夜闇の中で
水澤が用意してくれた肉なしのシチューとパン、それに自家製のチーズケーキは、とても美味しかった。質素な非常食――鹿角は『レーション』と呼ぶのだと教えてくれた――にすっかり慣らされていた明日菜の口には何にも勝るごちそうで、シチューはお代わりまでしてしまった。
久しぶりにお風呂もいただいてさっぱりした彼女を、夜も更けたからと水澤は寝る部屋に案内してくれて、ようやくホッと一息ついたところだ。素っ気ない樹の態度に慣れてしまった明日菜には、少々過剰な水澤の親切さ加減が若干重い。
(感謝は、してるんだけど……)
ホゥ、と明日菜は一息ついた。
敷地内の散策の後、水澤はまたドローンを飛ばしてくれたけれども、樹の姿を見つけることはできずじまいだ。時間的には、明日菜が持っている発信機のシグナルを辿って彼の方でここを突き留めていてもおかしくない頃合いだと思う。
明日菜は部屋の明かりを消して窓の外を覗いてみたけれど、もちろん、何も見えない。月はだいぶ満ちているようで、しばらく目を凝らしていると電灯がなくても薄っすらと物の形が見て取れた。以前よりも夜目が利くようになってきているのは、きっと、夜が暗闇であることが当然のことになったからなのだろう。
(これっきり、会えないってことはないよね)
明日菜は腕にはめられている発信機に目を落とした。樹のことは信じているけれど、それの有効範囲がどのくらいなのか判らないから、少し不安になってしまう。
(絶対、大丈夫だし)
小さくため息をこぼして、明日菜は服を着たままベッドの中に潜り込んだ。
眠る気は、ない。
水澤のことを疑っているという訳ではないけれど、樹がいないのだから自分の身は自分で守らなければいけないのだ。のんびり眠っている場合ではないだろう。
とは言え、まともな食事と同じくらい久しぶりのフカフカのベッドは堪らなく眠りを誘う。それに抗い、明日菜は何度も瞬きをした。
そんなふうに過ごして、一時間ほど経った頃だろうか。
眠るまいとしていたけれど、もしかしたらうつらうつらしてしまっていたかもしれない。
カチ、と小さな音がしたような気がして、明日菜はパッと目を見開いた。
耳を澄まして気配を探る。
――微かな衣擦れの音。
それが密やかな足音と共に近づいてくる。
明らかに忍び足なのだから、『新生者』ではない。となると、それは水澤ということになるのだが。
(何か、用?)
クルリと寝返りを打って起き上がろうとした、その時。
丁度天井を見上げた視界の中で、何かがキラリと光を弾いた。
「!」
それを目にした瞬間、明日菜の身体は考えるよりも先に動いて、入口の反対側――ベッドと窓の間に転がり落ちた。そうして息をつく間も置かずに立ち上がり、まだベッドの向こう側に立ったままの水澤を見据える。頭上に掲げられたままの彼女の手には、薄闇の中でもはっきりと見て取れる、大振りのナイフが握られていた。水澤が何をしようとしていたのかは考えなくても判るし、多分、その考えは間違っていない。
それでも、明日菜は呟かずにいられなかった。
「水澤さん、何を……」
どこをどう取っても勘違いのしようがない状況を目の当たりにしてもまだ信じ難い思いでいる明日菜の前で、水澤が腕を下ろした。彼女がゆるりと微笑んだのが、気配で伝わってくる。
「何って、あなたを助けようとしているのよ?」
この場にそぐわない台詞の内容といかにも心外そうな声が、この上ない違和感を醸し出している。
「助けるって、でも、そのナイフは――何ですか?」
そう問えば、彼女はそれに目を落とし、顔を上げて、またにこりと笑った。
「あなたを来世に送ってあげるの。眠っているうちなら痛い思いをさせないだろうと思ったのに、起きていたのね。もう少し待ったら良かったわ」
それはつまり、明日菜を殺すと言っているわけで。
あまりに朗らかな声だから、冗談かと思ってしまう。でも、きっと間違いなく本気だ。
唾を一つ呑み込み、明日菜は腰に差したままだったスタンガンを手に取った。けれど、実際にそれを使う気にはなれない。『新生者』相手なら死なせることはないということが判っているけれど、普通の人間相手ではどれほどの威力を発揮するのかさっぱり予測がつかないからだ。
使えるとしたら、ナイフ避けくらい。
(でも、いざとなったらそんなこと言ってちゃいけないんだよね)
まずは、この身を守ること。それを第一に考えるのだ。
自分自身に言い聞かせるように胸の内で呟いて、明日菜はギュッとスタンガンを握り締めた。
樹がいない今、自分で何とかしなければ。
それにはまず――ここから逃げ出そう。
そう思って戸口に目を走らせた明日菜だったけれど、水澤の横を擦り抜けて無傷でそこに辿り着ける自信がない。
となると、後は。
明日菜はパッと身を屈めてベッドの上の羽根布団を掴み、水澤に被せるように投げ付ける。そうしてすぐさま毛布を広げて背後の窓に体当たりを食らわせた。
幸い、ここは一階だ。窓枠も低い。
転がるように外に出て、後は振り返ることなく走り出す。
着ている服は真っ黒だから、夜闇に紛れてしまえばそう簡単には見つからないはずだ。
走りながら、明日菜は昼間案内されたときのことを頭の中に呼び出した。
身の丈の二倍以上はあるあの塀を乗り越えることは、まず無理だろう。少なくとも今は全然思い浮かばない。
門には鍵がかかっていると言われたけれど、その鍵がどこにあるのかは教えてもらえなかった。
(でも、出られる場所はそこしかないよね)
一番確実なのは、水澤の意識を奪って拘束してから、建物の中に戻ってゆっくり鍵を探すというところ。肝心なのは、どうやって水澤の意識を奪うのか、だ。
(スタンガン? でも、死んじゃうかもしれないし)
切れ始めた息の下で考えても、ろくな思い付きは出てこない。
取り敢えずどこかに隠れてゆっくり対策を考えたい。
(けど、どこかってどこよ!?)
水澤の方が圧倒的に地の利がある。明日菜の方が勝っているとすれば、現時点で彼女の姿を発見しにくい暗闇にいるということくらいだ。ただ、予想外に月明りがあるから、完全に闇に紛れることはできていない。
(このまま、とにかく暗いところに行って隠れよう)
相手も一人なのだし普通の女性なのだから、対峙することになってもそう恐れることはないはずだ。
(問題は、『新生者』に負けず劣らず殺す気満々でいるってことなんだけど)
そんな相手を傷付けないようにするというのは、かなり難しいに違いない。
「外にいると思わせてる間に中を探すとか――無理か」
やっぱり、どうにかして水澤を拘束する手段を考えよう。
そう意を決して、明日菜は足を動かすことに集中した。




