意志と選択
いつの間にか追い付いていた水澤の身なりには、乱れたところは一つもない。あちらこちら捜し回った末にようやく明日菜を見つけた、という感じは全くなく、彼女が居る場所が判っていて、のんびり追いかけてきた、という風情だ。
どうして判ったのだろう、と眉根を寄せた明日菜の耳に、ブゥン、と、蚊が鳴くような音が届けられた。チラリと上に目を走らせ、そこに旋回するドローンを見る。
(そりゃそうか)
この施設の外を探索できるなら、敷地内程度など簡単なものだろう。もしかしたら、樹が持っている双眼鏡のように、赤外線装置か何かがついているのかもしれない。
(やっぱり、ちゃんと見張っとけば良かった)
明日菜は歯噛みをしたけれど、居場所が知られていたならいずれにせよ不意打ちは叶わなかったに違いない。
(アレで追いかけられたら、どうせすぐに見つかっちゃうんだろうし)
逃げても無駄なら、ここはもう、覚悟を決めなければ。
明日菜は佇む水澤に真っ直ぐに対峙した。彼女は焼け残っている壁の向こうに立っていて、この小屋の中には入っていない。まるで見えない障壁でもあるかのように、立ち止まっている。
真正面から向き合うと、水澤は微かに首を傾げた。雲が晴れたらしく、先ほどよりもはっきりとあたりの様子が見て取れる。彼女の表情も、同様に。
水澤は、変わらず微笑んでいた。そして、その優しげな微笑みを崩すことなく、平坦な声で言う。
「ここには入って欲しくなかったわ」
「……これ、何があったんですか?」
これ、とは、もちろん焼死体の山のことだ。
水澤は無言だ。互いの呼吸の音が聞こえそうなほどの静寂が、その場を支配する。
ややして。
「皆は、それで救われたのよ」
「え?」
「言ったでしょう? 皆、現世の殻を脱ぎ捨てて、来世へ渡ったの」
確かに、少し前にも水澤は同じことを言っていたけれど、今明日菜が問うたのは、何が起きてこうなったのか、だ。
事故だったのか、あるいは――
「水澤さんが、やったんですか?」
この数十人の『新生者』をここに集めて、火をかけた。実際に、その手を使って。
もしもそうだとしても、明日菜に彼女を責める気は毛頭ない。そうしなければ水澤の方が死んでいたのは間違いないし、明日菜自身、ここに辿り着くまでに数えきれないほどの『新生者』の命を奪ってきたのだから、どうして彼女を責められよう。
『新生者』に取り囲まれたときの恐怖は明日菜もよく知っている。むしろ、よくぞたった一人で生き延びたものだと思う。
けれど水澤は、明日菜のその台詞にビクリと肩をはねさせた。そうして、ブルブルと身を震わせ始める。
「水澤さん?」
異様な反応に、明日菜は眉をひそめた。と、ピタリと彼女の震えが止まる。
また、ニコリと朗らかに笑って。
「……『ミヒカリ様』の思し召しよ」
「え?」
「『ミヒカリ様』は光そのもの、私たちを導くお方。『ミヒカリ様』がお命じになったら、為さなければならないの」
「神様に命令されたから、殺したの……?」
明日菜には受け入れ難い理由だった。だが、水澤はその問いにパッとかぶりを振る。
「違うわ」
「違う?」
「ええ。殺したのではなくて、より良いところへ送ってあげたの」
それは、うっとりと夢見るような――現実から解離した声だった。
「より良いところに、送って……」
水澤が言いたいのは、彼らの為に、殺したのだということだろうか。
そういう考え方もあるかもしれない。
けれど。
(なんか、変な感じ)
何が、変なのだろう。
(ビミョウにヒトゴトっていうか?)
そんなふうなのは、神様に『命じられた』と思っているからなのか。本当に仲間を殺すことが彼らの為になることで、それは命じられたことに過ぎないから、と。
「それって、全部をなかったことにしてるみたい」
「なん、ですって?」
水澤の低い声でそう返してきて、明日菜は無意識のうちに自分が呟きを漏らしていたことに気づいた。
「あ、……」
言い淀んだ明日菜に、それまで一歩たりとも進もうとしなかった水澤が足を踏み出す。
(地雷、踏んだ?)
