恐れと、希望と
樹と二人で部屋に残された明日菜は、壁に背を預けてしゃがみ込んだ。手持無沙汰で抱えた膝に顎をのせ、黙々と装備の点検をする彼の背中を見つめる。
もともと樹は寡黙なのだから、一時間や二時間しゃべらなくても別に気にすることはないはず。彼が口を開くのは明日菜に伝える必要があることがあるときだけで、雑談なんて彼の方からは振ってきたことがないし、仮に明日菜から持ち掛けても返ってくるのは相槌程度だ。
いつだってそうなのだから、今も黙り込んだままの彼を気にする必要はないはずなのだけれども、何だかやけに沈黙が耳に痛い。
話しかけようかどうしようか明日菜が迷っていると、不意に樹が振り向いた。
思わずピンと背筋をただした彼女に、彼が片手を差し出す。
「スタンガンを」
言われて明日菜はワタワタと辺りを見回して、すぐそばに転がっていたスタンガンを拾って彼に渡した。
樹はそれをいじって電池らしきものを入れ替え、明日菜に返す。
「それは、絶対に手放すな。すぐに使えるようにしておけ」
早く寝ろ、と言う時と何ら変わらない口調でそう告げられて、明日菜は束の間息を詰めた。
「うん……」
返事は、自然、渋くなる。
使う相手は他でもない、樹なのだ。
他の襲撃者からは、彼が守ってくれるのだから。
明日菜は手の中のスタンガンを見つめ、そしておずおずと樹にその目を向けた。
「ごめん。本当は、一緒に行かない方がいいんだよね」
樹にとって自分の存在が今まで以上に大きな負担になることは、よく判っている。それでも彼と離れたくないとごねるのは、百パーセント明日菜のわがままだ。
その方がいいんだよねと確認しつつも、そうだと言われてもやっぱりそこは譲れない。
意味があるのは彼女の謝罪の部分だけなのだけれども、樹からの反応がない。
「……怒ってる?」
ためらいがちにそう訊ねても、彼は押し黙ったままだった。
(そりゃ、怒ってるよね)
明日菜が胸の内でため息をこぼした、その時。
「怒っては、いない」
低い声でぼそりと返された。
パッと目を上げれば、そこにあるのは怒っているとしか見えない渋面だ。
(これで怒ってるんじゃなければ、他には、何?)
眉根を寄せた明日菜の前で、ヒタと注がれる彼女の視線から逃れるように、樹がふいと目を伏せた。
「時々、今こうしているのは現実ではないのではないかと思う」
ぼそりと、彼が言った。
その台詞の内容に、明日菜は一つ二つ瞬きをする。
「それは、あたしもそうだよ。未だに、こんなことになったのが信じられないし、夢だったらいいのにって思う」
きっと、生き残っている人は全員そう思っているに違いない。
明日菜は至極当然と言わんばかりに深々頷いたけれど、彼はかぶりを振った。
「そうじゃない。今、俺はまだ研究所の一室に拘束されていて、こうやって君と旅をする夢を見ているだけなのだと、そんなふうに思えてならない」
樹の台詞に、明日菜は眉をひそめる。
「こうそく?」
パッとどういう意味か頭に浮かばなかった。
その音で出てくるのは、『校則』『高速』『光速』――そのくらいだ。
(でも、どれも違うよね)
内心で首を捻る彼女には気付いた様子もなく、樹は続ける。
「ああ。仲間を六人殺して回収された俺は一年近く麻酔と筋弛緩薬で完全に鎮静され、その上で手足の自由も奪われていたらしい。全く覚えていないが」
明日菜は息を呑んだ。そうして、何とか頷く。
「そう、なんだ」
『変異者』の凶暴性と樹の身体能力の高さを考えれば、よほど厳重に捕まえておかなければならなかったに違いないけれど、それが一年間も続いていたなんて。
他に言葉がない明日菜の前で、樹は淡々と続ける。
「俺は、仲間を殺した。だが、その記憶がない」
「え?」
「博士に写真を見せられるまで自分がしたことを知らなかった。今でも、全く思い出していない」
そこで樹の目が上がり、真っ直ぐに明日菜に向けられる。
「今離れなければ、いずれ君を殺すかもしれない。俺はそれが怖い」
彼は、『怖い』と言った。
恐れなど爪の先ほども感じたことのないような、彼が。
明日菜は唾を呑み、そして言葉を捻り出す。
「でも、さっきは樹さんがこれを使えって言ってくれたんだよ? 確かに最初は、その、襲ってきたけど……」
「君が一撃食らわしたからだ。あれがなければ俺は君を殺していた」
樹は、一言一言を噛み締めるように、そう吐き出した。
「俺の生存理由は、君を生かすことだ。だが、このままでは、俺自身がその妨げになる」
それほど、博士の命令は絶対なのか。
確かに、恩は大きいだろう。化け物から人間に戻してくれたのだから。
「やっぱり、別れた方がいいのかな」
明日菜は嫌だけれども、樹のことを考えるならそうすべきなのかもしれない。
彼女は俯き、唇を噛んで樹の返事を待った。
けれど、すぐに返ってくると思った肯定が、なかなか耳に届けられない。
「樹さん?」
顔を上げて彼を見ると、何か、とても硬い顔をしていた。
「あ、の?」
呼びかけに、樹はグッと奥歯を噛み締める。
「君の為には、そうしなければならない」
明日菜は、グッと顎を引いた。
君――明日菜の、為には。
「じゃあ、樹さんは? 樹さんは、どうしたい?」
出会ってほぼ一ヶ月。
彼に対してこう問いかけたことはなかった気がする。
明日菜の問いに、樹はまた奥歯を軋らせた。さっきよりも、きつく。
「樹さん?」
重ねて促すと、まるで形のない何かを呑み下そうとするように、彼の喉がごくりと動いた。
また、少し間が空いて。
「俺は――俺は、君といるべきではないと思う。だが……」
逡巡。
そして。
「君が俺の視界から消えることも、嫌だ」
そうこぼした姿は、樹でなければ、『打ちひしがれている』と表していただろう。不意に、岩のように大きな彼が、頼りなく――支えを必要にしているように見えた。
衝動に駆られて明日菜は彼に手を伸ばす。
膝の上に力なく置かれた大きな手を取り、握り締めた。
「樹さんは大丈夫だよ」
「――根拠がない」
「うん。でも、大丈夫だから。絶対」
何の裏付けもないことを力いっぱい肯定して、それでも明日菜は断言した。
彼女は片手でスタンガンをポンと叩いて、樹の目の中を覗き込む。
「また樹さんがあんなふうになったらね、もう容赦なくこれ使うから。ちょっとでもおかしいと思ったら、すぐ使うよ。樹さんがもうやめてくれって言ったって、やめないから。覚悟しといてよ」
胸を張っての彼女の宣言に、樹は微かに目を見開いた。次いで、その視線を下げる。
「ああ、そうだな。頼む」
そう答えた彼を見て。
(今、ちょっと笑った?)
明日菜は目をしばたたかせる。
チラッと、本当にチラッといつも引き締まっている彼の唇が綻んだように見えたのは、多分、彼女の気のせいではないはずだ。
「何だ?」
思わずまじまじと樹を見つめてしまった明日菜に、彼が眉をひそめた。
「え、いや、何でもない。何でもないよ」
慌ててかぶりを振った――振りすぎるほど振った明日菜を、樹はまた少し眉間のしわを深くして見つめていたけれど、彼女に向けられているその眼差しは、どこか柔らかさを帯びたものだった。