狂気と正気のはざまで
普段声を荒らげることすら滅多にない男の吠え声に、明日菜は鞭打たれたようにびくりと身体を震わせる。
彼女が我に返るのと樹、いや、樹であったものが畳を蹴って飛び掛かってくるのとは、ほぼ同時のことだった。その、ほんの少しの反応の遅れが、むしろ良かったのかもしれない。
樹が跳ぶ前に明日菜が動いていれば、それを読まれてしまっていただろうから。
けれど、明日菜がいたところ目がけて跳んだ樹は、彼女が直前で身をかわしたがために目標を失い、穴をあけんばかりの勢いで頭から壁に激突する。
こんな無様な真似、本来の樹であれは有り得ない。
(少なくとも今は、これは樹さんじゃない)
明日菜はスタンガンを握り締めた。
――相手が誰であっても、それを使うのをためらうな。
鹿角の声が脳裏によみがえる。彼はこの事態を予測していたのだろうか。
いいや、それなら、樹を縛り上げるなりなんなり、もっと他に何か手を打っていくはずだ。
(そんなことどうでも良くて、取り敢えず、今、だ。今、何とかしないと)
半ば現実逃避的に違うことを考えてしまいそうになる頭を、囲炉裏の向こう側で獣のように四つん這いになって頭を振っている樹に向ける。
スタンガンは、以前は有効だった。
樹にも、効くはず。
(大丈夫、これでは死なないはずだし)
固唾を呑んで見守る明日菜の前で、樹が動きを止める。
ゆっくりと頭をもたげ、部屋の中を見回す。
目が壁際で立ちすくむ明日菜をいったん通り過ぎ、そしてスッと戻ってくる。
「がぁあ!」
吠えると同時に中途半端な四つ脚のまま明日菜に向かってくる。
普段の樹なら、明日菜が避けるのは無理なことだっただろう。けれど、何も考えていないこの動きなら、いける。
(バスケで相手をかわすようなものだし!)
明日菜は目を見開いて、樹の動きを読む。彼女を捉えんと伸ばされた腕を掻い潜り、すり抜けざまにスタンガンを押し付けた。
前と同じだ。
バチバチ、バチン! と、爆ぜる音と、青白い光。
「ぎ、ぎ、ぎゃ」
ビクビクと陸に釣り上げられた魚のように身体を跳ねさせる樹に、明日菜はスタンガンを押し付け続けた。
ずいぶん長く感じたけれども、実際には一分も当ててなかったのではないだろうか。
最後にビクンと大きく跳ねた後、樹がくたりと崩れ落ちる。
スウィッチを切ったスタンガンを抱き締めて、明日菜は横たわる彼を見つめた。
動かない。
恐る恐る手を伸ばし、首筋を探ってみる。
(ドラマとかだと、ここで脈をみてるよね)
震える指先で見様見真似で彼が生きている証を求めても、なかなか見つからない。肌は確かに温かいけれども身じろぎ一つしない彼に、明日菜の中に焦りが募る。
(やだ、死んじゃったわけじゃないよね!?)
ほとんど首を絞める勢いで、明日菜は手のひら全体を樹の太い首に押し当てた。
と。
「あった――ッ!」
微かな、拍動。
ようやくそれを見つけて、明日菜はへなへなとへたり込んだ。
けれど、見つけはしたものの、思いの外、それは弱い。もっとドクドクと触れるものかと思っていたけれど。
(これって、スタンガンの所為?)
電撃を与えたせいで、心臓がおかしくなってしまったのだろうか。
樹は相変わらずぐったりと腕を投げ出して横たわったままだ。
揺さぶって起こしてみたくても、脳裏に浮かぶのは常軌を逸した先ほどの樹の姿だ。
(目が覚めたら、元に戻ってる、よね?)