明日菜は迫る水澤に気圧されて後ずさったけれども、すでに小屋の奥に来ていた彼女には、それ以上下がる場所がない。前にも後ろにも行き場がないなら横に向かうしかなくて、腰のスタンガンを探りながらカニ歩きで壁に近付いた。
寝室と違って今度はスペースがあるから、水澤を避けて逃げ出すことは可能だろう。でも、あのドローンの目がある限り、またすぐに見つかってしまう。となれば、この場で何とかするのが唯一で一番の策だ。
明日菜は、ギュッとスタンガンを握り締める。
(いざとなったら、これを使って……)
水澤の身体を損なう可能性を考えるよりも先に、明日菜は明日菜のことを考えなければならない。
たとえそれで水澤が死んでしまうかもしれなくても、明日菜が優先すべきは自分自身だった。
第一、今までだって、明日菜は己を生かすためにたくさん人を殺してきたのだ。実際に手を下したのは樹でも、それは彼女のために為されたことだった。
樹は明日菜の目から嫌なことを隠そうとするからうっかりするとなかったことにしてしまいそうになるけれども。
(そのことは、ちゃんと心の中にとどめておかないと)
そう自分自身に改めて言い聞かせて。
明日菜は気が付いた。
水澤の言葉で何かモヤッとするのは、まるで彼女が神様に逃げているように感じてしまうからだ。何かと『ミヒカリ様が』『ミヒカリ様が』と言って、水澤自身がどうしたいのか、どうしようと思っているのか、全然伝わってこないから。
(それって、なんか、ズルい気がする)
あと数歩というところまで近づいていた水澤を、明日菜は見据える。その眼差しに押し留められたかのように、ふと彼女は足を止めた。
「何? その目は」
「何、って、何も――」
「嘘。私を責めているんでしょう? どうしてみんなを殺したのかって。でも、仕方がなかったのよ。だって、『ミヒカリ様』がおっしゃったのだもの、そうしなければいけないって」
「別に責めてなんかないです。そうしなきゃ、水澤さんが死んで――」
かぶりを振った明日菜に言い切らせることなく、水澤が声を上げる。
「私の為なんかじゃないって言っているでしょう!?」
豹変した彼女のその様相は、まるでくすぶっていた熾火にガソリンでも注ぎ込んだかのようだった。
ひび割れた声で叫んだ水澤は右手でナイフを握り締めたまま、髪を掴んで全身を震わせている。
「私は悪くないわ! 私は! あの子だって――!」
言いかけ、喚き立てていた口が、ふいに止まった。
(あの子?)
ここには、子どももいたのだろうか。
けれど、たとえ『新生者』だとしても、成長期を終えるまでは変化しないのだと樹は言っていた記憶がある。
今もその子がここにいるのなら、夕食なりなんなりで顔を合わせていたはずだ。けれど、顔を合わせるどころか、今の今まで、この施設に子どもがいたということすら話題に出なかった。つまり少なくとも今はもういなくて、さっきの水澤の台詞とそれまでの流れからすると、『新生者』に殺されたというよりも、まるで彼女自身が手を下したかのように明日菜には聞こえてしまった。
嫌な考えに向かってしまう明日菜に、また水澤の呟きが届く。腰を折って、深く顔を伏せた彼女の表情は見て取れない。けれど、ブツブツと呟く声は続いていた。
「私は悪くない。私は、悪くないのよ。あれで皆救われたの。私は、悪くないの。あの子だって、私が助けたの。だって、あの子はあんなに泣いてたから。あんなに泣いてたら、皆に見つかってしまうもの。そうしたら……」
ふ、と、水澤が顔を上げる。
「あなたのことも、救ってあげる」
「え」
また、彼女が笑顔を浮かべた。それは、夕食の時と同じように、温かく自然なもので。
「こんなふうになって生きるのは、嫌でしょう? 辛いでしょう? 私はあなたを助けてあげたいの。大丈夫、こんなにつらい思いをしてきたあなたなら、絶対、次の世では幸せになれるわ……私のあの子のように」
水澤の優しい声とうっとりしたような眼差しは、本当に、心の底からそう思っているようだった。平和な頃、道端で同じようなことを同じような表情で言われたら、さぞかし心温まるものになっただろう。しかし今は、ゾッとするばかりだ。
明日菜は唇を引き結び、そして応える。
「いらない。あたしはあなたのその助けは必要としてないから」
彼女がそう告げた瞬間、息苦しいほどの沈黙がのしかかってきた。瞬き一つせず明日菜を見つめていた水澤が、口を開く。
「……どうして?」
「どうしてって、自分のことは自分で決めたいから」
「でも、『ミヒカリ様』は――」
「あなたの神様にどうこう言われたくないんです。あたしは、自分で進む道を決めて、その結果にちゃんと責任を持ちたい」
「私が、そうしていないというの? 自分がしたことから逃げている、と?」
その問いに、明日菜は無言のままその眼差しだけで答えを返した。
水澤が、グッと奥歯を噛み締める。