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壊れた世界、壊れた明日  作者: トウリン
第五章:愚者が溺れる白昼夢
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親切な誘拐犯

「驚かせてしまって、ごめんなさいね?」

 そう謝罪の言葉を口にして、その女性は心持ち眉を八の字にして明日菜あすなに微笑みを向けている。年は四十歳かそこらだろうか。本当に申し訳なさそうなその様子に、身構えていた彼女の手が下がる。


「えっと……」

 何を言ったらいいのか判らず、明日菜は口ごもった。

 目の前の女性はごくごく普通に見えるけれど、仮にこの人が『新生者』だとしても、明日菜には変化するまでは判らない。あの過疎の村のように、明日菜たちが近づくことで急に変化するということもあり得る。


いつきさん、いないんだから。自分で何とかしないと)

 グッと奥歯を噛み締めて無意識のうちに一歩下がった明日菜に、その女性は微笑んだ。穏やかに、優しげに。

 その表情に意表を突かれ、そして、何故か奇妙な痛みのようなものを覚えて、明日菜は思わず胸元を握り締めた。


(なんで、こんな……)

 心の中で呻き、明日菜は、不意に気付く。彼女は、母と、同じくらいの年だった。


(全然、似てないんだけど)


 年齢と、性別。

 共通点はそれだけだ。

 たったそれだけなのに、有無を言わさず自分を拉致した人だというのに。


 もう何日も大人の女性と言葉を交わしていないからだろうか、温かなその微笑みに、どうしても、もう二度と逢えない人が重なってしまう。


「あ、の、あたし、は……」

 明日菜のためらいが薄れたのを感じ取ったのか、女性は半歩分ほど距離を縮めた。そうして、わずかに首をかしげる。そんな女性らしい素振りにもまた、胸が詰まった。

 何かが喉の奥から何かが込み上げてきて、明日菜は唇を噛む。

 言葉が出ない彼女に、女性は柔らかな表情のまま、告げる。


「私は水澤清子みずさわきよこ、よ。あなたのお名前もうかがってよろしいかしら?」

「江藤明日菜です」

 それはあまりに自然な問いかけだったから、思わず明日菜は答えてしまった。そうしてしまってから、パッと両手で口を塞ぐ。


 二ヶ月前だったら、明日菜もなんのためらいもなくにこやかに返事をしていただろう。彼女の日常の中に危険などなく、警戒すべきものなど何一つ存在していなかったから。

 でも、このひと月半ほどの間に何もかもが変わったのだ。

 確かに、この女性は見るからに人畜無害で、彼女の存在は明日菜の中に憧憬に近いものを呼び起こす。

 でも、一歩引いて今の世界のありようと明日菜がここに立っている経緯を考えたら、正直、水澤と名乗った女性の『普通』さは、違和感しか招かない。


(この人は、あたしを攫ったんだから)


 その事実を自分自身に言い聞かせ、明日菜はほんの少しだけ後ずさった。

「あの、何が起きたかは、知っていますよね?」

「何が――って?」

 不思議そうに問い返されて、明日菜の方が戸惑う。

「その、外がどうなっているか、とか……」

 水澤はいぶかししげに眉をひそめている。


(もしかして、本当に何も知らないのかな)

 空から見る限り塀はかなり高そうだし、元々ここに一人きりで住んでいて、この敷地の中で自給自足でもしていたら、外で何が起きているか知らずに済んでいられるかもしれない。

(それって、有り得る? 有り得るかな……)

 まさかとは思うけれど、水澤の落ち着きっぷりは何も知らないからだとしか考えられない。


 明日菜は束の間迷い、口を開く。

「どうしてあたしをここに攫――連れて来たんですか?」

 話題を切り替えた彼女の問いかけに、水澤は一つ二つ瞬きをした。いかにも意外そうなその素振りの後、小首をかしげる。

「どうして? どうしてって、あんなところにいたら危ないでしょう? 助けるのが当然よ」

 攫ったわけではなく、助けたという認識なのか。つまり、彼女も、今世界がどうなっているのかは理解しているらしい。


(でも、普通、こんなふうにする?)

 まあ、今は『普通』とはかけ離れた事態なわけだから、これまでの『常識的な考え』なんて当てはまらないのだろうけれど。


 水澤は困惑している明日菜を屋上の端へといざなった。そうして、手で眼下を示す。

「外は危険だけれど、ほら、ここは安全よ? 高い塀に囲まれているし、それに、この中で生活に必要なものはすべて賄えるの。ここにいたら、心穏やかに日々を過ごせるわ」

 この年配の女性の眼差しの中には嘘偽りは全く見つからない。


(あたしをここに連れてきたのは、本当に単純に親切心からっぽいけど)

 判断を下しかねて水澤に目を向ければ、彼女は「何か?」と言わんばかりの眼差しを返してくる。

(判んないなぁ)

 樹がいてくれれば正しい決断を下してくれるのに。

 ふと頭の中をよぎったそんな考えを、明日菜は振り払った。

(今は、あたししかいないんだから。自分で考えて、自分で何とかしないと)

 いつまでも、どんな時でも樹に頼るわけにはいかない――仮に彼が傍にいたとしても、明日菜も自分で考えることをするべきなのだ。

 取り敢えず、今はここから出て樹と合流するのが第一だ。


「あたし、一緒に旅してる人がいるんです」

「まあ、そうなの? ごめんなさいね、気付かなかったわ」

 目を丸くした水澤は、屈託がない。

 悪意はなさそうだけれども、そのほんわりぶりがむしろ明日菜を落ち着かなくさせる。

「その人のところに戻らなくちゃいけないんです。あたしを元の場所に戻してもらえますか?」

「でも、お外は危ないでしょう?」

「大丈夫です。きっと心配してますから、元のところに返してください」


 明日菜の言葉に水澤はしばし眉根を寄せていたかと思うと、パッと顔を輝かせた。

「だったら、その人もここにお招きするわ。ドローンをご覧になったら追いかけてこられるかしら。カメラはついているのだけれど、これ、マイクはないのよ」

 やっぱり、どこかずれているような気がする。


「あの……あたしたち、行く場所があるんで……」

「だったらなおさら、ここで休んで行かれた良いわ。私たちの『ミヒカリ様』は、生きている間に善行を積むようにおっしゃっているの。そうすれば、幸福な来世を迎えることができるから」

「ミヒカリ様?」

 耳にしたことがない言葉に目をしばたたかせた明日菜に、水澤がにっこりと笑う。

「ええ」


『ミヒカリ様』についての説明は、続かない。まるで、誰もが知っていることのようにごくごく自然な笑みを浮かべて明日菜を見つめている。


(えっと……いわゆる、新興宗教ってやつ?)

 水澤が言っていることはいかにも宗教っぽい感じだけれど、明日菜が知っている『メジャーな神様』の中に『ミヒカリ様』なんて神様は入っていない。

 となると、街中で、あなたの幸せの為に云々とやっている人たちみたいなものだろうか。祈る代わりに、もてなすとか。


(善行積むとかだったら、変な宗教じゃないよね、きっと)

 そう自分を安心させようとしたけれど、微妙に不安は残る。さりとて、ずっとこの屋上にいるわけにもいかないし、ここは早いところ水澤を説得してここから出してもらうのが得策か。


 明日菜が頭を巡らせている間に水澤は踵を返し、屋内への扉に向かって歩き出していた。

 彼女の手で押し開けられた屋上の床と同じ真っ黄色に塗られた扉が軋みをあげて、明日菜はハッと顔を上げる。

 黒板に爪を立てた時に似たさして耳新しくもないその音は、何故か明日菜の胸に嫌な余韻を残した。


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