譲れない思い
両手を握り締めて仁王立ちになった明日菜を、樹は感情を読み取らせない眼差しで見返してくる。
「俺は君とは行かない」
「あたし、絶対樹さんといるからね」
同時に発せられた声が互いに互いを打ち消した。
ムッと明日菜は唇を引き結び、口を開こうとした樹に先んじて畳みかけるように言う。
「あたし、絶対、樹さんと行くよ。樹さんがここに残るならあたしもここにいる」
「明日菜」
「何て言われても、絶対、嫌」
きっぱりと、これ以上はないというほど断固とした口調で、告げた。
この数分のうちに、何度『絶対』を口にしたことだろう。
けれど、明日菜は、これだけは絶対に譲れない――譲ってはいけない気がした。
今、樹を独りにするのは、良くない。
強く、そう感じた。
いつものように静謐な佇まいの彼を見ていると、それがいつもと何も変わらないのに、妙に胸が騒ぐのだ。
唇を固く結んで睨み付けるように見てくる明日菜の視線をしばし受け止めた後、樹は、微かなため息をこぼした。
「聞き分けろ、明日菜。解っているだろう」
「何が? 樹さんが樹さんだってこと?」
「違う。俺が――危険だということが、だ」
「危険なんか、ないよ」
明日菜は樹の前に膝を突いた。身を乗り出して、言い募る。
「樹さんが危険なことなんてない」
「危険だ」
「危険じゃない」
「明日菜!」
ブンブンと力いっぱいかぶりを振りながら断言する明日菜に、初めて樹が苛立ちを含んだ声を上げた。思わずピタリと止まった彼女を見据えて、彼が苦い声を吐く。
「俺は、危険なんだ。かつて俺は、家族にも等しかった者を、殺した。彼らの為なら死ぬことも厭わないと思っていた、相手を」
樹が、奥歯を噛み締めた。ギリ、という音が明日菜の耳にも届く。
「俺に君を傷付けさせないでくれ。君だけは、決して――俺は……」
その時の彼の声に滲んでいた響きは、もしかしたら、恐怖に一番近いものだったかもしれない。それを耳にしたとたん、明日菜はみぞおちの辺りがギュッと締め付けられた。
それは、とても苦しみに満ちた声だった。樹のことを思うなら、おとなしくここで道を別った方がいいのだろう。
(でも、やっぱり)
「嫌。樹さんと離れたくない」
「明日菜!」
荒らげた声で、彼が呼んだ。
明日菜はその声に怯まず樹の胸倉を掴む。そうして彼に圧し掛かるようにして、迫った。
「あたしを生きさせたのは、樹さんなんだからね!」
一瞬息を詰めた樹の隙を衝いて、更に続ける。
「あたしは、死んでもいいと思ったんだから。こんな世界で生きたって、仕方がないって。死んだ方が楽じゃないかって、そう思ってたんだよ? それを変えたのは樹さんなんだから。樹さんとなら生きていけると思ったからなんだから、ちゃんと責任取ってよ!」
声を振り絞って、彼の胸に額を押し付ける。
「あたしを、――」
何だろう。
見捨てないで?
