受容
険悪な目つきで睨み付けてくる明日菜に、樹はまた銀色の包みとペットボトルを差し出した。
「俺の知る限りの事情を説明するから、食べながら聞くといい」
明日菜の心中など全然気にした様子がない樹にまたイラッとするが、これまた、彼女がどんなに腹を立てようと彼は一向に頓着しないのだろうというのも解りきっているからいっそう腹が立つ。
どれだけ明日菜が刺々しい眼差しを向けようが暖簾に腕押し糠に釘、馬の耳に念仏――彼女の頭の中に国語で習ったあらゆることわざがよぎっていく。
ただ、樹の泰然とした態度にいつの間にか明日菜の中から無駄な足掻きをする気も薄らぎ始めていたのは、確かだ。ムッとした素振りを欠片でも見せてくれたら彼女ももっと罵声を浴びせ続けていただろうが、こんなにきれいにスルーされると頭に上っていた血も下りてくる。
また最後に樹をひと睨みしてから、明日菜は包みを破き始めた。
ひとまず矛を収めた彼女にも何の反応も見せないからこれまた腹が立つ。彼の態度へのその苛立ちが、いつの間にか父の首を落とされたことに対する衝撃を押しのけつつあることに、明日菜はなんとなく気付いていた。
そうして、冷え始めた頭が、否応なしに事実に気付かせる。
確かに、目の前のこの男は彼女のことを助けてくれたのだという事実に。
確かに、父はもう、三日前にいなくなっていたのだという事実に。
この男は、父の外見を持った、ヒトですらない何者かを退治したに過ぎないのだ。
本当の父にとっては、ある意味、これは救済であったのかもしれない。
あれほど大事にしていた娘を喰い殺すなんてこと、正気の父なら絶対に許容できないことだっただろうから。
明日菜は、ビスケットのような携帯非常食を齧る。
それは、まずかった。
ぼそぼそして喉につかえる塊を、ペットボトルの水で流し込む。
それでもちょっとむせて、ジワリと視界がにじんだ。
熱くなった目から何かが転がり落ちて頬を伝っていく。口の端からそれがしみ込んで、まずい非常食に塩味を加える。
嗚咽と一緒に非常食を呑み込む明日菜を前に、樹は黙って座っていた。どっしりとした彼が醸し出す安定した雰囲気は、ざわつく彼女の心を次第に落ち着かせていってくれる。
「もう一つ食べるか?」
渡された分を腹に収め終えた明日菜に樹が訊いてきたけれど、彼女はかぶりを振った。
「今はいい。それより、あん――樹、さんの知ってること教えてよ。何が起きてこんなことになったの? 警察とか、どうしてるのよ。どうして誰も助けに来ないの? こうなることを知ってた人って、誰なの? 国の偉い人? 知ってたならなんで何もしなかったのよ」
立て続けに問いをぶつける明日菜に、樹は一通り受け止めてから一拍おいておもむろに口を開いた。
「まず、警察は来ない。世界中の全ての国で国の機能は崩壊した。警察も自衛隊も、他国からの援助もない」
「でも、ほら、よく映画とかでアメリカとかさ……」
「映画とは違う。アメリカも日本と同じだ」
「だけど……」
「現実を受け入れろ」
「そんなあっさり『はいそうですか』なんて言えるわけないでしょ!?」
思わず裏返った声でそう喚いても、樹は淡々と見返してくるだけだ。きっと、明日菜が聞く耳を持つようにならなければいつまででも黙っているのだろう。
彼女は大きく深呼吸をして、また樹を睨み付ける。
「で、樹さんをここによこした人って、誰なの?」
「服部雄一という科学者だ。彼は二十年ほど前からこうなることを予測していたらしい」
「でも、全然そんな話聞いたことない。知ってたんならなんで何もしなかったのよ」
「一応進言はしたようだが国も各種学会も全く取り合わなかったと言っていた」
「……」
まあ、それはそうかもしれない。
こうなる前、平和な日々が過ぎていた頃に、いつかヒトがヒトを喰い殺すようになるなど言われても、まともに聞く者はいないだろう。明日菜だって、一ヶ月前ならきっと信じやしなかった。頭がおかしいと、嗤うことすらしたに違いない。
「――じゃあ、その人は、何が起きてこんなことになったって言ってるの? 何かのウイルスとか?」
