隠されていたもの
ひたすら暗い方を目指していた明日菜は、微かな風がふわりと運んできた臭いで、自分がどこに向かおうとしているのかに気が付いた。
(あの、小屋)
小火があったという、肥料置き場。
足元に集中していた目を少し遠くに向ければ、確かに、月明かりの中に薄ぼんやりと朽ちた壁が見える。
(結構、遠くまで来たな)
その小屋は敷地内でもかなり端っこの方にあったはずだから、多分、塀もすぐそばだ。どうにかしてそれを乗り越えてしまえば、水澤も追ってこないだろうとは思うけれど。
(棒高跳びやっておけば良かったな)
そんなバカなことを考えてしまうのは、酸欠だからだろうか。
とりあえず、ここまで全力疾走を続けてきて、もう限界が来ている。息を吸い込むたび、喉と肺が焼けるようだ。
(部活でだって、こんなに走らなかったよ)
ゼイゼイと息を切らしながら、それでも明日菜は最後のスパートで焼け残っている壁の隙間を擦り抜け向こう側に回り込んだ。壁に背を預けて、ハフ、と息をつく。
ちらりと上に目を走らせると、やっぱり屋根はない。
夜空に浮かぶ半分よりは丸くなった月には少し雲がかかっていて、その明るさを半減させている。
明日菜は壁の割れ目から向こう側を窺ってみた。暗いから遠くはよく判らないけれど、差し当たって、確認できる範囲では動くものは見当たらない。
ホッと一息つくと、急に鼻を衝く臭いが気になり始めた。スンと空気を嗅いで、眉をひそめる。
「この臭いって、ホント何なの?」
肥料の臭いは、まだ平和だった頃、学校行事で田舎に旅行に行ったときに嗅いだことがある。友永アキラのところでも、少しだけ嗅いだ。
確かに臭いことは臭かったけれど、こんな不快な臭いではなかったような気がする。
今、辺りに立ち込めている臭いで思い出すのは、違うもので――
(あれだよね。マンションの敷地でこっそり猫が死んでた時に似てるよね)
あの時は物陰だったので目に付かず、腐敗臭が漂い始めたことで住人が騒ぎだして、死骸を見つけたのだった。ただ、似ていることは似ているが、同じではない。
世界がこうなってからさんざん嗅いできた人の死体が放つ腐臭とも似ているけれど、それともやっぱりちょっと違うと思う。あれほど強烈ではない。あの臭いは何というか水っぽい感じで、近くによると身体中に染み込んで二度と落ちないような気分にさせる。
この臭いは、なんというか、もっと――ドライな感じだ。
「もしかして、死んだ動物を加工して肥料にしてるとか……? まさかね」
ごまかし気味に、はは、と笑ってみた。
けれど、一度気になってしまうと、どうにも気持ちが納まらない。
明日菜は奥の方に目を凝らしてみた。
結構この小屋は奥行きがあって、予想外に広い。奥の方はまだ屋根が残っているせいか暗さが濃く、ぞんざいに何かが積まれているらしいのは見て取れるけれども、それが何なのかは判らなかった。
気になる。
でも、知らない方がいいような気もする。
(そもそも、そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ、今は)
明日菜は自分を叱咤した。
外を警戒していなければ、いつ、水澤がここにいる明日菜を見つけ出すか判らない。何と言っても、あちらの方に地の利があるのだから。できるだけ怪我をさせずに水澤を捉えるには、とにかく先手を取らなければならないのだ。それにはこうやって隠れていて、不意を突くしかない。
明日菜はまた首を巡らせ動くものがないかと暗がりの中に目を凝らす。
暗闇と、静寂。
視覚にも聴覚にも何も入ってこない。
――が。
(やっぱり、臭い)
段々慣れてくるかと思ったけれど、むしろ益々気になってきている。
(むしろ、今のうちならいいかな)