(ううん、違う)
樹は明日菜の相手をすることにもううんざりしたから、彼女を放り出そうとしているわけではない。彼女のことが嫌になったから、逃げだそうとしているわけではない。
決してそうではない。
明日菜は彼の襟をつかむ手に力を込める。
一番、正しい言葉は――
「……諦めないでよ」
震える声で呟くと、樹の身体がびくりと震えた。
「俺は……」
苦渋に満ちた、一言。
彼はそれきり言葉を失う。
明日菜もそれ以上何も言えなくて、ただ、彼の胸元に頭を突きつけたまま唇を引き結んだ。
二人が口を噤めば、粗末な部屋の中には重苦しい沈黙が横たわる。
それを破ったのは、彼女たちからすっかりその存在を忘れ去られていた第三者の声だった。
「五島さんよぉ、女の子にそこまで言われたら拒否れないじゃないの?」
能天気な口調と台詞の内容に、樹の肩が強張った。明日菜と樹は同時に目をそちらに向け、樹が先に口を開く。
「お前」
鹿角が名乗った時の記憶が曖昧なのか束の間樹は逡巡する。
「――鹿角。貴様が口を出すことじゃない。取るべき道は明白だろう」
「まあ、理屈はそうだけどね。でも、守られる側がそのつもりでいてくれないと、守りきるのは無理だし。選手交代するとして、その子がおとなしくオレについてきてくれるかな? あんたの方が彼女との付き合いは長いだろ? どう思うよ」
問われて、樹はムッと押し黙った。
その沈黙が何よりも雄弁な答えになったのだろう。
鹿角はニヤリと笑う。
「まあ、あんたたち二人にオレが同行するってのが、一番妥当で現実味がある道な気がするけどな」
「しかし、俺はいつ変化するか判らない」
苦り切った声で唸るように樹が言うと、立ち上がった鹿角が傍にやってきた。そうしてヒョイと樹を覗き込み、首をかしげる。
「それなんだけど、あんた、今熱はどうなの?」
「熱?」
「何か、すっかり下がってるように見えるんだけど、どう?」
樹に尋ねても、後ろ手に縛られている彼に答えられるわけがない。明日菜は樹の額に手を伸ばし、触れた。
「……ない、ね」
「あ、やっぱり?」
「やっぱりって、何か知ってるの?」
「いや、知ってるわけじゃないけど、推測した。あれって、五島の中の『新生者』ミトコンドリアが暴走してたからだったんじゃねぇの?」
「暴走?」
首を傾げた明日菜に、鹿角が頷く。
「ああ。ミトコンドリアってのはエネルギー産生装置なわけだからさ。疲労や何かで、五島の中の『新生者』ミトコンドリアが暴走したんじゃないのかなってさ。つまり、熱がその兆候の一つだったってわけ。で、それが何らかの理由で――時間の経過で終息したか、あるいは電撃でリセットされた、とか。後者だったら、また熱が出たらスタンガン使えばいいわけでさ」
ヘラッと笑った鹿角が、いとも簡単に、何でもないことのように言ってくれた。
「そんな単純な」
樹が苛立たし気に鹿角の提案を切り捨てると、彼は肩をすくめてよこす。
「でも、筋は結構通ってるだろ? それにあんたさ、この子と離れたらさっさと死ぬつもりだったろ?」
「鹿角!」
「樹さん!?」
樹は鹿角に、明日菜は樹に向けて、二人は同時に声を上げた。それはほんの少しだけ明日菜の方が早くて、樹が鹿角にぶつけようとした抗議の台詞を叩き潰す。
「そうなの!? 樹さん、死ぬ気なの!?」
「明日菜……」
「そんなの、ひどいよ!」
明日菜は掴んだ樹の胸元を握り直して彼を責めた。彼は渋面で鹿角を睨み付け、そしてため息をこぼす。
「別に、死ぬつもりはない」
「でも、死ぬまで何もしないつもりではあるんだよねぇ、きっと。オレがそれを解いてやっても、オレらがいなくなったら自分で縛り直す気だったんじゃないの? 何があっても、この子のこと、追いかけられないように」
「!?」
「鹿角!」
鹿角に怒鳴り返してから言葉もなく睨み付けるだけの明日菜の視線に気付いた樹は、ふいと目を逸らした。その仕草が、彼の考えを如実に語っている。
「あたし、やっぱり、絶対樹さんから離れない」
「明日菜……」
また、振出しに戻る、だ。
再び睨み合った明日菜と樹の間に、のんびりとした声が水を注す。
「だからさ、やっぱり、あんたとその子にオレが同行するってのが、一番手っ取り早い解決法だと思うんだよね。服部博士に今回のことを伝えれば、また何か手を見つけてくれるかもだしさ。完全に諦めちゃうのは、ちょっと早いかなぁ、とか」
確かに、そうだ。
一度は樹のことを救ってくれたというのなら、また何か方法を見つけてくれるかもしれないではないか。
「ね、樹さん。一緒に行こうよ……お願い、一緒に行って?」
ギュッと彼の襟を握って、明日菜は懇願した。
樹は鹿角を、次いで明日菜を見て、彼女の目の中にその決意のほどを見出したのだろう。がくりと肩を落とし、ため息をこぼす。
「……わかった」
吐息とともに吐き出された彼の短い応えに溢れているのは、諦念だった。