映画や漫画では、この手の現象はたいていウイルス感染が原因となっている気がする。それなら、その感染症の治療法さえ見つかったら、いいはずだ。
けれど、そんな明日菜の前向きな希望を、樹はかぶりを振って打ち消した。
「これは、感染症ではない」
「なら、何なのよ」
彼は少し考える素振りを見せてから、また説明を再開する。
「君は、ミトコンドリアというものを知っているだろう?」
ミトコンドリア。
学校の生物の授業で聞いたことがある気がする――名前だけは。
「えぇっと……細胞の中にあるんだよ、ね……? エネルギーを作るんだったかな……」
「まあ、大雑把に言えば、そうだ。服部博士によれば、そのミトコンドリアの遺伝子に問題があって、ヒトが共食いを始めるのだそうだ」
「ミトコンドリアの、病気……?」
「何をもって『病気』と呼ぶかだな」
「どういう意味?」
「この場合、共食いを始めた方が『正常』なのだそうだ」
明日菜は眉をひそめた。
明らかに『おかしく』なったのは父の方だ。あれを異常と呼ばずして、他の何を異常と呼んだらいいというのだろう。
合点のいかない顔をしている彼女に、樹がさらに続ける。
「博士は、生物のミトコンドリアの遺伝子には、元々時限装置みたいなものが組み込まれているのだと言っていた。恐らくは繁栄の程度の問題で、一定ラインを越えて増えすぎた生物はそのスウィッチが入り、同種を食い殺すようになる。ミトコンドリアの働きが暴走することでより多くのエネルギー源を必要とするようになり、結果、異常な食欲を見せるようになるのだそうだ」
「そんなの……じゃあ、なんであたしとかあなたとか、全然変わらない人もいるのよ」
「『異常』と呼ぶなら、変化しない人間の方だな。君たちのミトコンドリアには、そのスウィッチが入らなくなるような変異があるらしい」
「でも、あたし、全然健康だよ?」
病弱とは程遠い、むしろ、非常に丈夫な方だ。小学校から高校に至るまで皆勤賞だし、インフルエンザにもどんなに周りで流行していても罹ったことがない。よく、バカは風邪をひかないものだと、友達にからかわれたものだ。
ふと、親しかった子たちのことが頭をよぎり、明日菜は唇を噛み締めた。
携帯も使えないから、今、彼女たちがどうなっているかを知る術はない。
無事でいるのか、喰い殺されてしまったのか、あるいは、父と同じ存在になってしまったのか。
もしもまだ生きているのなら、逢いたいけれども、遭いたくない。
彼女たちの顛末を、知りたくない。
良くない結末を迎えたのだということを、知ってしまいたくない。
俯き、押し黙った明日菜を、樹の静かな声が引き戻す。
「ミトコンドリアが母系遺伝なのは知っているか? 母から子へと、受け継がれる。君のお母さんも君と同じ変異のあるミトコンドリアを持っていたはずだ。どこかの時点――数百年、千年単位の話になるんだろうがな、どこかで君たちに繋がるミトコンドリアが変異した。現在、日本にはその変異を持つ者が五百人ほどいるらしい。ある意味、君の遠い親戚だ。他の者にも可能な限り救援が向かったが、連絡は取れていない。海外でも同様のパターンで変化を免れた者がいて、何とか救済しようと試みている」
「母から、子……」
樹の説明は、半分も明日菜の耳に入らなかった。彼女の頭の中では、その部分だけが何度も繰り返されていたから。
(お母さんも、あたしと一緒だった)
ならば、父に喰い殺されさえしなければ、母は母のままだったのか。知っていれば、二人で避難できたのだ。
恨んでも仕方がないことだとは判っていても、もっとちゃんと世に知らしめようとしなかった服部という男が、彼の言葉を聴こうとしなかった社会が、恨めしい。
「すまない」
樹が、唐突に謝罪の言葉を口にした。
「え?」
それが何に対するものなのか判らず、明日菜はきょとんと彼を見つめてしまう。
樹はそれまで泰然としていた顔を、初めて曇らせた。それは本当に微かな変化だったけれども、確かに現れた悔恨の色だった。
「別に、樹さんが悪いんじゃ……」
「いや、本当は、君の母親も助けるはずだったんだ。変化が始まる前に、二人とも拉致して服部博士のところに避難させるはずだった。だが、予想外に事態が急速に進んでしまって、移動に手間取った」
