小首をかしげ、「ああ」というふうに横に目をやった。
「大丈夫よ、もう彼らは襲ってこないもの。こんなふうになってしまうなんて、きっと、皆『ミヒカリ様』の教えを充分に守れていなかったのね。だから、罰が下ったのよ。私だけが残ったのは、『ミヒカリ様』の思し召しなの。もっともっと良いことをしなさい、苦しむ人を助けなさいって、おっしゃっているのだわ」
また明日菜に戻ってきたその眼差しは、いったい何を映しているのだろう。
唇を左右にひくようにして描かれているその微笑みは、何を思って浮かべられているのだろう。
夜の闇よりはるかに暗い両の眼に捉えられ、明日菜は身をすくませる。これほどの狂気に今の今まで気づかずにいた自分が、信じられなかった。
『新生者』と対峙した時とは全く別種の恐怖が明日菜の身を包む。
「そう、そうやっておとなしくしていてくれれば、すぐだから……」
言いながら、水澤が頭上高くナイフをかざし。
その銀色の刃が月光を弾き。
ヒュッと微かな音とともにそれが振り下ろされる。
「ぎゃぁッ!?」
小屋中に響き渡った化け物じみた悲鳴に、明日菜はハッと我に返る。そこで初めて、自分が反射的にスタンガンを突き出していたことに気が付いた。気が付いた瞬間、スウィッチから指が離れる。
水澤に電撃を食らわせたのは、多分数秒程度だ。あまりに短すぎて彼女の意識を失わせることはできず、苦痛に歪んだ顔が明日菜を睨み返してきた。
「それ、何なの? 私は、あなたの為に、あなたを救う為に、してあげるのよ? それなのに、なんでこんなことするの?」
今や水澤は、完全に常軌を逸していた。
突き刺すように繰り出された切っ先を、明日菜はとっさに身を捻って、避ける。そのまま走りだそうとしたけれど、塊から少し離れたところに転がっていた焼死体の一つに足を取られた。
(転ぶ!)
とっさに捕まるものを求めて伸ばされた明日菜の手が、その場にいるはずがない何者かに掴まれた。そのままグイと引かれて顔が大きな壁に衝突する。彼女の頭の後ろを何かがすっぽりと包み込み、その壁にギュゥと押し付ける。
一拍遅れて、ヒステリックな水澤の声が夜闇を貫いた。
「あんた、誰!? 何なの!? 放して、放しなさいよ!」
目の前を真っ黒なものに塞がれていたけれど、明日菜には、触れた瞬間、それが何なのか――誰なのか、判っていた。
(樹、さん)
思わず両手でしがみつくと、彼女の頭の後ろに置かれていた樹の手に、わずかに力が込められた。
彼の胸に顔を押し付けたまま明日菜は一度だけ大きく息を吸い、吐き、そして頭を反らせる。見下ろしてくる黒い目が束の間歪み、次いで低い声が問うてきた。
「怪我は」
「ないよ」
明日菜が答えると同時に、彼女を押さえていた手が離れていく。
自由になった明日菜は樹から離れて水澤を振り返った。彼女はナイフを持った手を樹に掴まれてもがいている。
「放しなさい! 私の仕事を邪魔しないで!」
そうやって叫びたてる水澤を眉をひそめて見下ろしていた樹が、軽く彼女の腕を捻り上げた。
「ッ!」
水澤の手から転がり落ちたナイフを、明日菜はすかさず拾い上げる。身をひるがえして樹の後ろに回り込むと、ナイフとともに力を奪われてしまったかのように水澤がガクリと膝を突いた。そうして、ブツブツとつぶやきを繰り返す。
「なんで……なんで……『ミヒカリ様』……私は……」
抗う意思が感じられなくなったのか、樹が彼女の手を放す。
解放された水澤は、地面に丸くうずくまったまま、すすり泣いていた。