我慢できずに、明日菜は肩越しに奥を振り返った。
ちょっとあちらに行って、ただの肥料の山だということを確かめさえすれば、この臭いにも我慢できるようになるはず。
明日菜は振り向き、そろそろと足を進めた。
(なんか、やな感じ)
懐中電灯があればそれほど近寄らなくても様子が判るのだろうけれども、もしも持っていたとしてもこの暗闇の中で点けたら誘蛾灯並みに水澤を引き付けてしまうだろうから、やっぱり使えないのか。
近づいてみると、臭いも強まった。明日菜は鼻の頭にしわを寄せる。とにかく、臭い。
何だろう、何の塊なのだろう。
茶色か、黒か、とにかく暗色系だ。
床の、ずいぶんと広い範囲に広げられていて、泥のようにベチャッとしている感じではない。色々な形の固形物がドサドサと無造作に積まれている、というように見える。いや、色々な、ではなく、長いものが多いか。
(木、かな)
木を、燃やしたもの、とか。
暗い中でもジッと見ているうちにもう少し形がはっきり見えてくる。
様々な太さ長さの棒状のものに、ところどころ、丸いもの。丸いものに太めの長いものが付いていて、そこから細いのが――
「え、あれ?」
明日菜は、ふらりと後ずさった。
これは、この形は。
「ちょっと待って、これって……」
その正体に思い至った瞬間何か考えるより先に身体が動いて、明日菜は上体を捻るようにして横を向くと、盛大に胃の中のものを床にぶちまけた。夕食を摂ってから結構時間が空いていたのが幸いして、床に出たものはほとんど胃液だ。ひとしきりえずいてから、明日菜は口の中に残った苦さを唾液と一緒に吐き出した。
彼女は数歩下がり、頬を引きつらせて目の前に広がるものを見る。
それは、人だった。
多分、焼け焦げた人間の、遺体。
焼死体なんて見たことがなかったけれど、その黒いものがひとの形をしているということは、間違いようがない。たとえ、まるで炎から身を守ろうとしているかのように手足を縮めたその姿が、エイリアンか何かのように見えたとしても。
折り重なるようにして倒れているそれは、少なく見積もっても二十、恐らく、三十体は超える。こんなにたくさん『変異者』が集まるとは思えないから、きっと、皆『新生者』だったのだろう。
どうにかしてここに誘導し、閉じ込めておいて、火を点けたのには違いないが。
「誰、が」
呟きはしたけれど、明日菜にも判っている。もちろん、その『誰』は一人しかいないということが。
たった一人、この塀の中の箱庭に住む彼女しかいないのだということが。
昼間、ここに近づこうとした明日菜をやんわりと止めた水澤のことを思い出す。
あの優しげな女性にそんなことができるとは思えない――思いたくない。たまたま『新生者』が押し寄せたところで、たまたま火が出た、という可能性もあるかもしれない。何かの事故でこんなことになって、明日菜にはこんな凄惨なものを見せてはいけないと思ったのかもしれない。
でも、それはかなり確率が低い、希望的観測だ。第一、現にさっきだって明日菜を殺そうとしたではないか。
あんなに普通に見える女性なのに。
「も、信じられない」
思わずポツリと呟いた明日菜の耳に、申し訳なさそうな声が届けられる。
「ごめんなさいね」
バッとめまいを覚えるほどの勢いで振り返ると、その先に、水澤が佇んでいた。
両手をお腹の前で組んで微笑んでいるその様は、近所のおばさんそのものだ。
そう、その手にあるのが大振りのナイフでさえなければ。
身をすくませたままの明日菜に、水澤が微笑みながらもう一度繰り返す。
「ごめんなさいね、嫌なものを見せてしまって。言っておけば良かったわね」
(謝るの、そこなの!?)
どう考えても「それじゃない」としか言いようのない水澤の台詞に、明日菜は彼女の中にある闇の淵を覗き込んだような気分になった。