「拉致って」
明日菜の生活の範疇にはないその言葉に、思わず彼女は笑ってしまう。
だが、対する樹は至極真面目な面持ちだった。
「まだ事が起きてないうちに『そのうち人喰いが始まる』と伝えても、理解はしてもらえないだろう。一応説明はするつもりだったが、受け入れられないようであれば拘束して連れていく予定だった」
「ホント、冗談みたい」
何から何まで、現実離れした現実だ。
がっくりと明日菜は肩を落としたけれど、そんな彼女に樹はあまり時間を与えてはくれなかった。
「博士は遺伝子に変異を持つ者を『変異者』、持たない者――共食いを始めた者を『新生者』と呼んでいる。彼によれば、これは世代交代のようなものなのだそうだ」
「世代交代……」
「ああ。一つの種があまりに繁栄し過ぎないように、その種だけがいつまでも栄え続けないように、あるところまで来たら一新されるようにプログラムされているのだ、と、そう言っていた」
「じゃあ、あたしら、死んだ方がいいんじゃないの?」
は、と乾いた嗤いと共にそう呟いた明日菜の腕が、不意にガシリと掴まれた。
「生きている限りは生きるのが、生物としての礼儀だ」
「え?」
それまで底なし沼のように穏やかだった樹の目が、強い光を放って明日菜を見据えている。
「君はまだ、生きている。ならば生きなければならない」
「何よそれ。だって、もう皆いないし、世界だってこんなだし、生きてたって仕方ないじゃん。死ぬことになってるんだったら、そうするしかないじゃん」
彼を睨み付けながらそう言った途端、明日菜の頭の中にぼんやりとしていた『未来予想図』が実感を伴ってこみ上げてくる。それはもう単なる『予想』に過ぎなくて、決して手に入らないのだという、実感を伴って。
まだはっきりと何になりたいか決まっているわけではないけれど、大学には行ってみたいと思っていた。バイトだってしたことがないし、友達同士での旅行だって、計画していた。文化祭や体育祭だって楽しみだった。
「死んだ方が、マシだよ」
絞るような声を吐き出した明日菜に、樹の手に力がこもる。それは、指先がしびれてくるほどの力で。
「そうかもしれない。だが、それでも、君は生きる。俺が守っている限りは、死なせない」
宣言した彼の眼差しには、突き刺さりそうなほどの強さがあった。
「なんで、そんなに……」
ただ、命じられたからというだけでここまで真剣になるものだろうか。
何が樹をこれほどまでに駆り立てるのかが判らず、明日菜は戸惑いと共に彼を見つめた。
束の間二人の視線が絡み、先に樹が目を逸らす。取り立てて不自然な動きではなかったのに、何故か明日菜は『逃げられた』と感じた。
「――とにかく、今日は休んで明日にはここを出る。長く留まるほど動きにくくなる」
そう言うと、彼はバックパックを漁り、そこから腕時計のような何かを取り出した。明日菜の腕を取り、それをはめる。
「これを常に持っていてくれ。GPSで君の居場所が判る。それと、そのスウィッチを押すと俺の人工内耳に信号が伝わるから、万が一俺が傍にいないときに何かあった時にはすぐに押すんだ」
「人工内耳? 耳が悪いの?」
「……昔、怪我をした。俺は少し出てくるから、できるだけ静かにしていろ。ベランダは塞いである。彼らには扉を開ける知恵はない。玄関からこの部屋に侵入してくることはないと思うが、念のために俺が出たらドアは全部閉めてクローゼットの中に隠れていろ」
一方的に指示を残し、衣擦れの音もほとんど立てずに立ち上がった彼は明日菜に声をかける猶予も与えず部屋を出ていってしまった。
しんと静まり返った部屋で、明日菜はブルリと身を震わす。
これほどの静寂は久し振りで、まるで、世界で自分一人しか存在していないような気がしてくる。
(ううん。もしかしたら、そうなるのかもしれないんだ)
ふと明日菜は、自分があの大柄な男に早く戻ってきて欲しいと思っていることに気が付く。出会って数時間の相手を、いつしか心の拠り所としていることに。
「そんなこと、ないし」
呟いて、彼女は樹に言われたことをしに、ベッドを下りた。