明日菜は眉間に溝を刻んで固く目を閉じた樹を見つめて問いかける。
それは確認というよりも願望だ。
「樹さん……」
つい、ポツリと彼の名前をこぼした時だった。
「う……」
小さな呻き声と共に、樹の睫毛が震える。
明日菜は彼を凝視しながら、手を伸ばして取り落としてしまっていたスタンガンを探す。探り当てたそれを、しっかりと握り締めた。
樹の目蓋が上がり、漆黒の目が現れる。
彼はぼんやりと天井を見つめ、次いで、スイと横に――明日菜の方に、視線を流した。
言葉は、ない。彼が『樹』なのか、それとも別の何かなのか、茫洋としたその眼差しだけでは読み取れない。
明日菜は唾を一度呑み込んで喉を湿らせてから、口を開いた。
「樹、さん?」
ふ、と、彼の目に光が宿る。
「あ、すな?」
その口が、彼女の名前を呟いた。
(樹さんだ)
彼の声で聴く自分の名前は、まるで宝物のようにかけがえのないものに感じられる。ホッと肩を撫で下ろした明日菜は、両手を突いて身を乗り出し、言う。
「身体、大丈夫? あたし、スタンガン当てちゃって……」
「いい。大丈夫だ。君は正しい行動を取った」
答えながら上体を起こした樹の肩が、不意に強張る。片手を額にやって、固く目を閉じた。
「樹さん?」
ためらいがちに声を掛けると、蛇のような素早さで手が伸びてきて、スタンガンを手にしている方の明日菜の腕を掴んだ。
「え?」
戸惑いの眼差しを自分の腕を掴んでいる樹の手に向け、次いで彼の顔に向ける。そこには、何か、とても切羽詰まった――鬼気迫る色が浮かんでいた。
樹は彼女の腕を掴んでいた手をずらしてスタンガンを握ると、その先端を自らの身体に押し当てる。手背に浮かぶ筋、固く食いしばられた顎に、彼の緊張の強さが現れていた。
「樹さん、何して」
「使え」
短い、一言。
唸るようなその言葉に、明日菜は眉をひそめる。
「何、言ってるの?」
「もう一度、使え」
畳みかける樹の目の中に、不穏な光がチラついている。明日菜はドキリとしたけれど、それでも、スタンガンを喰らって痙攣する樹の姿は、もう見たくない。
「ヤだよ」
手を引っ込めようとした明日菜に先んじて、樹の大きな手が彼女の手を押さえ込む。
「やれ」
「でも……」
「やれ!」
空気が震えるほどの一喝に、明日菜はビクンと肩を跳ね上げた。怯える彼女に、樹は身体の奥から込み上げる痛苦を呑み下そうとしているような形相で、告げる。
「頼むから、やってくれ。俺に……お前を殺させないでくれ」
樹のその言葉に、その声に、その眼差しに、明日菜は胸を突かれた。彼の全てに、絶望が溢れ返っている。
目を見開いて樹を凝視する彼女の手から、彼の手が離れていく。
樹はまたスタンガンを握り、自分の身体に押し付けた。その目に狂気の光が走り、消え、また走る。
彼が何かを抑え込もうと力を振り絞っているのが、明日菜にも見て取れた。
「頼む」
繰り返された懇願に、明日菜の指が意思を伴わずに動く。
カチリと音がして、ついさっき目の当たりにした光景が、繰り返される。
「ぐ、が、がぁ」
電撃のせいなのか、それとも彼自身の意志によるものなのか、樹の手は、スタンガンを掴んだままだ。きつく掴んで、自らの身体に突き付け続ける。
どれほどそうしていたか、判らない。
けれど、明らかに、一度目よりも長かったと思う。
感覚が無くなった指から力が抜けて、放電も止まる。ぐったりと横たわる樹の身体は、まるでまだ電気の名残があるかのように、時折ピクリと指先を引きつらせた。
明日菜は樹の横にしゃがみ込み、その手を取る。
しばらくして。
戻ってきた鹿角が目にしたものは、倒れ伏した樹とその隣で泣きじゃくる明日菜の姿だった。