彼の真実
一目で、鹿角は状況を理解したようだった。
彼はポケットから紐のようなものを取り出すと、それで樹の腕と脚をくくる。身動きが取れなくなった彼を離れた場所へ引きずって行ってから、明日菜の前に膝を突いた。
「大丈夫か?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている彼女の顔を手のひらで拭いながら鹿角が訊いてきたけれど、それに答える余裕などない。危機が去った反動か、滝のように流れる涙は一向に止まろうとしなかった。
鹿角はもう一度樹を振り返り、また明日菜に戻って、ため息をつく。
「悪かったよ。油断した。今まで大丈夫だったんだから、きっと大丈夫なんだろうと思ったんだ」
彼の台詞は、まるで樹がああなる可能性を知っていたかのようだ。
眉をひそめた明日菜に、鹿角は唇を歪めるようにして笑みを作った。
「あいつが襲ってきたんだろう?」
しゃくりあげるのが、止まる。
「どうして、……」
どうして、それを知っているのか。
どうして、樹が変化してしまったのか。
明日菜自身、そのどちらを問おうとしたのか、判らない。
呟くように疑問符だけをこぼして、そこでつまずいた。
鹿角は窺う眼差しを明日菜に向けている。
「彼はあんたに話していないんだな」
「話……? 何……?」
ズズッと鼻をすすって明日菜が眉間にしわを刻むと、彼は少し困ったような顔になった。
「本当は、本人が話すべきだとは思うんだけどねぇ」
そう言って、樹に目を遣る。彼はまだ意識を取り戻していない。鹿角に隅に連れていかれてから少しも動いていなくて、明日菜は不安になる。
「樹さん、大丈夫ですよね?」
「生きてるよ」
彼女の懸念への鹿角の返事は、上の空だった。眉根を寄せた彼は、何かを考え込む眼差しで樹を見つめている。
「……まあ、仕方ないか」
ややしてこぼしたため息混じりの台詞には、どうなるか判らんしな、とぼそりと続いた。
なんだか気が重そうに向き直った鹿角が、明日菜の前にどかりと胡坐をかく。
「えぇっと、人が人を喰い殺すようになったのがミトコンドリアに原因があるってのは聞いたんだよな?」
「うん」
明日菜はうなずいた。
「あたしたちを『変異者』って呼んで、おかしくなっちゃった人たちを『新生者』って呼んでるって」
「ああ。服部博士――のことも聞いてるんだろ? 彼は『変異者』の中でもオレたちみたいな稼業に就いてる奴らに声かけて、護衛として『変異者』たちに派遣した。もちろん、オレたちの方が遥かに少ないから、『変異者』全員ってわけにはいかなかったけどな。その辺は、何か服部博士なりの選択基準があったみたいで。まあ、とにかく、オレたち護衛も、『変異者』だ」
「でも、じゃあ、なんで樹さんは――」
変わってしまったのか。
さっきまでの彼を思い出し、明日菜は身震いする。
樹は、明日菜のことが判っていた。
けれど、彼女に襲い掛かってきた。
彼は『新生者』じゃないはずなのに、『変異者』のはずなのに、『新生者』さながらだった。
「『新生者』とか『変異者』とか、そういうのじゃないの? ……熱のせい? そっか、熱のせいだったんだよね?」
ヘラッと、口元だけで笑いながら、明日菜は鹿角にそう訊ねかけた。いや、訊ねたのではない。希望的観測を述べたのだ。
鹿角は束の間明日菜を見つめ、そして、かぶりを振る。
「彼は『変異者』じゃないんだ」
「……え?」
「五島樹は、『新生者』なんだ」
シンプルな、言葉。
それは理解できないような内容ではない。
けれども明日菜の頭は、鹿角が何を言っているのか解からなかった。
「何、言ってるんですか。そんなはずないじゃないですか。あたし、もう何日も樹さんと一緒にいるんですよ?」
「ああ、だからオレも大丈夫なんだろうと思って、油断した。悪かったよ」
「鹿角さんが謝ることなんて……でも、それより、樹さんが、――なんて、絶対違います」
断言して、明日菜は力いっぱい首を振る。
「そうは言っても、実際、襲われたんだろう? 多分、時間の問題だったんだよ」
「そんなことない! そんなこと……だって、樹さん、自分から『やれ』って言いましたもん。これ、自分で自分に押し付けて、あたしに『やれ』って。そんなこと、『新生者』だったら言うわけないじゃないですか」
明日菜はスタンガンを握り締めた。
あの時の樹は、確かに樹だった。苦しみながら、明日菜を守ろうとしてくれた。
そんな彼が『新生者』だと言われても、「へえ、そうなの」とは到底言えない。
頑なに鹿角を睨み付ける明日菜に、彼はため息をこぼす。
「あんたが信じたくなくても、それが事実だ。五島樹が『新生者』だっていう事実は決して変わらないし、あんたはそれを受け入れなければならないんだよ」
鹿角はそこで言葉を切った。彼に似つかわしくない逡巡めいたものを閃かせ、それでも、続ける。
「あんたは、もうそいつとはいられない」
「いや!」
考えるよりも先に、その一言が明日菜の口から飛び出していた。
「あたし、いやだよ。この先も樹さんと一緒に行くから!」
「そんなこと言ったって無理なもんは無理だろう。あいつはここに置いていくよ」
「無理じゃない。絶対、樹さんと一緒に行く」
明日菜は言い切り、それ以上の遣り取りを拒んで唇を引き結ぶ。鹿角はため息をつき、更に言い募ろうとした。彼女はスタンガンを盾のように抱き締め、それに応戦しようと身構える。
鹿角は渋面になり、いかにも気が乗らなそうだ。それでもやっぱり言わなければと表情を引き締めて口を開きかけ――そこに、別の声が静かに割って入る。
「君は彼と行け」
ハッと、明日菜は顔を上げ、その声がした方へと目を向けた。その先で、静かな眼差しと行き合う。
「樹さん、大丈夫?」
思わず膝立ちになって声を上げた。
手足を拘束されたまま、樹はゆっくりと身を起こし、頷く。
「大丈夫だ、何ともない」
明日菜はホッとして、頬を緩めた。
(いつもの、樹さんだ)
いつもと同じ淡々とした風情の樹の眼差しには狂気の光は欠片もなくて、彼の腕や脚が縛られていなければ、さっきのことは明日菜が一人で見た夢に過ぎなかったのではないかと思ってしまいそうになる。
それなのに。
「今、それ解いてあげるから」
そう言いながら立ち上がった明日菜をひたと見据えながら。
「君は、これから先は彼と行くんだ」
彼は炯々と目を光らせて、また、そう繰り返した。